真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

性理題釋~六十、聖賢と愚凡の区別

2024-01-13 19:01:15 | 性理題釋

六十、聖賢と愚凡の区別

聖賢(せいけん)と愚凡(ぐぼん)を分ける理は、大変簡単に明らかにすることが出来ます。

それは人間各々の気稟(きひん:気質)が同じでなく、物慾の異なることに因って、理性の発展が違うからであります。

気稟が浅く、物慾が少なければ、理性の発展が強く、志を立てて古聖(こせい)や先賢(せんけん)の法を効(なら)う者は、即ち聖人賢人であります。

然し、気稟は深く、物慾が多ければ、理性の発展が弱く、鏡花(きょうか)のような仮景(かけい)を貪恋(どんれん)する者は、即ち愚人(ぐじん)凡夫(ぼんぷ)であります。

言葉を換えますと、誰でも気と慾にうち克(か)って理性を明らかに復(かえ)す事が出来れば、即ち聖賢であり、気と慾にうち克って理性を恢復(かいふく)することが出来なければ、即ち愚凡であります。

譬(たと)えば、明るい鏡の本体は原来純明(がんらいじゅんめい)でありますが、然し、時の経過が多ければ、段々と塵埃(じんあい)がついて来て、もしも洗ったり拭(ふ)いたりしなければ、その明鏡(めいきょう)も決して再び明るくなることはありません。

人の理性も又この通りであります。

故に儒教では『存心養性(ぞんしんようせい)』を説き、道教では『修心煉性(しゅうしんれんせい)』を説き、又釋教(仏教)では『明心見性(めいしんけんしょう)』を説かれましたが、その法は同じからずと雖(いえど)も、人に理性を恢復(かいふく)せしめることを教える所は即ち一つであります。

続く


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