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仁左衛門日記

The Diary of Nizaemon

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その27)ホークス河西

2013年06月05日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その27)は、南海ホークス(現福岡ソフトバンクホークス)河西選手の野球カード。
解像度が低くて判りにくい野球カードなのだが、野球場のスタンドからあふれた観客がフェンスなどお構い無しにグラウンド内に座り込んでいるようにも見える。
何だか凄い状況が背景として写っているようだ。
さて、この「南海 河西中堅手」について調べてみると、河西俊雄(1920年~2007年)氏は右投げ右打ちの外野手で、兵庫県姫路市出身。
1946(昭和21)年にグレートリング(→南海ホークス:1947年6月1日~1988年→福岡ダイエーホークス:1989年~2004年→福岡ソフトバンクホークス:2005年~現在)に入団し、1946年から1948(昭和23)年まで3年連続で盗塁王を獲得したようなので、このカードの構図には納得だ。
(^_^)
生涯記録(1946年~1955年)は、出場試合771、打数2524、安打652、本塁打11、打点183、打率.258、出塁率.323、盗塁233(成功率79.3%)。
グレートリングが"26-0"で圧勝した対ゴールドスター戦(1946年7月15日/高岡工専グラウンド)では、"1番センター"で先発出場し、1試合6盗塁を記録したようである。
現役選手時代の背番号は、27(1946年~1950年途中)→18(1950年途中~1952年)→31(1953年~1955年)。
プロ野球が2リーグに分裂した1950(昭和25)年シーズン途中に、大阪タイガース(現阪神タイガース)へ移籍したらしい。
それにしても、プロ野球の興行が球場だけではなく、グラウンドでも行われていたとは面白い。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その26)タイガース若林

2013年05月24日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その26)は、大阪タイガース(現阪神タイガース)若林選手の野球カード。
若林忠志(Tadashi Henry Wakabayashi/1908年~1965年)氏は右投げ右打ちの投手で、アメリカ合衆国ハワイ州生まれ(ハワイ移民の日系2世)。
調べてみると、マッキンレー・ハイスクール在学時に親善試合で来日した若林投手を法政大学が勧誘し、入学後は43勝28敗(87試合)の通算成績をあげて、同校を3度の優勝に導く大活躍をしている。
実業団チームを経由し、自身28歳の1936(昭和11)年に誕生した大阪タイガースに入団した。
タイガース球団初勝利は前日の藤村富美雄投手だったが、開幕第2戦・対名古屋金鯱(1936年4月30日/阪神甲子園球場)では"8番ピッチャー"で先発出場し、17-3のスコアで勝利したことから勝ち投手となっている。
若林投手の生涯記録(1936年~1944年・1946年~1951年・1953年)は、登板試合528、237勝144敗(完投263、完封57)、投球回数3557.1、勝率.622、防御率1.99、奪三振1000(奪三振率2.53)。
1939(昭和14)年に最優秀防御率(防御率1.09)と最高勝率(勝率.800)、1944(昭和19)年にも最優秀防御率(防御率1.56)と最高勝率(勝率.846)、また、1944年には同時に22勝(4敗)で最多勝利投手のタイトルを獲得しているが、選手でありながら監督も兼任(1942年~1944年・1947年~1949年)するという活躍ぶりだったようで、MVPを2回(1944年・1947年)受賞し、1964(昭和39)年には野球殿堂入りを果たしている。
背番号は、18(1936年~1943年・1946年/大阪タイガース・阪神軍)→30(1947年~1949年/大阪タイガース)→33(1950年~1953年/毎日オリオンズ)。
事業家としての一面も持ち合わせたようで、1948(昭和23)年には自身が監修・発行人の雑誌『ボールフレンド』、子供のためには『少年ボールフレンド』を発行し、また、"タイガース子供の会"を個人で立ち上げる等の活動をしていたとのことで、阪神タイガース球団は2011(平成23)年から、チーム内において優秀な社会貢献活動をした者を表彰する【若林忠志賞】を創設したとのことである。
若林投手がつけた背番号が永久欠番でないことを残念に感じるほど、素晴らしい人だったようだ。
しかし、この野球カードは何故にバッティングフォームの写真なのだろう。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その25)タイガース別当

2013年05月22日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その25)は、大阪タイガース(現阪神タイガース)別当選手の野球カード。
別当薫(1920年~1999年)氏は、右投げ右打ちの外野手(兵庫県西宮市出身)。
調べてみると、1946(昭和21)年秋に慶應義塾大学を繰上卒業した後、ノンプロを経て、1948(昭和23)年から大阪タイガースで活躍し、プロ野球が2リーグに分裂して以降はパシフィックリーグの毎日オリオンズ(1950年~1957年)で活躍したようである。
別当選手の生涯記録(1948年~1957年)は、出場試合891、打数3191、安打965、本塁打155、打点549、打率.302、出塁率.366、盗塁186(成功率74.1%)。
新球団オリオンズ移籍後の1950(昭和25)年シーズンに、本塁打王(43本)と打点王(105点)の2冠を獲得してパリーグMVPに選出され、所属の毎日オリオンズが初代日本一の栄誉に輝いた同年日本シーリーズ(4勝2敗/対松竹ロビンス)でも活躍したようで、日本シリーズMVPをも獲得している。
"4番センター"だった1951(昭和26)年7月26日の対近鉄パールス戦(後楽園球場)において「1イニング3盗塁」を記録しているが、これはプロ野球記録。
現役選手時代の背番号は、25(1948年~1956年)→50(1957年)。
現役引退後の1988(昭和63)年に野球殿堂入りを果たしたようである。
長いバットで有名なのは"物干し竿の藤村"のはずだが、この野球カードを見る限りにおいては、別当選手のバットも随分と長いように見える。
(^_^)

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その24)タイガース呉

2013年05月10日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その24)は、大阪タイガース(現阪神タイガース)呉(ご)選手の野球カード。
これは、黒尾投手(東急フライヤーズ)、鈴木捕手(東急フライヤーズ)等と同様、野球カードというよりもブロマイドと表現して良いほどの大きさだ。
調べてみると、呉昌征(ごしょうせい/1916年~1987年)氏は左投げ左打ちの外野手(台湾台南市出身)で、日本に帰化したことにより本名を呉波(ごは)から石井昌征に改名したとのことである。
外野手ではあるものの投手も勤めたようで(1940年・1946年~1949年)、登板試合31、15勝7敗(完投17、完封2)、投球回数199.0、勝率.682、防御率3.48、奪三振66(奪三振率2.98)という記録が残っているが、投手専門でないにもかかわらず、なんと、史上14人目となるノーヒットノーラン(1946年6月16日/対セネタース/阪急西宮球場)を達成しているのだから驚きである。
打者としては、出場試合1700、打数4867、安打1326、本塁打21、打点389、打率.272、出塁率.379、盗塁381(成功率82.5%)の生涯記録(1937年~1944年・1946年~1957年)を残しており、1942(昭和17)年には"打率.286"で、1943(昭和18)年には"打率.300"で首位打者のタイトルを獲得している。
首位打者の割りに記録した打率が低いのは、戦争の影響で極端に物資が不足し、ボールなど野球用具の品質が著しく低下したことが原因であるらしい。
また、1944(昭和19)年には呉新亨選手(東京巨人軍)とともに盗塁王(19盗塁)のタイトルも獲得しているが、前年の1943年には54盗塁を記録してもタイトル獲得が出来なかったのだから、巡り合わせというのは何とも不思議なものである。
東京巨人軍(1937年~1943年)→阪神軍(1944年)・大阪タイガース(1946年~1949年)→毎日オリオンズ(1950年~1957年)と移籍し、背番号は、23(1937年~1943年・1946年~1956年)→53(1957年)と変わった。
2回目の首位打者を獲得した1943年にはMVPも獲得、引退後の1995(平成7)年には野球殿堂入りを果たしているらしい。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その23)西軍本堂

2013年05月09日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その23)は、西軍・本堂選手の野球カード。
西軍とは、職業野球東西対抗戦のために編成された混成チームのことで、本堂保次(本名:安次/1918年~1997年)氏は大阪タイガースの所属。
東西対抗戦は1937(昭和12)年から1949(昭和24)年まで毎年実施されていたようで、太平洋戦争の戦局悪化のためにリーグ戦開催が中止になった1945(昭和20)年にも、終戦後の11月から12月にかけて計5試合実施されたようである。
プロ野球がセントラルリーグとパシフィックリーグに分裂した1950(昭和25)年は実施されず、翌1951(昭和27)年から同趣旨のオールスターゲームが開催されている。
さて、調べてみると、本堂選手は右投げ右打ちの二塁手のようだったが、この野球カードには「西軍 本堂一塁手」と印字されているので、複数のポジションをこなせる器用な選手だったのかもしれない。
本堂選手の生涯記録(1937年~1940年・1944年・1946年~1957年)は、出場試合1374、打数4754、安打1242、本塁打58、打点588、打率.261、出塁率.323、盗塁145(成功率74.0%)。
大阪タイガース(1937年~1939年)・阪神軍(1940年~1946年)・大阪タイガース(1947年)→大陽ロビンス(1948年)→大阪タイガース(1949年)→毎日オリオンズ(1950年~1958年)と移籍し、現役時代の背番号は、24(1937年~1940年・1946年~1947年)→8(1948年)→24(1949年~1955年)→30(1956年)→54(1957年)と変わっている。
1944年は、全球団で背番号が使用されなかった年のようである。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その22)タイガース長谷川

2013年05月08日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その22)は、大阪タイガース(現阪神タイガース)長谷川選手の野球カード。
調べてみると、長谷川善三(1923年~1998年)氏は右投げ右打ちの遊撃手(鳥取県出身)だったようだが、1941(昭和16)年の南海軍入団の際は投手だったようで、登板試合14、0勝3敗(完投0)、投球回数43.0、防御率2.93、奪三振8という記録がある。
野手としての初スタメンは、対大和軍(1942年10月3日/阪急西宮球場)での「9番サード」。
出場試合927、打数2721、安打569、本塁打12、打点207、打率.209、出塁率.270、盗塁44(成功率61.1%)という生涯記録が残っているが、1943年(18犠打)・1947年(16犠打)・1950年(15犠打)の犠打数はリーグ最多だったようで、どちらかというと守備の人だったようだ。
戦後は、戦前に所属していた南海軍(1941年~1943年)とは契約せず、旧制鳥取県立米子中学校の先輩・土井垣捕手がいた大阪タイガース(1946年~1949年)に入団し、2リーグ制になった1950(昭和25)年以降は、西鉄クリッパース(1950年)・西鉄ライオンズ(1951年)、毎日オリオンズ(1952年~1953年)、高橋ユニオンズ(1954年)で活躍したようである。
現役時代の背番号は、20(1941年~1943年)→9(1946年~1949年)→5(1950年)→9(1951年)→2(1952年~1953年)→3(1954年)。
カードを見比べると、スタンドに座っている観客の姿が同じようなので、この2枚は連続して撮影した写真を使ったものなのだろうと思う。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その21)タイガース藤村

2013年05月07日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その21)は、大阪タイガース(現阪神タイガース)藤村選手の野球カード。
仁左衛門は、テレビ時代劇『新・必殺仕置人』(1977年)において寅の会元締・虎を演じた俳優としての姿を見た記憶がある程度で、現役時代の活躍はマッタク知らないのだが、調べてみると、藤村富美男(1916年~1992年)氏は右投げ右打ちの三塁手(広島県呉市出身)で、この度国民栄誉賞を受賞した松井秀喜(1974年~)氏などはその足元にも及ばない素晴らしい選手であり、同時受賞の長嶋茂雄(1936年~)氏が少年時代にそのプレースタイルにあこがれたというスーパースター、【ミスタータイガース】なのだった。
大阪タイガースの創設時(1935年)に投手として入団した藤村選手は、日本職業野球連盟主催による【第1回日本職業野球リーグ戦・甲子園大会】(1936年4月29日~5月4日)での第1戦・対名古屋金鯱軍(1936年4月29日/阪神甲子園球場)で初先発して1安打完封勝利を飾り、タイガースの初公式戦で勝利投手となってもいるようで、投手として登板試合76、34勝11敗(完投14、完封4)、投球回数345.1、勝率.756、防御率2.35、奪三振183(奪三振率4.77)の生涯記録を残している。
打者としては、首位打者(1950年)、本塁打王(1936年秋・1949年・1953年)、打点王(1944年・1947年・1948年・1949年・1953年)のタイトルを獲得し、なんと、サイクルヒットを2回(1回目:1948年10月2日/対金星スターズ/甲子園球場、2回目:1950年5月25日/対広島カープ/阪神甲子園球場)も達成させているのは素晴らしい。
選手兼監督としても活躍したようであるが、出場試合1558、打数5648、安打1694、本塁打224、打点1126、打率.300、出塁率.374、盗塁103(成功率72.5%)という生涯記録を残しており、1リーグ制最後の1949年シーズンにはMVPを獲得、引退後の1974年には野球殿堂入りを果たしている。
戦前はもちろん、戦後も"物干し竿の藤村"として、"赤バットの川上"、"青バットの大下"と共に一時代を築いた選手であるのだが、戦争に巻き込まれさえしなければ、もっともっと素晴らしい記録を残していたに違いない選手の一人だろう。
背番号10はタイガースの永久欠番になっている。
つまり、タイガースの「10」は、藤村選手ただ一人しか背負ったことがない背番号なのである。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その20)タイガース土井垣

2013年05月06日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その20)は、大阪タイガース(現阪神タイガース)土井垣選手の野球カード。
ほかのコレクションと同様、これも1948(昭和23)年か1949(昭和24)年のカードだと思うのだが、当時の正式な球団名「大阪」ではなく、やはり「阪神」と印字されている。
さて、土井垣武(1921年~1999年)氏は、右投げ右打ちの捕手(鳥取県出身)。
1リーグ時代の1940(昭和15)年に大阪タイガースに入団し、対南海軍(1940年5月6日/阪急西宮球場)で初のスタメン出場を果たしている。
現役選手時代は、大阪タイガース(1940年)・阪神軍(1940年9月25日~1942年)・大阪タイガース(1946年~1949年)→毎日オリオンズ(1950~1953年)→東映フライヤーズ(1954年~1955年)→阪急ブレーブス(1956年~1957年)に所属し、出場試合1413、打数4783、安打1351、本塁打79、打点654、打率.282、出塁率.350、盗塁87(成功率56.51%)の生涯記録を残したようだ。
背番号は、19(1940年~1942年・1946年~1953年)→23(1954年~1955年)→25(1956年~1957年)。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その19)タイガース梶岡

2013年05月04日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その19)は、大阪タイガース(現阪神タイガース)梶岡選手の野球カード。
「阪神 梶岡投手」と印字されているものの、調べてみると、戦後プロ野球が復活してから1960(昭和35)年までは"大阪タイガース"が正式名称だったはずで、現在の"阪神タイガース"となったのは1961(昭和36)年から。
これは、今でも"読売ジャイアンツ"を"巨人"と呼んでいるように、戦中(1940年~1944年)に使用された"阪神軍"という名称が一般的に定着していたということなのだろうか。
さて、梶岡忠義(1920年~2003年)氏は右投げ右打ちの投手(大阪府大阪市出身)で、入団した1947(昭和22)年の開幕第2戦(1947年4月19日/阪神甲子園球場)対グレートリング(現福岡ソフトバンク・ホークス)で初先発している。
このシーズンはルーキーながら22勝(8敗)の好成績をあげているが、"ダイナマイト打線"の大阪タイガースは、2位中日ドラゴンズに12.5ゲームの差をつけてシーズン優勝を果たしている(119試合79勝37敗3引分/勝率.681)。
梶岡投手の生涯記録(1947年~1955年)は、登板試合299、131勝85敗(完投140、完封21)、投球回数1920.0、勝率.606、防御率2.80、奪三振6524(奪三振率3.06)。
2年目の1948(昭和23)年8月24日の対南海ホークス戦(明治神宮野球場)でノーヒットノーランを記録し、また、1952年には最優秀防御率のタイトルも獲得している。
現役時代の背番号は、18(1947年~1949年)→1(1950年~1951年)→3(1952年~1955年)。
この写真は本拠地・阪神甲子園球場ではないかと思うのだが、上のほうはベンチか椅子席になっているとはいえ、当時の外野スタンドはまだ土を盛ったままの状態だったようだ。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その18)ホークス別所

2013年05月03日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その18)は、南海ホークス・別所選手の野球カード。
ジャイアンツの選手でまとめられたページに何故かホークスの選手の野球カードが1枚だけはさみ込まれていたことから不思議に思ったのだが、調べてみると別所選手が(戦後)南海ホークスに在籍したのは1946(昭和21)年から1948(昭和23)年までのことであり、1949(昭和24)年のシーズンからは読売ジャイアンツの選手としてプレーしたようだった。
うすうすとは感じていたのだが、この『タケカズ少年のプロ野球コレクション』に収められているプロ野球カード等は1948年と1949年のものが混在しているらしい。
さて、別所昭(1922年~1999年)氏は右投げ右打ちの投手(兵庫県出身)。
とにかくジャイアンツ贔屓な程度の低い解説者という引退後の姿しか知らないのだが、プロ野球選手としての生涯記録は、登板試合662、310勝178敗(完投335、完封72)、投球回数4350.2、勝率.635、防御率2.18、奪三振1934(奪三振率4.00)。
シーズン最多完投47(1947年/南海ホークス)という日本記録を所持しているようで、1947(昭和22)年に30勝(19敗)、1952(昭和27)年に33勝(13敗)、1956(昭和31)年に27勝(15敗)で最多勝利、1955(昭和30)年に最優秀防御率(1.33)、1948(昭和23)年に最高勝率(.722)のタイトルを獲得している。
また、MVPを2回(1952年・1956年)、沢村賞を2回(1947年・1955年)、日本シリーズMVPを2回(1952年・1955年)、日本シリーズ最優秀投手賞を1回(1955年)受賞し、1979(昭和54)年には野球殿堂入りを果たしているようである。
また、打撃成績については、出場試合828、打数1972、安打500、本塁打35、打点248、打率.254、出塁率.287、盗塁6(成功率66.7%)という記録が残っている。
1949年の南海ホークスから読売ジャイアンツへの移籍に関して【別所引き抜き事件】と言われることもあるらしく、別所選手は日本野球連盟による「1949年開幕から2ヶ月間の公式戦出場停止処分」を受けたようだ。
現役時代の背番号は、22(1942年~1943年)→12(1946年~1948年)→29(1949年)→11(1950年~1960年)。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その17)ジャイアンツ千葉

2013年05月02日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その17)は、ジャイアンツ・千葉選手の野球カード。
調べてみると、千葉茂(1919年~2002年)氏は、右投げ右打ちの二塁手(愛媛県出身)で、愛媛県立松山商業学校を卒業した1938(昭和13)年に東京巨人軍(現読売ジャイアンツ)に入団したようだ。
初先発出場は、1938年5月7日の対阪急軍戦(阪神甲子園球場)での「6番セカンド」。
千葉選手の生涯成績(1938年~1950年)は、出場試合1512、打数5643、安打1605、本塁打96、打点691、打率.284、出塁率.385、盗塁155(成功率72.1%)だが、投手として登板試合1、0勝0敗(完投0)、投球回数4.0、防御率9.00、奪三振2という記録も残されている。
現役時代の背番号は、30(1938年/東京巨人軍)→22(1939年~1941年/東京巨人軍)→3(1946年/東京巨人軍・1947年~1950年/読売ジャイアンツ)。
現役引退後の1959(昭和34)年から1961(昭和36)年まで近鉄監督を務めた際には、"猛牛"と呼ばれた千葉茂氏にちなみ、同球団はそれまでの"パールス"から"バファロー"(後にバファローズ)にニックネームを変更、千葉氏の知人・岡本太郎(1911年~1996年)氏デザインによる猛牛の球団マークが誕生したとのことである。
画像の「走者大下セーフ・二塁手千葉」と書かれた野球カードは、1949(昭和24)年(1リーグ制最後の)シーズンの「読売ジャイアンツvs東急フライヤーズ」だと思われるのだが、このようなプレー中の、しかもこれほど躍動感あふれる写真というのは珍しい。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その16)ジャイアンツ山川

2013年05月01日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その16)は、ジャイアンツ・山川選手の野球カード。
調べてみると、山川武範(喜作/1922年~1981年)氏は長崎県出身の三塁手(右投げ右打ち)で、1940(昭和15)年に山川喜作の名前で名古屋金鯱軍に入団している。
"名古屋金鯱軍"とは1936(昭和11)年から5年間存在したプロ野球の球団で、1940年のシーズン後に翼軍(旧東京セネタース)と合併したことにより大洋軍となり、同球団は消滅した。
また、日本野球連盟は1940年7月31日から8月23日まで【第1回満州リーグ戦】として全球団参加による初の海外遠征を実施しており、山川選手はこの海外遠征中の8月10日・対名古屋(奉天/現瀋陽)において「9番サード」で初先発出場しているようである。
所属球団は、名古屋金鯱軍(1940年)・大洋軍(1941年~1942年)→東京巨人軍(1946年)・読売ジャイアンツ(1947年~1951年)→広島カープ(1951年~1954年)で、背番号は、7(1940年)→25(1941年~1942年)→7(1946年~1951年途中)→10(1951年途中~1953年)→7(1954年)。
1950年まで山川喜作、1951年からは山川武範の名前でプレーした。
生涯成績(1940年~1954年)は、出場試合1001、打数3351、安打844、本塁打26、打点316、打率.252、出塁率.329、盗塁105(成功率72.4%)で、1952年6月26日の対国鉄スワローズ戦(後楽園球場)において、史上7人目となるサイクルヒットを記録している。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その15)ジャイアンツ内堀

2013年04月23日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その15)は、ジャイアンツ・内堀選手の野球カード。
調べてみると、内堀保(1917~1997年)氏は長崎県出身の捕手(右投げ右打ち)で、1935(昭和10)年2月~7月の大日本東京野球倶楽部(東京巨人軍)が実施した第1次アメリカ遠征に参加した選手の一人。
1936(昭和11)年から行われた日本職業野球連盟主催のリーグ戦においても、東京巨人軍(現読売ジャイアンツ)で活躍した。
しかし、リーグ戦初のスタメン出場は、"連盟結成記念全日本野球選手権・名古屋大会"・対大阪タイガース戦(1936年7月15日)での「8番サード」だったようだ。
内堀選手の生涯成績(1936年~1937年・1946年~1951年)は、出場試合305、打数832、安打169、本塁打2、打点66、打率.203、出塁率.266、盗塁15(盗塁成功率53.6%)。
1941(昭和16)年に関しては、所属はしていたものの試合出場がなかったようである。
現役時代の背番号は、11(1936年~1937年・1941年)→5(1946年~1951年)。
2度におよぶ従軍もあって出場試合は少ないが、沢村栄治、スタルヒン両投手とバッテリーを組んだことがある数少ない捕手の一人だったのだろうと思う。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その14)ジャイアンツ武宮

2013年04月22日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その14)は、読売ジャイアンツ・武宮選手の野球カード。
調べてみると、武宮敏明(1921~2010年)氏は熊本県出身の捕手(右投げ右打ち)。
熊本工業学校では川上哲治氏の2年後輩だったが、ノンプロ数チームを経て、1947(昭和22)年に27歳でジャイアンツに入団している。
プロ野球での生涯成績(1947~1952年)は、出場試合320、打数713、安打134、本塁打14、打点63、打率.188、出塁率.266、盗塁8。
現役時代の背番号は、12(1947~1952年)。
引退後の1953(昭和28)年からジャイアンツの2軍監督やコーチを務め、同時に合宿所"多摩川寮"の寮長として、選手達から"鬼寮長"と恐れられたそうである。
写真にある「5」という数字の意味は不明。

タケカズ少年のプロ野球コレクション(その13)ジャイアンツ藤本

2013年04月17日 | 明治 大正 昭和のコレクション
『タケカズ少年のプロ野球コレクション』(その13)は、読売ジャイアンツ・藤本選手の野球カード。
調べてみると、藤本英雄(1918~1997年)氏は、右投げ右打ちの投手(朝鮮釜山生まれ山口県下関市出身)。
明治大学卒業後、1942(昭和17)年シーズン途中に東京巨人軍(現読売ジャイアンツ)に入団し、14試合に登板、10勝(0敗)の成績をあげている。
このシーズンの巨人は(105試合)73勝27敗5引分で優勝を果たしているが、2位の大洋(名古屋金鯱軍と翼軍の合併球団)が60勝39敗6引分という成績だったようなので、巨人はこの藤本投手の9月になってからの加入で随分と助かったのではないだろうか。
投手以外にも代打としての起用もあったようで、出場試合549、打数1275、安打312、本塁打15、打点151、打率.245、出塁率.319、盗塁29(成功率70.7%)という生涯打者成績が残っている。
しかも、投手としての成績(1942年から1944年・1946年~1955年)も、登板試合367、200勝87敗(完投227、完封63)、投球回数2628.1、勝率.697、防御率1.90、奪三振1177(奪三振率4.03)と申し分なく、1943(昭和18)年に最高勝率(.756)、最優秀防御率(0.73)、最多勝利(34勝)、最多奪三振(253個)、1944(昭和19)年に最多奪三振(113個)、戦後も1946(昭和21)年に最高勝率(.778)、最優勝防御率(2.11)、さらには一度肩を痛めた後の1949(昭和24)年にも最高勝率(.774)、最優秀防御率(1.94)のタイトルを獲得している。
また、1943年5月22日の対名古屋軍(後楽園球場)でノーヒットノーラン試合を達成し、2リーグ制初年度の1950(昭和25)年6月28日の対西日本パイレーツ戦(青森球場)では日本プロ野球史上初の完全試合を達成している。
背番号は、35(1942年~1943年/東京巨人軍)→23(1946年/東京巨人軍)→3(1947年/中部日本ドラゴンズ)→17(1948年~1955年/読売ジャイアンツ)。
現役時代3年目・25歳で兼任監督に就任し、1949年に創設3年目の沢村栄治賞を受賞、1976(昭和51)年に野球殿堂入りを果たした。
シーズン最優秀防御率0.73(1943年)のプロ野球記録、シーズン最多完封勝利19(1943年)プロ野球タイ記録、通算勝率.697(2000投球回以上で歴代1位)、通算防御率1.90(2000投球回以上で歴代1位)等の輝かしい記録も考えると、藤本英雄投手現役最後の背番号17はジャイアンツの永久欠番にしてもよいほどだと思う。