真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

あちら側が一番知られたくない!?金○システムの話〈まずは22年1月に完璧に撤廃されたようです〉

2022-02-19 23:44:42 | ONEメッセージ

あちら側が一番知られたくない!?金○システムの話〈まずは22年1月に完璧に撤廃されたようです〉


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マイク・クインシーのハイアーセルフからのメッセージ ~ まだ経験したことのない未来へとあなたを駆り立てるものがたくさんあります~2022年2月18日~ 音声入り《幸せの法則 スピリチュアル 》

2022-02-19 23:35:39 | ONEメッセージ

マイク・クインシーのハイアーセルフからのメッセージ ~ まだ経験したことのない未来へとあなたを駆り立てるものがたくさんあります~2022年2月18日~ 音声入り《幸せの法則 スピリチュアル 》


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【衝撃】非常に困難な時代を生き抜く事!!シリウスからのメッセージがヤバすぎる!!【スピリチュアル】

2022-02-19 23:22:03 | ONEメッセージ

【衝撃】非常に困難な時代を生き抜く事!!シリウスからのメッセージがヤバすぎる!!【スピリチュアル】


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第三章 天性の変化と修法 (三)利欲の心をなくすれば本性に帰り善となる

2022-02-19 23:10:27 | 天道の淵源

(三)利欲の心をなくすれば本性に帰り善となる

天性を明かに露(あら)わすには、先に気稟性(きひんせい)を浄化すべきです。

気質性は善ともなり、不善ともなる性質ですから、本人の自覚と周囲の環境の具合により悪化したり、または立戻ってきます。

人間の誕生は過去の因業により宿命づけられて環(めぐ)り生まれてきたのですが、それでも一応は霊性が清算されて美しくなり、一点の欲望も悪心も邪念もありません。

恨(うら)まず妬(ねた)まず、人を傷つけることもありません。

天賦の純真は見栄も飾り気もなく、ありのままに露(あら)わして表裏はありません。

それは虚霊不昧(きょれいふまい)の天性を表しているのです。

ところが次第に大きくなるに従って、眼耳鼻舌の感覚に偏りが生じて、官能が旺盛となって物を必要以上に求め欲します。

始めは、食べる物に対する争いが、今度は物を集積するため喧嘩をはじめます。

人間の肉体の生長に比例して欲望の度合いも深くなり、果ては利欲・色欲・名誉欲・権勢欲へと拡大して止む所を知らなくなります。

一人の所業の影響はまだ小さいのですが、集団をつくり、徒党を組んでしまいますと、環境を威圧する力となって時代をすり変えてしまうようにもなります。

刺激ある人生に進歩を促し、生存競争は新しい発展を生ずるのですが、気質性から習性に変ずる段階になると利己の目的に陶酔して不道徳のかぎりを尽くします。

悪の流れに投入してしまうと、本性が麻痺されて制止がきかなくなります。

悪い風俗がはびこり、淫(みだ)らな行為が横行してそれを平気で見られるのは病疾の徴候が明らかです。

進歩発展が人道を破壊し、徳義を失わされるようであるなら、われわれはすぐにでも進歩発展をやめなければなりません。

気稟性は半善半悪ですから、何らかの機会でふたたび良心の呵責(かしゃく)を受け、ある程度悪事をやめますが、一旦習性に変ずると病はいよいよ膏肓(こうこう:どうにも手のつけられない誤りや癖)に入って癒(なお)り難(にく)くなります。

人の本性は元来善であるが利欲によって一時的に姿を変え、醜い姿を見せるのです。

その貪欲の情を化して美しい姿に引き戻すべきであります。

次に孟子様と告子様の本性論を述べてみたいと思います。

告子様は「人の性格は、柔らかい杞柳(きりゅう:こぶ柳)のようなもので、善とも悪とも決定的な性格をもって生まれてくるものではない。

だから人間が仁義道徳の行いをするのはちょうど、杞柳を曲げて作った曲げ物と同じく、その天性を曲げて仁義道徳の行いをするように仕立てているのであって、本来の天性として仁義慈悲を具えていない。」と述べ、人の静は境遇次第で変化すると説かれました。

孟子様はその論拠の誤りを質(ただ)して「杞柳はそのまま曲げ物にならず、必ず大工を加えねばならない。あなたは杞柳の本性に従って傷め直さないで曲げ物を作れるのか。それとも杞柳の本性を傷め曲げて作ろうといわれるのか。人が仁義道徳をなすのは杞柳で曲げ物を作るのに同じだといわれたが、杞柳の本性に従わず、それを傷めて作るものとすれば人が善行を行うのもやはり天性を傷め損ねて実行するというのか。」人が正しい行いをしたいのは自然であり、本性の発露なるが故なのです。

告子様はまた、人生について「人の性は定まった形はなく一所に渦巻いている水にも似ている。それは、ぐるぐる回っていて出口がないけれども、その水を東の方へ切り落とせば東の方へ流れ、西の方へ切り落とせば西の方へ流れてゆき、一定の方向というのはない。人の性もそれと同じく善と不善の根本の差別はなく、ただ習慣によってどうにでも変わってゆくのは、水の流動性とよく似ている。」と論じられました。

孟子様はそれに反駁(はんぱく)して「水流には一定の方向がなくて、東とも西とも差別のつかぬものであるが、上から下へ移ってゆくという区別のつかぬことがあろうか。東へ切り落として東に流れるのはその地勢が低いからである。人の霊性が本来善であることは水が低い方へ流れてゆくのに似ている。人の性は古今賢愚、その他一切の条件を問わず不善なる者はいない。いかなる水も低い方に下って流れないものはないのと同じである。それがいかなる訳で不善の存在になるかを水に例えていえば、水は本来、低い方に落ちてゆくのが性であるが、その水を人が手を打って跳(おど)らせば額の上へも越すであろう。またその下流を塞(ふさ)ぎ止め激して逆行させれば、水は逆に流れて山の上にもつくようになろう。しかし、それらはともに本性ではなく、打ち、または激する力に迫られて、已むなくそうなるのである。本来性は善である。人々が時として不善な行いをするのは必然の勢いで鼻くその本性の善が小欲にかられ、また利害のために迫られて一時的にその光彩を失っただけで、激する力が取り去られれば自然下へ下へと流れる。人もまた、利欲の心を失くすれば、本性に帰って善をなすようになる。」と教えられました。

怒りを抱いて正に人殺しに出かけようする人であっても、無心の赤子が井戸に這い落ちるのを見て急ぎ抱き上げて救う真・善・美の本性があります。

人を殺すとか加害するのは、感情であり、欲望であり利害に流れた気質性、習性の故であり、人の難儀を見て自動的に救い助けるのは、潜在している天性の為す業(わざ)であり、天性の顕れなのであります。

続く


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性理題釋~十二、三乗大法

2022-02-19 23:01:39 | 性理題釋

十二、三乗大法

三乗の法とは、上・中・下の法であります。

頓漸(とんせん)の法も、仮にその徳に応じて分けたものであります。

真法には、その根本と道脈がり、隠れたり顕れたりしていますが、直指見性(じきしけんしょう)、口伝心印(くでんしんいん)、一点により成仏し、一歩にして直ちに超越出来る法であり、気を脱して理に還る法で、これを頓法(とんぽう)ともうすのであります。

これを聞く人は聖者・仏様となられますが、その真法は千古不伝の秘宝でありまして、孔子様は『朝に道を聞かば、夕に死すとも可なり』と申されました。

これが最上の大法であります。

参禅して打ち坐り、法輪を転じ、周天を運んで、抽添(ちゅうてん)して運搬し、採取して鍛煉したり、又冬至の一陽と夏至の一陰を煉ったりして、幸いに成就しても陰陽の二気を抜け出すことは出来ません。

信ずることにより解り、解ることにより行じ、行ずることにより証(あか)されて漸法により空に転ずることであります。

これを修める者は、賢人や仙人となられますが、これが中乗気天の法であります。

敲打(こうだ)して念唱したり、橋や道路を補修したり、貧困や災難を救済したりすることは、循環の理であります。

今世に善を修めて来世に福を受けますが、その福が尽きれば善も終わるのであるから、輪廻に落ちるのであります。

経典に『若し前世の因を問えば、今世受けるもの是なり。若し来世の果を問えば、今生作(な)すもの是なり』と申されました。

箭(や)を虚空に射って力尽きれば必ず落ちるようなもので、これを行ずるものは善人、又は好人となることが出来ますが、仙仏と成ることはできません。これを下乗の法と申します。

続く

 


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