真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

イギリスの影響を受けアメリカの南部は正常に。C国の運動会はみんな興味関心なし…

2022-02-10 23:02:49 | ONEメッセージ

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性理題釋

2022-02-10 22:56:54 | 性理題釋

道すなわち真理を統べる神聖な伝承が天命によって奉じられてきました。この天命は5000年間、青・赤・白の三期の時期の変革を経てきました。青の時代、伏義氏から始まって周公までの期間を「道は帝王にある時代」といい、赤の時代、老子から劉祖までの間を「道は聖人ある時代」と称し、いずれも天が遣わした特定の聖人のみに玄妙不可思議な真理を授けることが許されました。そしてこの度、時代が変わって白の時代となり「道は火宅に伝わる」といい、苦悩に満ちた世界、つまり今までの天命は出家した僧職であったものが、白の時代から普通の家に住む人(一般人の中に転生してきている)に下命されました。

天命がこのように変わったのは日本の鎌倉時代のころ、以来、この「火宅に天命がある」道が熟成して宇宙と地球表面とそして地底の三層を救済する天命を担った「師」がこの世紀の一大事を大々的に布告したのは1930年でした。おりしも民主主義の理想を掲げた国家アメリカ合衆国で、この国を乗っ取るために闇が大恐慌が起こしたころです。シェルダン・ナイドルニュースで最近伝えられている宇宙の神々が人類のために同行する「師」とは、このことであり、聖書のマタイ3:1-12: 「私はお前たちに、回心に向け、水によって洗礼を施している。しかし私の後から来たるべき者は私よりも強い。私はその者の皮ぞうりを脱がす値打ちすらもない。彼こそ、お前たちに聖霊と火とによって洗礼を施すであろう。・・・」という「私の後から来るべき者」「聖霊と火によって洗礼を施す者」がこの「師」にあたります。

老水還潮《これより天命が再び中国に戻る》と言いますが、インドから東に道《真理》を伝承した達磨大師より18代目、師による厳粛な運びが、今年これからの新たな道を見極める大切な指針になります。

ー濟公活佛《師》の自序ー

道は理であります。理を知らなくて、どうして道を修行できましょう。故に道を修行しょうする者は、まづ先にこの理を理解せねばなりません。理を理解するには、疑問があればその都度質問して、明白に了解できるまで究めることが必要です。惜しむべきは、世人はとかく人に物事の理を尋ねるのを恥じることです。それ故、疑問が重なって遂に迷路に陥入り、迷ってしまったことすら自覚しないばかりか、又、それ故にますます道から遠ざかってしまいます。大道がこの世に降り、普く世人を済度する道が拓かれて以来、道を得た原仏子《以前に天から降って人間になった者を佛子、又原子とも呼ぶ》は少なく、その道理をよく究めて道を修行する者は暁の星のように少ない。どういうわけでしょうか? それはすべて疑問があっても質問せず、又質問しても理解し得ない故であります。

このような状況に鑑み、平常よくうける疑問を例題として解答を与えました。その解答に当って、なるべく簡潔明瞭に解釈する様に努め平易な言葉を使用しました。この書に記載した数十の例題は完璧とは言えなくとも、あらかた理路は整っていて、修道を志す士の参考とするに足るものです。師の本望とする所は、修道を志す者がこの書を読んで真理を徹底的に理解し得るのみならず、更に進んで修行の指南となし得ることです。又、道を求める者にはこの書の精読が、疑問を解き道理を理解し進んで道を求めて入門の助力となり得ることです。世の人がこの書の説く如く実行すると、たとえ最高の天位に到達し得なくても過去の世代に積重なった罪障を消滅し得て相携えて、この世の苦海を離脱して悟への路に登ることができます。これが師の深く望むところである。

1、道の真象

天地の創造される以前には、宇宙は渾然としたエネルギーで、混沌として、一つとして形のあるものはなく、音もせず、臭いもなく、極めて空虚であって、至って玄妙なものです。道祖曰く、天地の創造される以前は名称がなく、即ち◯・円(えん)の様なものとしました。名のある物は万物の母であって、即ち「一」の字のようなもの、道の偉大さは名状しがたいが、強いて名づけて「道」と言いました。

円は「一」の静止状態であり、一塊(かたまり)の玄理であって、これが道の全貌です。一は円の動態です。この一を根本とし、それが散ずると萬物が生成されました。これが道の運用です。円が動けば一を生じ、一が縮まれば「・点(てん)」となります。・点が伸びれば一となります。即ち、円、一、点、は動静・伸縮の像であって変化して窮まりありません。これらのものが宇宙に充満して、一となり、これを巻いて固めると點となります。

即ちその偉大なこと際限がなく小さいこと内腔がない、宇宙に存在する物、貫通されないものはなく、包容(ほうよう)しないものはなく、これが宇宙に充満し、森羅万象包んで、しかも真に空虚で微妙なものであって、あらゆる霊の主宰であります。これが天にあるものを「理」と称し、人にあるものを「性」と言います。理は万物に共通の性であり、性は万物が具えている「理」であります。

人はそれを持っていますが、持っていることを自覚していません。これを悟るものは神、聖人となり、これに迷うものは鬼の世界に墜ちて行きます。故に曰く、千・万の経典を読破するよりも一点を知ることを良しとします。 この一点は四方を統合して万善を兼ね持ちます。人を思いやる心は仁の始めであり、悪を恥じる心は義の始まりです。正邪をわきまえる心は智の始まりであり、人に譲る心は礼の始まりです。仁義礼智の中心に信があります。

すなわち、

   

   |

義  信 ― 仁

   |

   礼

 となります。その深長な意義は味わって猶つきないものがあります。故に老子曰く、大道は形がないが、天地を生成する。大道は感情がないが、太陽や月を運行して分秒も違わない。大道は名前がないが、万物を永久に養育する。天地生成前、道がその体系を形造り、天地生成後に道はその効用を広げました。

二、人と道との関係

 中庸に「道は須臾も離る可からざるなり、離る可きは道にあらざるなり」 “道は片時も離れることができないものである。離れられるものは道ではない” 道とは真理であります。人が必ず通じなければならない路であります。人が平常道徳に依存しているのは、あたかも汽車が軌道の上を走り、船が水上に浮かび、飛行機が空中を飛ぶ様なものです。もし汽車が軌道を離れ、船が水を離れ、飛行機が空気を離れれば、危険この上なく必ず大事故を引きおこします。

同様に人がもし道を離れると、社会に於いては法律の制裁を受け、死後は陰府(地獄)で閻魔王の制裁を受け、輪廻に墜ち、四生(胎生、卵生、湿生、化生)、六道(天道、人道、地獄道、阿修羅道、畜生道、餓鬼道)の間を転変して止むことなく、無辺の苦海を彷徨うこと極まりがありません。孔子様は「君子は死すとも善道を守る」と申され、又、「君子は道を憂い、貧を憂えず」「君子は道を楽しむ」などと言って“道を体得された方は死を以て道を守り、貧乏を嘆かず、道の足りないことを嘆き、又、道の成就されることを楽しみにした”と申されました。 顔回(顔子)は道を得て、拳々服膺して、片時も道を忘れることなく、そして終身これを失いませんでした。

曽子は道を得て、戦々兢々として畏れ慎み、一日己の身を三省しました。このようにして見れば、道と人との間の密接な関係がありますが、惜しいことに世人は皆これを度外視しています。孔子様は「誰か能く出ずるに戸によらざらんや、何ぞこの道に由らざるはなし」と言って“何びとと雖も戸によらずして出づることができましょうか、又、何ごともこの道によって、その物事が成就するのに、世の人々はこれを知らないのである”と嘆かれました。

※ 三省: 曽子曰く

吾れ日に三たび吾が身を省みる

1、人のために謀りて忠ならざる乎:友人の相談にのって、それのみならず、その人のために行動して忠実であったか。

2、朋友と交わりて信ならざる乎:真義を欠いていなかったか。

3、習わざるを伝うる乎:よく呑み込んでいないのに相手に教えていなかったか。

三、大道の沿革

 老子、清静経に『大道は無形にして天地を成育す』とありますが、これは天地の源が道であり、未だ天地が創造される以前に道があって、道が天地を生み、そして育てたことを意味します。史記に『天は子(ね)の会に開き、そして戌(いぬ)の会に没す。地は丑(うし)の会に闢(ひら)き、而して酉(とり)の会に没す。人は寅(とら)の会に生じ、而して申(さる)の会に没す』とあります。下図をご参照ください。

人間が始めて地球上に生まれて来たのは寅の会であって、当時人の本性は皆善(ぜん)でした。その当時、天によって人が生じたので、人を支配する一切の働きは天にありましたから、人が道をどうこう論ずる必要もありませんでした。道が中古に伝わり、人が人を生むようになってから、人間社会を支配する一切の働きは人に移されました。始めに伏羲(ふくぎ)氏が出世せられ、天地自然の仰観俯察(ぎょうかんふさつ)して、先天八卦を画き、天地の奥妙を顕しました。これが道が世に降りた始めになります。継いで、蒼頡(そうけつ)氏が文字を創り、有巣(ゆうそう)氏が宮室を建て軒轅(けんえん)氏が衣装を整えるなど、文化は大備しました。これで道が地上に華を咲かせたことになります。

尚続いて、堯(ぎょう)、舜(しゅん)、禹(う)、湯(とう)、文(ぶん)、武(ぶ)、周公(しゅうこう)と道統を受継いで、心法を一脈相伝しましたが、これを青陽期(せいようき)と申し、これで道が整ったことになります。時代は変わって周(しゅう)の末世となって五覇(ごは)が起こり,互いに争って、天子の政令が天下に行なわれなくなり、道は紅陽期(こうようき)に転じ、分かれて三教(道教・儒教・仏教)となりました。これを道の分かれと申します。

老子様が降世して道の宗旨を発揚し、東方の魯(ろ)に孔子を渡ましたが、孔子は『吾今、老子にまみえしが、それなお龍を見るが如しかな』と嘆詞を残されました。老子様はその後、西域の胡王(こおう)を化そうとして、紫雲瑞気溢れる函谷関(こくかん)を出ようとすると、関尹子(かんのいんし)に留められ書をつくらせられましたので、たので、道徳経五千言を著わしました。これが道教の始であります。

孔子様は道を受けて周遊列国氏、西方を教化しましたが、その後詩を刪(けず)り礼を訂(ただ)すなど、継往開来(けいおうかいらい)して永久不変の真理を闡(ひら)かれ、万世不易の定論を立てられました。大道の精微にして奥妙かつ玄妙な理は、大学と中庸などに悉く(ことごとく)叙述されましたが、これが儒教の始祖であります。孔子様は道を曽子(そうし)に伝え、曽子は子思(しし)に伝え、子思は孟子(もうし)に伝えましたが、孟子以後、道脈は西域に還り、中国には心法が失伝してしまいました。

それから、秦(しん)、漢(かん)、晉(しん)、隋(ずい)、唐(とう) を経て、学者の議論は囂然(ごうぜん)として蜂起しましたが、悟りの境地には至りませんでした。そして炎宋(えんそう)の時に至り、文運は大いに開き、偉い学者が輩出して、立派な議論も百出し、特に濂渓(れんけいという場所)の周敦頤(しゅうとんい)、洛陽(らくよう)の程灝(ていこう) と弟の程頤(ていい)、関中(かんちゅう)の張載(ちょうさい)、閩中(びんちゅう)の朱熹(しゅき)等の賢人が相継いで起こり、真儒を盛んに提唱しましたが、然し乍、道統は孟子以後、西域に転じていたため運に相応じることができませんでした。宋の時代に儒者は輩出しましたが、ただ道旨を闡揚したに過ぎませんでした。

釋教として西域に接受された道は、お釈迦様の大弟子迦葉(かよう)に渡しました。これが佛教の始祖となりました。こうして道は三教に分かれ、各々一地方に伝えて、また各々経典に留めました。

釈教(佛教)ではお釈迦様より単伝して、二十八代目の達磨尊者(だるまそんじゃ)に至りましたが、中国の梁(りょう)の武帝(ぶてい)の時に達磨様が西域より中国に渡られ、真機は中国に還りました。これを老水還潮(ろうすいかんちょう:本の水が本に還る)と申します。

達磨様が中国に渡られてから、真道は中国において一脈相伝しました。達磨様が初祖となり、二祖神光(しんこう)、三祖僧燦(そうさん)、四祖道信(どうしん)、五祖弘忍(こうにん)、六祖慧能(えのう)となりましたが、六祖に至って衣鉢(えはつ)は失伝しました。その当時、南頓北漸(なんとんほくせん)の称がありましたが、その実、道は俗家(僧侶でない人)に帰しました。六祖は白・馬祖二人に渡して祖としましたが、道は火宅に転じて八代の羅(ら)祖、九代の黄(こう)祖、十代の呉(ご)祖、十一代の何(か)祖、十二代の袁(えん)祖、十三代の徐(じょ)・楊(よう)祖、十四代の姚(よう)祖、十五代の王(おう)祖、十六代の劉清虚(りゅう・せい・きょ)祖に至りました。この十六祖で紅陽期は円満になり、道は白陽期に転じて、弥勒様の応運となって、路(ろ)祖様が初祖となられました。

そして大開普渡して大いに道の玄妙な天機を万人に伝え、三層を普渡し、万教を和して帰一せしめる末後の一着の大聖業を、弓長(ゆみなが)・子系(しけい)が受け継いで応ずることになります。三代以上は道は君相にあって、一人で天下を化せられましたが、これを青陽期と申します。三代以後には、道は師儒(しじゅ)にあって、三教相継いで起こり、各々一地方を治めましたが、これが紅陽期であります。現在は三期末会で世風は頽廃(たいはい)し、災難が流行して地球の至る所に完全な処がなくなりました。そして道は庶民にあって人は皆成道し、一人一人が成仏できるようになりましたが、これが白陽期です。以上が大道の沿革になります。

四、道の宗旨

大道の宗旨は、天地神明を敬い、国を愛して仕事に忠実であり、敬を敦(あつ)くし礼を崇(たっと)び、父母には孝行をして、師尊を尊重して、朋友を信じ、郷隣と睦まじく和して、悪を改め善に向かわしめ、五倫(君臣・父子・夫婦・長幼・朋友)・八徳(孝・悌・忠・信・礼・儀・廉・恥)を説いて明らかにし、五教聖人の奥妙な宗旨を世に表わし、四維(礼義廉恥)や三綱(君為臣綱・父為子綱・夫為婦綱) 五常(仁・義・礼・智・信)の古礼に遵い、心を洗い思慮を浄め、仮体を借りて真理を修めて、本性の自然即ち真面目を恢復(恢復)せしめ、良知良能(全智全能)の至善を生ぜしめるのであります。

己が立って人を立たせ、先ず己が達して人を達せしめ、人心を教化して善良にし、太平の世を齎(もたら)して大同世界を冀(こいねが)う行いが、この道の唯一の宗旨であります。この道には何の背景もなく、種々な工作を組織もないばかりでなく、良くない思想をもつことも許されません。そこで社会においては一切の摩擦もありません。非常に淡白で水晶のような光明な大道であります。

孔子様は『教え有り類無し』と申され、又『異端を攻めるは斯く害あるのみ』とも申して“色々と人に道理を教えるが、外に比類するものがない”と申し、“道以外の法で人を教えることは、人に害を与えるばかりで、教化することはできない”と申され、道の尊いことを説かれました。

続く


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第二章 天人一貫の妙理 (二)無一物故に無尽蔵であり、真空にしてこそ妙有を生ずる

2022-02-10 22:50:50 | 天道の淵源

(二)無一物故に無尽蔵であり、真空にしてこそ妙有を生ずる

なぜなら、現象界(色)があって始めて受・識・行・識の四蘊(しうん)が生ずるものであります。

故に無色の気界であっても因果賞罰が繰り返えされている境界であり、毀誉袤貶(きよぼうへん:ほめたり、そしったりする世間の批判)の行われる天界であることが理解されます。

つまり、相対性の陰陽の霊気が交流している所でありますから、現代語で表現するなら、世界の四次元性、時間空間の相対性、有限性の天界と申せます。

理天界は想念思索なく、陰陽の対立もなく、一のみをもって万有を貫き永遠に存在して尽きる所がありません。

善悪是非を超越し、天地・乾坤を包み、男女・陰陽に変じていない元の原理の姿なのです。

バリティ(光子)に例をとって申しても、偶と奇の二種類があり、電子を分析するとまた陽イオン・陰イオンがあります。

かくして人間頭脳の研究の限界は陰陽界を脱することはできません。

西遊記に、孫悟空は釈尊の前で大法螺(おおぼら)を吹き、筋斗雲(きんとうん)に乗って十万八千里を駆け走り五陰山に至り、そこに名前を記録して帰って見れば釈尊の掌中に自分が乗っており、書き留めたはずの自分の筆跡が中指にあったと記されています。

人間は傲慢な態度で無限の世界に挑戦して征服を試みようと力んでいますが、ちょうど反り返った孫悟空の姿が想い浮かべられます。

この妙玄甚深(みょうげんじんしん)なる大理天には、敬虔な信心と祈りをこめてこそ通ずるもので、猜疑心を抱いたり物理を探求するような心構えで知ろうとすると反って遠ざかるのみであります。

天道の秘宝を得て霊眼を開かれますと、その悟り得る範囲は天体図で画けない遠い星座の世界から、小は電子よりもっと緻密(ちみつ)な理に深く遠く達することができるのです。

無極は、天体日月から人間・五行・万有を絶対的慈愛をもって変則なく運行し続けています。

天地未判然の前、独り際限のない永遠の太古から存在し続けているのです。

世人は太極を始まりと知っても、主体である無極を知りません。

無極は無始無終で真常にして変わりなく、無限の空間性と無窮の時間性を有しています。

寂然たる純真体であって陰でも陽でもありません。

すなわち空であり、無であります。

しかし、無は無ではなく空は空ではありません。

清浄経(せいじょうきょう)の中に「空を観るに亦空、空も空の所無し。空の所すでに無なれば、無無もまた無なり。無無すでに無なれば湛然(たんぜん)、常に寂す。」とあります。

あらゆる有無の形体はこの無から生長されないものはなく、空の中に妙有る所以であります。

釈尊はこう申されました。「色は空に異ならず、空は色に異ならず、色は即ち是れ、空なり。空は即ち是色なり。」すなわち色象は妙空に由って造化されたものであり、この妙空を悟り透すには、自然の形象を推して真空の存在を証明できる訳であります。

この空はわれわれの観念にある滅び尽くされ、破壊された後の空虚の姿ではなく、また無味乾燥として、消失し終わった状態の空でもありません。

無尽無窮に造化の理が密蔵され、化育生成の正気が充満して、有為の形体を創造する妙理が溢れ盈(み)ちているのです。

宇宙森羅万象、生きとし生けるものを設計する全智の働きとそれを創造する全能の力を包含し、過去も現代も未来もその形体を現わされなっかたが、すべてのものの運行と生育に欠ける所がありません。

われわれは形あるものを珍重し、加工された製品を宝として保存していますが、すでに形象として生じたものはただ破壊と滅亡があるのみです。

ところが無極の真空は、万有を生み出す偉大な力を蔵(ひ)め、無限の創造性を含んでいる雄大なる絶対無なのです。

無にこそ真実があり、妙味があります。

老子様は「惚(こつ)たり恍(こう)たり。その中に象あり、恍たり惚たり。その中に象あり。窈(よう)たり、冥(めい)たり。その中に精あり。その精は甚(はなは)だ真なり。」また「吾は名を知らず、強いて名づけて大道と謂う。」そして「大道は無形にして天地を生育し、無情にして日月を運行し、無明にして万物を長養す。」と無の働きの窮(きわま)りなきを教えておられます。

孔子様は「四時(春夏秋冬)を行い。百物を生ずるもの天何をか言うや。」と、感嘆されました。

孔子様の説く「天」と老子様の言う「道」はすなわち天道の根本義を指しておられます。

真に無形・無情・無名の世界こそ絶対の世界であり、そこにこそ一切の象があります。

無一物なるが故に無尽蔵であります。

絶対無の懐の中にこそ一切の有は存在し得るのです。

あらゆる宇宙生物はその暗示や意思に基づいて働きます。

道も空も無も天も名称こそ異なっていますが、同じ無極であり理であり、老〇様(ラウム)のお慈悲深いお姿であります。

有形の物象はいかに剛(かた)くても終始があり、やがては破滅を免(まぬが)れません。

釈尊は「一切有為の法は夢幻泡影(むげんほうえい)の如し、また電の如く露の如し、応(まさ)にかくの如く観るべし。」と申されました。

物象はいかに貴くとも本末があり終始がありますが、それに執着して真諦を見失っているようです。

生者必滅の原理から考えても、人間界に真常を求める事態がまちがいであります。

御聖訓に「日月は光なりと言えども終いに尽くるあり。」とあります。

久遠に不易の法を求める人は、まずこの真偽を見極めて妙理に徹する必要が肝心であります。

続く


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光の仲間💫Freedom フリーダム&ユニティのアップデート✨アセンションへの革命イベント

2022-02-10 13:13:58 | ONEメッセージ

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世界が見守る一つの大イベント(カナダ🇨🇦Freedom Convoy)結束のパワー 自由とワンネスを求める、人類と地球のシフトのイベント💫アセンションへのプロセス

2022-02-10 07:54:09 | ONEメッセージ

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