goo blog サービス終了のお知らせ 

仁左衛門日記

The Diary of Nizaemon

1949年度日本野球リーグ優勝チーム 巨人軍

2013年09月17日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その42)は、【1949年度日本野球リーグ優勝チーム 巨人軍】と書かれたB4版大のポスター。
プロ野球全8球団が1リーグでペナントを争った1949(昭和24)年度のシーズンは、
【優勝】読売ジャイアンツ=134試合85勝48敗1分(勝率.639)・監督三原修(4/16~7/20中島治康が監督代行)=前年度2位
2位=阪急ブレーブス=136試合69勝64敗3分(勝率.519)・監督浜崎真二=前年度4位
3位=大映スターズ=134試合67勝65敗2分(勝率.508)・監督藤本定義=前年度7位
4位=南海ホークス=135試合67勝67敗1分(勝率.500)・監督山本一人=前年度優勝
5位=中日ドラゴンズ=137試合66勝68敗3分(勝率.493)・監督天知俊一=前年度8位
6位=大阪タイガース=137試合65勝69敗3分(勝率.485)・監督若林忠志=前年度3位
7位=東急フライヤーズ=138試合64勝73敗1分(勝率.467)・監督井野川利春=前年度5位
8位=大陽ロビンス=133試合52勝81敗(勝率.391)・監督石本秀一=前年度6位
という結果だったようで、ジャイアンツは2位のブレーブスに16ゲーム差をつけるという圧倒的な強さで優勝を決めている。
ちなみに、このシーズンのジャイアンツの先発メンバーは、1番=セカンド千葉茂、2番ショート白石敏男、3番センター青田昇、4番ファースト川上哲治(全試合)、5番レフト平山菊二、6番サード山川喜作(orライト萩原寛)、7番ライト萩原寛(orサード手塚明治)、8番キャッチャー藤原鉄之助、9番ピッチャーという打順が多かったようだ。
また、1949年シーズンの個人タイトルは、
【最優秀選手(MVP)】藤村富美男(大阪タイガース)
【首位打者】小鶴誠(大映スターズ)打率.361
【本塁打王】藤村富美男(大阪タイガース)46本塁打
【打点王】藤村富美男(大阪タイガース)142打点
【最多安打】藤村富美男(大阪タイガース)187安打
【盗塁王】木塚忠助(南海ホークス)59盗塁
【最優秀防御率】藤本英雄(読売ジャイアンツ)防御率1.94
【最多勝利】ヴィクトル・スタルヒン(大映スターズ)27勝
【最多奪三振】武末悉昌(南海ホークス)183個
【最高勝率】藤本英雄(読売ジャイアンツ)勝率.774
といった選手。
ベストナインに選出されたのは、
投手=藤本英雄(読売ジャイアンツ)
捕手=土井垣武(大阪タイガース)
一塁手=川上哲治(読売ジャイアンツ)
二塁手=千葉茂(読売ジャイアンツ)
三塁手=藤村富美男(大阪タイガース)
遊撃手=木塚忠助(南海ホークス)
外野手=小鶴誠(大映スターズ)・別当薫(大阪タイガース)・大下弘(東急フライヤーズ)
といった選手達だったようである。
そして、このシーズンを最後にプロ野球はパシフィックリーグ(1949年11月26日発足/太平洋野球連盟/現日本プロ野球組織パシフィックリーグ運営部)とセントラルリーグ(セントラル野球連盟/現日本プロ野球組織セントラルリーグ運営部)の2リーグに分裂し、現在に至るのである。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その41)スタルヒン

2013年09月09日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その41)は、【大映 スタルヒン】の野球カード。
ヴィクトル・スタルヒン(1916年~1957年)氏はロシア帝国生まれで、日本プロ野球初の通算300勝を達成した投手(右投げ右打ち)である。
詳しく調べてみると、スタルヒン投手はロシア革命後の1925(大正14)年に一家で日本に亡命し、北海道庁立旭川中学校(現北海道旭川東高等学校)を経て、メジャーリーグ選抜チームと対戦する全日本チームに所属した。
その昭和9年日米野球の第17戦(1934年11月29日/埼玉県営大宮公園野球場)の8回から登板したのがプロ野球選手としての初出場だったようである。
翌1935(昭和10)年の大日本東京野球倶楽部アメリカ遠征にも参加し、帰国後もそのまま東京巨人軍(現読売ジャイアンツ)に所属。
第2回全日本野球選手権・名古屋大会の対東京セネタース戦(1936年10月4日/鳴海球場)ではプロ初先発を果たしている。
日本に帰化できなかったことから無国籍だったので、徴兵されることはなかったものの、"敵性人種"として軽井沢へ軟禁されたとのこと。
日本国籍を取得できないとはいえ、昭和15(1940)年には"須田博(すたひろし)"と改名し、帰る所などどこにもない人なのにまったく残酷な仕打ちであると思う。
戦後は、パシフィック(1946年)・太陽ロビンス(1947年)→金星スターズ(1947年~1948年)・大映スターズ(1949年~1953年)→高橋ユニオンズ(1954年)・トンボユニオンズ(1955年)に所属し、プロ野球選手として19年間活躍、戦前戦後を通じて303勝の勝利数を残している。
スタルヒン投手の生涯記録(1936年~1944年・1946年~1955年)は、登板試合586、303勝176敗(完投350、完封83)、投球回数4175.1、勝率.633、防御率2.09、奪三振1960。
タイトルは、【最優秀防御率】1938(昭和13)年秋(1.05)、【最多勝利】1937(昭和12)年秋=15勝・1938年春=14勝・1938年秋=15勝・1939(昭和14)年=42勝・1940年=38勝・1949(昭和24)年=27勝、【最多奪三振】1938年秋=146・1939年=282(当時は連盟表彰無し)、【最高勝率】1938年秋=.905・1940年=.760、といった多くのタイトルを獲得しており、1939(昭和14)年にあげた"42勝"という勝利数と"通算83完封勝利"は日本プロ野球記録である。
また、1937(昭和12)年7月3日の対イーグルス戦(洲崎球場)において、史上2人目のノーヒットノーランを記録している(東京巨人軍4-0イーグルス)。
表彰は、1939年と1940年に【最高殊勲選手(MVP)】、1940年に【ベストナイン】の表彰を受け、1960年に競技者表彰として【野球殿堂入り】を果たしている。
背番号は、18(1935年)→17(1936年~1943年・1946年~1947年)→18(1948年)→17(1949年~1955年)。
スタルヒン投手の背番号は永久欠番にはなっていないが、旭川市花咲スポーツ公園硬式野球場に【スタルヒン球場】(Asahikawa Starffin Stadium)との愛称がつけられて、その功績が称えられている。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その40)ロビンス渡辺

2013年08月21日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その40)は、【太陽 渡辺】の野球カード。
調べてみると、渡辺誠太郎(1922年~)氏は右投げ右打ちの投手(秋田県出身)で、1941(昭和16)年に阪神軍(現阪神タイガース)に入団した。
ルーキーイヤーは1登板したのみで勝敗はつかなかったが、2年目の対黒鷲戦(1942年4月13日/後楽園球場)において「7番ピッチャー」で初先発出場を果たしている。
1944(昭和19)年に召集され、戦後1946(昭和21)年の大阪タイガース(現阪神タイガース)復帰後は、大陽ロビンス(1948年~1950年)→大洋ホエールズ(1951年)で活躍したようである。
渡辺投手の生涯記録(1941年~1943年・1946年~1951年/9年間)は、登板試合149、30勝34敗(完投18、完封4)、投球回数637.0、勝率.469、防御率3.79、奪三振158(奪三振率2.23)。
また、一塁手としての出場もあったようで、打撃成績としては出場試合219、打数449、安打113、本塁打3、打点47、打率.252、出塁率.279といった記録が残っているようである。
背番号は、23(1941年~1943年・1946年~1947年)→17(1948年~1950年)→28(1951年)。
この野球カードにある"太陽"は1947(昭和22)年1シーズンのみの名称で、1948(昭和23)年には漢字を"太"→"大"に変更し"大陽"となっている。
タケカズ少年所有の野球カードは1948年と1949(昭和24)年のものだと思っているのだが、中には1947年シーズンの野球カードもあるのか、あるいは印刷ミスか、さてどちらだろう。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その39)ロビンス真田

2013年08月05日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その39)は、【ロビンス 真田投手】の野球カード。
"ロビンス"とは、大東京軍(1936年~1937年春)→ライオン軍(1937年秋~1940年)→朝日軍(1941年~1945年)→パシフィック(1946年)→太陽ロビンス(1947年)→大陽ロビンス(1948年~1949年)→松竹ロビンス(1950年~1952年)→大洋松竹ロビンス(1953年/大洋ホエールズと対等合併)と変遷した球団のことで、"真田投手"とは、右投げ右打ちの投手・真田重蔵(1923年~1994年)氏(和歌山県出身)のことだろうと思う。
真田投手は海草中学校(現向陽高校)卒業後、1943(昭和18)年に朝日軍に入団したが、同時に日本大学大阪専門学校(現近畿大学)にも学籍を置いていたことから、学徒出陣により海軍への入隊を余儀なくされたらしく、戦前の活躍はその1シーズンだけだったようだ。
戦後は、1946(昭和21)年にパシフィックに入団して6年間在籍し、1952年には大阪タイガース(現阪神タイガース)に移籍している。
真田投手の生涯記録(1943年・1946年~1956年/12年間)は、登板試合416、178勝128敗(完投211、完封39)、投球回数2717.0、勝率.582、防御率2.83、奪三振1083(奪三振率3.59)。
ただし、1956(昭和31)年のシーズンは投手としての出場はなく、三塁手として77試合に出場している。
打者としての生涯記録は、出場試合667、打数1386、安打353、本塁打12、打点182、打率.255、出塁率.309、盗塁15(成功率88.2%)。
1946(昭和21)年に当時の連盟表彰はなかったものの"最多奪三振"のタイトルに該当する成績(奪三振200)をあげており、1950(昭和25)年には39勝で最多勝のタイトルを初獲得して、同年に沢村賞を受賞している。
対大阪タイガース戦(1948年9月6日/阪神甲子園球場)と対広島カープ戦(1952年5月7日/阪神甲子園球場)において2回のノーヒットノーラン試合を記録しており、1990(平成2)年には野球殿堂入り(競技者表彰)を果たした。
背番号は、18(1943年・1946年~1951年)→6(1952年~1953年)→5(1954年~1956年)を変わっており、また、登録名も1948年9月26日~1954年までの期間は真田重男としていたようである。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その38)スターズ池田

2013年08月03日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その38)は、【大映 池田投手】の野球カード。
調べてみると、池田善蔵(1923年~)氏は右投げ右打ちの投手(広島県出身)。
1947(昭和22)年に太陽ロビンスに入団し、ルーキーながらシーズン開幕戦の対大阪タイガース(現阪神タイガース)戦(1947年4月18日/阪神甲子園球場)で初先発を果たしている。
1948(昭和23)年に金星スターズに移籍したが、そのシーズンの対大阪タイガース(現阪神タイガース)戦(1948年10月2日/阪神甲子園球場)では、ミスタータイガース藤村富美男選手に日本初となるサイクルヒットを提供しているようだ。
池田投手が2年目に所属した"金星スターズ"という球団は映画会社の大映株式会社に買収され、1949(昭和24)年からは"大映スターズ"となったのだが、この野球カードは、1リーグ制最後のシーズンとなったその1949年のものだろうと思う。
スターズ在籍は3年間で、1952(昭和27)年には阪急ブレーブスに移籍している。
池田投手の生涯記録(1947年~1954年/8年間)は、登板試合195、46勝68敗(完投53、完封4)、投球回数1021.2、勝率.404、防御率3.72、奪三振384(奪三振率3.38)。
背番号は、9(1947年)→24(1948年)→14(1949年~1951年)→20(1952年~1954年)と変わったようだ。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その37)ブレーブス今西

2013年07月31日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その37)は、『阪急 今西投手』の野球カードとブロマイド。
調べてみると、今西錬太郎(1924年~)氏は1946(昭和21)年に阪急軍(現オリックスバファローズ)に入団した右投げ右打ちの投手(大阪府出身)。
プロ野球が2リーグに分裂した1950(昭和25)年には新球団・大洋ホエールズ(現横浜DeNAベイスターズ)に移籍し、その後も阪急ブレーブス(1953年/現オリックスバファローズ)→東映フライヤーズ(1954年~1955年)で活躍したようだ。
今西投手の生涯記録(1946年~1955年)は、登板試合315、88勝102敗(完投109、完封14)、投球回数1690.1、勝率.463、防御率3.23、奪三振491(奪三振率2.61)。
背番号は、8(1946年)→16(1947年~1949年)→18(1950年~1952年)→47(1953年)→18(1954年~1955年)と変わっているのだが、1946(昭和21)年から1949(昭和24)年までの4年間に70勝をあげていることから、ホエールズ移籍時の背番号18には相当な期待が込められていたのだろうと想像する。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その36)ブレーブス岩本

2013年07月30日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その36)は、【阪急 岩本左翼手】の野球カード。
調べてみると、岩本章(1921年~1993年)氏は、右投げ右打ちの外野手(高知県出身)。
1938(昭和13)年に東京巨人軍(現読売ジャイアンツ)に入団したものの出場機会には恵まれなかったようで、翌1939(昭和14)年シーズン途中に名古屋軍(現中日ドラゴンズ)に移籍している。
新チームで活躍の場を得たのか、1943(昭和18)年には本塁打王(4本)のタイトルを獲得しているのだが、この頃は戦争による極端な物資不足からボールの質が低下し、本塁打数が激減したことにより本来の長距離打者以外のタイトル獲得につながったのではないかと想像する。
また、戦後は1946(昭和21)年に中部日本(現中日ドラゴンズ)に入団、1948(昭和23)年に阪急ブレーブス、1950(昭和25)年には2リーグ分裂の際の新球団・広島カープ(現広島東洋カープ)へ移籍した。
そのセリーグ発足初年度の開幕戦"西日本パイレーツvs広島カープ"(1950年3月10日/平和台球場)では、第1打席でパイレーツの先発・緒方俊明投手から記念すべきセリーグ初安打を記録し、さらにはセリーグ初盗塁も記録しているとのことである。
前年のブレーブス在籍時は「9番レフト」での出場が多かったのだが、このシーズンは「2番レフト」や「3番レフト」での起用が多く、この開幕戦も「2番レフト」での先発出場だった。
岩本選手の生涯記録(1938秋・1939年~1944年・1946年~1953年/通算15年)は、出場試合949、打数2838、安打639、本塁打47、打点274、打率.225、出塁率.314、盗塁102(成功率73.4%)。
現役選手時代の背番号は、6(1938年~1939年途中)→20(1939年途中から1943年・1946年~1947年)→15(1948年)→26(1949年)→7(1950年~1953年)と変わっているので、背番号から判断すると、この野球カードは1948年シーズンの姿だと思われる。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その35)ブレーブス中谷

2013年07月28日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その35)はチーム名が無く、ただ【中谷】とだけ文字がある野球カード。
ユニフォームに"Vraves"と見えるので、"阪急ブレーブス"(現オリックスバファローズ)の中谷選手であろうと思う。
調べてみると、中谷準志(1918年~1970年)氏は、右投げ右打ちの内野手(和歌山県出身)。
1938(昭和13)年にライオン軍(1937年~1940年→1941年~1944年/朝日軍に改称)に入団。
戦後は1946(昭和21)年にパシフィック(1947年/太陽ロビンスに改称→1948年/大陽ロビンスに改称)に入団したが、1949(昭和24)年に阪急ブレーブスに移籍し、1955年からは西鉄ライオンズでプレーした。
中谷選手の生涯記録(1938秋・1942年~1943年・1946年~1957年/通算15年)は、出場試合1224、打数4131、安打1083、本塁打94、打点584、打率.262、出塁率.334、盗塁144(成功率64.4%)。
この野球カードは阪急ブレーブスに移籍した年(1949年)のものだと思うのだが、この年のブレーブスは136試合中103試合を「3番ライト玉腰・4番サード中谷」でオーダーを組んでいたようで、136試合69勝64敗3分、勝率.519で1リーグ制最後のシーズンを2位で終えている(優勝は134試合85勝48敗1分、勝率.639の読売ジャイアンツ)。
ベストナイン表彰を1回(1950年)、オールスターゲーム出場を3回(1951年・1952年・1955年)果たし、対大映スターズ戦(1955年4月7日/平和台球場)では史上30人目となる通算1000試合出場を達成している。
現役選手時代の背番号は、3(1938年秋)→23(1942年~1943年)→5(1946年~1948年)→9(1949年~1954年)→2(1955年~1957年)。
また、登録名も中谷順次(1938年~1952年)→中谷演男(1953年)→中谷準志(1954年~)と変更していたようだ。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その34)スターズ西澤

2013年07月27日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その34)は、【金星 西澤一塁手】の野球カード。
聞いたことが無い名前だったので調べてみると、西澤道夫(1921年~1977年)氏は、右投げ右打ちの投手であり一塁手(東京府出身)。
1936(昭和11)年12月に名古屋軍(現中日ドラゴンズ)のテストを受けて入団したものの、16歳に達するまでは練習生の扱いとされて公式戦への出場は叶わず、1937(昭和12)年秋リーグの対金鯱戦(1937年9月5日/洲崎球場)でようやく初登板を果たしたらしいのだが、この満16歳4日での公式戦出場は現在も日本プロ野球史上最年少記録とのことである。
1940(昭和15)年のシーズンで20勝をあげ、1942(昭和17)年には対阪急軍戦(1942年7月18日/後楽園球場)で史上9人目となるノーヒットノーラン試合を達成する等の活躍も見せたらしいが、太平洋戦争後は1946(昭和21)年に中部日本軍(現中日ドラゴンズ)に復帰したものの好成績は残せなかったようである。
1946年シーズン途中にゴールドスターへと移籍した際に一塁手に転向したが、1949(昭和24)年シーズンには再度中日ドラゴンズに復帰、その後は打者として活躍し、1952(昭和27)年のシーズンでは首位打者(打率.353)と打点王(98打点)の2冠を獲得している。
打者としての生涯記録(1937年~1943年・1946年~1958年)は、出場試合1704、打数5999、安打1717、本塁打212、打点940、打率.286、出塁率.343、盗塁56(成功率65.1%)。
投手としての生涯記録(1937年~1943年・1946年~1947年)は、登板試合231、60勝65敗(完投66、完封11)、投球回数1297.0、勝率.480、防御率2.23、奪三振404(奪三振率2.80)。
背番号は、0(1937年春)→14(1937年春)→5(1937年春~1937年秋)→17(1938年~1943年・1946年)→23(1946年途中~1947年)→15(1948年~1958年)と変わっているが、公式戦出場はなかったものの日本で初めて"背番号0"をつけたのが、この西澤選手らしい。
1977(昭和52)年に競技者表彰として野球殿堂入りしているほか、"背番号15"は中日ドラゴンズの永久欠番となっている。
この野球カードは"金星 西澤一塁手"だが、金星スターズ在籍時にはさほどの活躍はなかったようである。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その33)スターズ玉腰

2013年07月26日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その33)は、【金星 玉腰右翼手】の野球カード。
"金星"とは1946(昭和21)年に発足した【ゴールドスター】が、1947(昭和22)年の球団ニックネーム採用時に【金星スターズ】と改称した球団。
その後、映画会社の大映株式会社に買収され"大映スターズ"となったことから、"金星スターズ"という球団は1947(昭和22)年と1948(昭和23)年の2シーズンしか存在しなかった。
調べてみると、玉腰忠義(1920年~1957年)氏は、1940(昭和15)年にイーグルス(1937年春・同年秋/後楽園イーグルス→1938年春~1940年10月5日/イーグルス→1940年10月6日~1942年/黒鷲軍→1942年~1943年/大和軍→解散)に入団した右投げ右打ちの外野手(愛知県出身)。
従軍後は1947年にゴールドスターでプロ野球に復帰、1949(昭和24)年に阪急ブレーブス(現オリックスバファローズ)に移籍した。
しかし、シーズン中に結核を発病したらしく、翌1950(昭和25)年は23試合に出場したものの療養生活に入り、再度の復帰を果たせないまま1957(昭和32)年に永逝したとのことである。
初スタメン出場は、対東京巨人戦(1940年6月18日/後楽園球場)での"7番ライト"。
玉腰選手の生涯記録(1940年~1942年・1947年~1950年)は、出場試合507、打数1768、安打469、本塁打24、打点196、打率.265、出塁率.347、盗塁70(成功率81.4%)だが、投手としても(1940年~1941年)、登板試合10、1勝6敗(完投6、完封1)、投球回数71.1、勝率.143、防御率3.50、奪三振12という記録を残している。
背番号は、34(1940年~1942年)→8(1947年~1948年)→27(1949年~1950年)。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その32)ホークス山本

2013年07月25日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その32)は【南海 山本監督】の野球カード。
山本一人(鶴岡一人/1916年~2000年)氏は広島県呉市出身の内野手(右投げ右打ち)で、1944(昭和19)年から1958(昭和33)年までの14年間は(結婚により)山本姓を名乗っていたようだ。
また、1946(昭和21)年から1952(昭和27)年までの7年間、選手兼任監督として活躍していることから、1948(昭和23)年か1949(昭和24)年のものと思われるこの野球カードでは"南海 山本監督"となっているわけである。
詳しく調べてみると、山本氏は1946(昭和21)年から1968(昭和43)年までの通算23年間(30歳→52歳)を南海ホークス(1946年はグレートリング)の監督として指揮をとり、2994試合、1773勝、1140敗、81引分け、勝率.609、優勝11回(1946年・1948年は1リーグ制、1951年・1952年・1953年・1955年・1961年・1965年・1966年はパリーグ優勝、1959年・1964年は日本シリーズ優勝)という素晴らしい成績を残している。
選手としては(1939年・1946年~1952年/通算8年)は、出場試合754、打数3106、安打790、本塁打61、打点467、打率.295、出塁率.390、盗塁143(成功率81.7%)の生涯記録を残し、本塁打王のタイトルを1回(10本/1939年)、打点王のタイトルも1回(95打点/1946年)獲得している。
最高殊勲選手(MVP)として3回(1946年・1948年・1951年)表彰されているほか、1965(昭和40)年には野球殿堂入りを果たした。
背番号は、5(1939年)→1(1946年)→30(1947年~1965年)→31(1966年~1968年)。
プロ野球の史上最多勝監督とのことである。
素晴らしい。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その31)西軍中谷

2013年07月17日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』が随分と多くなったことから、「タケカズ少年の懐かしコレクション」というカテゴリーを新たに作って独立させてしまった。
(^。^)
そして、(その31)は【西軍 中谷投手】との表記がある野球カード。
"西軍"とは1937(昭和12)年から1949(昭和24)年までの13年間、日本野球連盟が主催して開催された対抗試合"職業野球東西対抗戦"の1チーム。
現在のプロ野球オールスター戦は"セントラルリーグvsパシフィックリーグ"だが、この当時は1リーグ制だったので、所属球団を地域で分けて、"東軍vs西軍"としたらしい。
帽子の"n"のマークとウィンドブレーカーの鳥のマークから判断すれば、どうやら中西投手は"南海ホークス"(現福岡ソフトバンクホークス)の所属だったようだ。
詳しく調べてみると、中谷信夫(1920年~1992年)氏は京都府京都市出身、左投げ右打ちの投手。
立命館大学を卒業後、門司鉄道局(現JR九州硬式野球部)を経て、南海ホークスに入団している。
中谷投手の生涯記録(1947年~1955年)は、登板試合315、90勝76敗(完投59、完封17)、投球回数1500.0、勝率.542、防御率3.05、奪三振577(奪三振率3.46)で、南海ホークスがパリーグ優勝を果たした1951(昭和26)年シーズンには、最高勝率(.875)のタイトルを獲得している。
現役選手時代の背番号は、20だったようだ。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その30)ホークス安井

2013年06月14日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その30)は、南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)安井選手の野球カード。
安井亀和(1920年~1998年)氏は右投げ右打ちの二塁手で、和歌山県出身。
調べてみると、明治大学卒業後の1943(昭和18)年に南海軍に入団し、対阪神軍(1943年10月20日/阪急西宮球場)において「9番セカンド」で初先発出場している。
1944(昭和19)年に召集され、1946(昭和21)年にグレートリング(旧南海軍)に復帰。
このシーズンはほぼ「1番セカンド」で固定され、グレートリングの日本一に貢献したようだ。
プロ野球が2リーグに分裂した1950(昭和25)年から大洋ホエールズ(1953年は大洋松竹ロビンス)、1954(昭和29)年から高橋ユニオンズ(1955年はトンボユニオンズ)でプレーし、1955(昭和30)年を最後に引退した。
生涯記録(1943年・1946年~1955年)は、出場試合937、打数3151、安打711、本塁打14、打点225、打率.226、出塁率.336、盗塁170(成功率66.9%)。
背番号は、11(1943年・1946年~1948年)→4(1949年)→7(1950年~1953年)→1(1954年)→41(1955年)だったようだ。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その29)ホークス柚木

2013年06月12日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その29)は、南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)柚木選手の野球カード。
柚木進(1920年~1997年)氏は、左投げ左打ちの投手(広島県呉市出身)。
フライヤーズ白木投手タイガース若林投手もそうだったが、投手なのに何故かバッティングフォームの野球カードである。
調べてみると、柚木投手の南海ホークス入団は28歳になっていた1948(昭和23)年と随分遅かったのだが、これは法政大学在学時に学徒出陣し、終戦後は帰国を果たすまでシベリアでの抑留生活を余儀なくされていたかららしい。
柚木投手の生涯記録(1948年~1956年)は、登板試合281、123勝64敗(完投69、完封15)、投球回数1511.2、勝率.658、防御率2.49、奪三振728(奪三振率4.33)。
通算9年間の現役生活の中で一番活躍したのは、南海ホークスがパシフィックリーグで優勝した1952(昭和27)年のシーズンのようで、このシーズンは最高勝率(.731)と最優秀防御率(1.91)のタイトルを獲得し、パリーグMVP(最優秀選手)にも輝いている。
最優秀防御率は、1951(昭和26)年シーズンの(防御率2.08)タイトル獲得に続き2年連続のことだった。
また、パリーグが最多奪三振の表彰を開始したのは1989(昭和64)年からなので当時の表彰は無かったのであるが、柚木投手の奪三振104は、現在だと最多奪三振の表彰対象とのことである。
現役選手時代の背番号は、21(1948年~1956年)。
シーズン20勝を達成することは出来なかったものの3年連続で19勝をあげるなど、プロ野球が2リーグに分裂した当時のホークスのエースだったようである。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その28)ホークス木塚

2013年06月07日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その28)は、南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)木塚選手の野球カード。
調べてみると、木塚忠助(1924年~1987年)氏は右投げ右打ちの内野手で、佐賀県唐津市出身。
鉄道省門司鉄道局から南海ホークスに入団し、1948(昭和23)年シーズン開幕戦・対大阪タイガース(1948年4月4日/鳴海球場)ではルーキーながらに先発出場を果たしているのだが、このシーズンは1年を通して"7番ショート"が定位置だったようで、この年の南海ホークス日本一に貢献したようである。
生涯記録(1948年~1959年)は、出場試合1288、打数4647、安打1216、本塁打42、打点360、打率.262、出塁率.299、盗塁479(成功率80.8%)。
1949(昭和24)年から1952(昭和27)年まで4年連続で盗塁王のタイトルを獲得しており(1949年は1リーグ制、1950年~1952年はパシフィックリーグ)、また、まだタイトルとしての表彰がされていなかったものの1951(昭和26)年には最多安打(130)を記録している。
現役選手時代の背番号は、3(1948年~1949年/南海ホークス)→14(1950年~1956年/南海ホークス・1957年~1958年/近鉄パールス・1959年/近鉄バファロー)。
俊足・強肩の素晴らしい内野手だったようである。