真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

第六章 真実なるもの (二)苦楽の論議

2024-01-18 19:15:15 | 天道の淵源

(二)苦楽の論議

楽だけを希求して苦を逃避するのは愚者であります。

楽の極は苦であり、苦の極は楽である理をよく知らなければなりません。

苦を厭(いと)わずに真面(まとも)に受けて進むとやがて楽が現れてまいります。

つまり、限りない苦の土台の上に有限の楽が僅(わず)かにしか乗っていない訳で、やがて楽が尽きるとさらに彫の深い苦が加わってきます。

「歓楽極まって哀情多し」で、苦と楽とは相隣に住み、交互的に循環する性質のものであり、切り離すことは不可能であります。

菜根譚(さいこんたん)に、「一つの楽境界あれば、就(すなわ)ち一つの不楽的の相対待(あいたいじ)するあり。一つの好光景あれば、一つの不好的の相乗除するあり。」 とあります。

従って、「成功があれば必ず失敗もあることを知れ、されば成功を求める心がそう堅くならないであろう。 生があれば必ず死を避けられないことを知れ。 されば生を保つことに過労しないであろう。」 とも述べられています。

沢山集積された長い欲望の輪廻を背負った束の間の楽もやがて尽きれば、残された数多くの苦の種の処置に手を焼く結果となり、心身ともに疲労困憊して生をさえ持て余すようになります。

故に真の苦を願わないならば、楽だけを求める心をやめることです。

楽が大きければ苦もまた多いのですから、楽を無くせば苦もまた滅します。

所得が増加すると欲望も急伸して競争を続けてゆきますから、休戦をした方が楽です。

そして、苦楽を超越するのです。

それが極楽です。

苦も楽も排除したら詰まらないと想うでしょうが、苦楽の繰り返しに惑わされなければ、我々はもっと進歩していたはずです。

少なくとも一つの所を堂々巡りをしなくて済むでしょう。

本来無一物です。

結果は無です。

元来、我々が使っている言葉も物も考えることも常識的、外来的なものを寄せ集めただけで、何一つ我々のものではなく、また我々の所有物にもなりません。

それを悟ることを諦観と言い、「諦(あき)らかに其の実態を観透(みとお)す」ですが、勿論これは、心眼でなければ、その真義を知ることはできません。

つまり諦めることです。

諦らかにその真の姿を観たから諦められるのです。

但し、賢人と愚人によって諦め方が違って来ます。

愚人の諦めには至って不自然さがあり、苦しんで争ってあらゆる面に行き詰った場合です。

究極まで妄執(もうしゅう)し奪い合った揚句、破れ果て仕方なく諦めるので、これは狭量で、自尊的で、傲慢不遜の敗退振りです。

従ってその生活は自暴自棄に陥(おちい)り易(やす)く堕落になりがちです。

相手の権力に屈したものですから卑屈で、非常に孤独で、他を見下し、心から人を侮蔑(ぶべつ)し、他に限りなく憎悪と怨恨を抱くものであります。

表面は慇懃丁寧(いんぎんていねい)であるかのように装って次の機会を虎視眈々(こしたんたん)として、深い意図を蔵(ひそ)めています。

やがて時至ると権力をもって相手を服せしめ、冷酷無情の刑罰を科して、自己を決定的に優位におこうとします。

慈愛がないから常にことが起こるたびに心身が動揺し、あまつさえ他に害を及ぼし、野心満々のくせに小心翼々として環境に染まり易く、物事の判断は正確を欠き、見通しは到って狭く近いものであります。

続く

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