仁左衛門日記

The Diary of Nizaemon

牡丹灯籠・栗橋宿 / 桂歌丸

2018年11月30日 | エンタメ
落語『牡丹灯籠栗橋宿桂歌丸
噺は、「根津清水谷。父・新左衛門が残した家に、二十二歳になる学問好きの萩原新三郎という浪人が住んでいる。父が残した貸し長屋の隣に孫店を建て、伴蔵とお峰の夫婦を住まわせ、家来のように使っていた。ある夜、長屋に住む易の名人と評判の高い陰陽師・白翁堂勇斎が、人の声が気になって雨戸の節穴から新三郎の様子を伺ってみると、まるで骸骨にしか見えない女性と手を取って語り合っている。夜が明けて早速訪ね、人相を見てみると、新三郎の顔にはありありと死相がでているのだった。二人は、末は夫婦にとの約束をしたと言うのだが・・・」という内容。
これは、初代三遊亭圓朝(1839年~1900年)師匠が、中国明代の怪奇小説集『剪灯新話』に収録された小説『牡丹燈記』を翻案した怪奇物語集『御伽婢子』、深川の米問屋に伝わる怪談、牛込の旗本家で聞いた実話などに着想を得て、1864年に創作したという怪談話。
1884年に出された速記本では二十二章から成り立っているとのことだが、近年は六代目三遊亭圓生(1900年~1979年)師匠がまとめた『お露新三郎』、『お札はがし』、『栗橋宿』、『関口屋のゆすり』等に分けて演じられているようだ。
さて、演者の桂歌丸(1936年~2018年)師匠は、五代目古今亭今輔(1898年~1976年)師匠の弟子だったが、一度落語の仕事を離れ、復帰した際には、兄弟子だった四代目桂米丸師匠門下となった。
落語の世界から離れていた期間は、化粧品のセールスマンをしていたそうで、随分と苦労されたようだ。
平成30(2018)年7月2日に逝去された歌丸師匠。
今回聞いたのは57歳の時に収録されたものらしいが、出囃子が『落語研究会』で使われているものだったので、少し驚いたのだった。
この時の歌丸師匠はさすがに髪が黒々としていた。
すでに額が広かったけれども。
(^。^)

もう半分 / 桂米助

2018年11月03日 | エンタメ
落語『もう半分桂米助
噺は、「永代橋のたもとに小さな居酒屋があった。一合一勺ほどの酒を注いで十六文(約200円)で、芋の煮っころがし程度しか出来ない小さな店だ。そこへ行商の老人が毎晩やって来るのだが、この老人は一合の酒を一度に頼まず、まず半分の五勺だけを注文し、飲み終わると"もう半分"とまた五勺を注文するのだった。ある夜、いつもより多く酒を飲んだ老人が風呂敷包みを置き忘れたまま店を出ていった。"また明日も来るだろうからしまっておこう"と包みを持ち上げてみると・・・」という内容。
ずっしりと重いというその包みには五十両ほどの小判が入っていた。
噺の端々から伺えるこの居酒屋の主人は実直で、人間性は良さそうな感じに演じられていたのだが、その女房がどうにも良くないようだった。
亭主をそそのかし、老人の風呂敷包みを騙し取ってしまう。
せっかく地道な商売を心掛けている亭主なのに、女房によってすっかりダークサイドに引きずり込まれてしまったのは残念だ。
さて、演者の桂米助師匠は、四代目桂米丸師匠の弟子。
テレビ番組『笑点』のレギュラーだった兄弟子・桂歌丸(1936年~2018年)師匠の推薦があり、一時、大喜利の座布団運びをしていた時期があるという。
また、"ヨネスケ"とカタカナ表記で活動してもいるのだが、関西においては米助を"ベイスケ"と読まれてしまい、桂米朝(1925年~2015年)師匠門下であると誤解されることが多かったからとのこと。
カタカナ表記の落語家というのは他にはいないのかもしれないが、せっかく知られただろう自分の名前を変えて芸能活動をするだなんて、いろいろな苦労があるものだ。