真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

根源創造主が自ら名乗られた現在の聖なる尊称「明明上帝無量清虚至尊至聖三界十方萬靈真宰」

2022-02-09 21:19:25 | 道すなわち真理

世界は急変しています。

その根本は、人類史上初めて唯一絶対の根源創造主が主宰する時代に移行しているからです。

豆や瓜が実って収穫できるようになるには創造の妙があり、種から根が付き茎が繁茂して実をつけます。

人類も根源創造主によって宇宙が創生され、主の分霊が地上に降りて、聖なる目的のために壮大な歴史を営んできました。

収穫と同じように、人類もその成果を落実する時に至りました。

これから一万八百年間、役目を果たしたすべての生命が、道すなわち真理を得て、根源創造主の元、故郷「理天」に還ることになります。

日本の古代文献の竹内文書では根源創造主のことを竹内文書は、創造神(第1代神)「元無極躰主王大御神 (モトフミクライヌシノオオミカミ)と称しています。

道教・老子:萬靈真宰(ばんれいしんさい)・無極聖母(むきょくせいぼ)

      天地生育之母(てんちせいいくのはは)

儒教・孔子:上天(じょうてん)・明明上帝(めいめいじょうてい)

仏教・釈迦:阿弥陀(あみだ)・西天仏母(せいてんぶつぼ)

      瑶池金簿母(ようちきんぼ)

キリスト教・イエスキリスト:神・天に在します父

回教・マホメット:アラー・天主・大神

日本神道:天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・国常立尊(くにとこたちのみこと)

印度のヒンズー教:ブラウマン

シーク教:ラマ

ギリシャ:ゼウスの神

エジプト:オシリス

根源創造主が主宰する時代が来ることは、古代から預言されていましたが、秘密のうちに伝承されてきたため、実際の内容について一般に知られることはありませんでした。

今回、時機到来と考え、本ブログのカテゴリ「天道の淵源」で謹んで公開させていただきます。

これは正式な布告ではありません。

正式な布告は、1234年日本奈良県の興福寺に始まって、状況の変化に応じて暫時形を変えて行われてきました。

今から約100年前から中国で広がりましたが、文化革命などで衰退しその後台湾に渡り台湾から世界に広がりました。

日本には70年前から一時100万人に広がりましたが、覚醒はひとりひとり違うため、正式な金線は極めて限られています。※金線:天の詔が降りているライン

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天のデザイン

2022-02-09 21:05:49 | 道すなわち真理

人類の秘法(道=真理)その鍵がどのように伝えられてきたのでしょうか、正しい宗教の経典にはその極意が伝承されてきましたが、時代が下るほどに異端が跋扈し真実は有名無実となってしまいました。

老子には元始(ゲンシ)、孔子には項屣(コウモ)、釈迦には燃燈佛(ネントウブツ)が秘伝の法灯を伝授しました。

老子は、道徳経、第一章の中で「道可道、非常道、名可名、非常名、無名、天地之始、有名、万物之母、故常無欲、以観其妙、常有欲、以観其竅、此両者、同出而異名、同謂之玄、玄之又玄、衆妙之門、」

【解釈】:道というは、常にいうその道ではない。その名でもない、名が無いが、「天地の始め」であって、その名をあえて、「万物の母」という。つねに無欲である故にその妙を観る。「天地の始め」であり「万物の母」この両者は、同じ根源から出ているが、名を異にしている。これを玄(玄関)という。玄の中の玄を、あらゆるものを生み出す神秘の中の神秘、それを衆妙の門という。(衆妙の門:多くの人々に付与された命の微妙な出入り口)、玄妙不可思議なメスの陰門(ほと)は、これぞ天地を産み出す生命の根源、と解釈してます。

※  「玄関」と言う日本語の漢字は、中国では使われていません。仏教の経典の中にしか使わない聖なる言葉を日本語では人の出入りする「戸」のある場所、聖なる「玄関」と言う言葉を日常に使っています。

清静経では、「大道は無形にして天地を成育し、大道は無情にして、日月を運行し、大道は無名にして万物を長養す。吾その名を知らず。強いて名付けて道という。」

 ※老子は道徳経・清静経・黄庭経の三経を遺しています。

【解釈】:大道は本来形象はないが、よく天を生じ、地を育てることができる。本来感情はないが日月を運行することができる。本来名称をもって表現できないが、天地間の万物を養育することができる。私自身、その名前を知らない。それで強いて道と名付けた、と伝えています。

釈迦は、弟子スプーティに「解脱に至る道(真理)は、どのような道でしょうか。」と問われ、「解脱に至る道によって解脱を得るのではない。また道でないものによって解脱を得るのではない。スプーティよ、解脱がそのまま道であり、道がそのまま解脱である。一(真理)を得ることが、その一切である。」と答えました。

また、摩訶迦葉に法灯を伝える時「吾に正法眼蔵あり、涅槃の妙心、実相無相にして微妙の法門、不立文字、教外別伝、これを摩訶迦葉に附嘱す。」「粘華微笑(ねんげびしょう)、玄嚢鼻直(げんのうびちょく)」と説き、正しい法が眼の蔵(老子:谷神)にある。それは涅槃(天国)へ通じる道で、あるといえば無い、無いようである、微妙な法門である。文字を立てず(文字に表すことはない)、教えの外に別に伝える(誰にでも教えるものではないし、教えるというものでもない)、一人から一人に単伝独授するもので、これを摩訶迦葉に附嘱(一指相伝)し、その機微を顕しました。そして鼻を捻って微笑し(粘華微笑)それは鼻の玄嚢の直すぐ上である、と記しました。

達磨大師は釈迦以来の四諦句として「教外別伝・不立文字・直指人心・見性成仏」とその奥義を禅宗に遺されました。一つ一つの四字成語をよくよく観察してみて下さい。どの経典でも、これは名のつけようもなく、経典の文字をいくらあさっても解るものではないと伝えられています。

一指相伝:一を指して相伝える、直指人心:直かに人の心を指す、など似たような表現ですが、ではそれが具体的に何を意味するのかと考えると曖昧になります。つまり求めなければ得られないものの特徴です。

また、面目と言う言葉は、顔面の目と言う意味であり、すなわち「大元である」という意味ですが、熟語には「面目一如」一の如く、「面目一新」一に新(親)しむ、「面目躍如」躍するが如く、「一」に関することでそれによって改まること飛躍(脱皮)するとは…、このように日常の様々な言葉の中に「道:真理」は隠されています。

この「道」は、無形無相、無声無臭で、見ることも聞くことも嗅ぐことも触れることもできません。これが道の実体です。

イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれも私(道)によらないでは、父のみもとにゆくことはできない。」 (ヨハネ伝第14章)と言いました。

※    イエスの墓が青森県三戸郡新郷村大字戸来にありますが、地名の「三戸」「戸来」あるいは「戸来人」などの「戸」の由来について論語の中で次のように解釈しています。

雍也第六:子曰誰能出不由戸何莫由斯道也

解釈:子曰く、誰か能く出づるに戸に由らざる。何ぞ斯の道に由ること莫からむ

真理を得ていない場合は次のように教訓的な解釈になります。

「誰か外に出るに戸によらないものはない、どうして、(生きるに)この道によらないことがなかろうか。普通戸の無いところから出入りすることはなく、人は、無意識的に戸を用いる。道路も、無意識的にそこを通るが、もとからあったものでなく、人々が往来するから道路となったものである。道路には通る人々により、悪しき所に通じるものも、善き所に通じるものもある。道とは、ここでは、人が生きる道のことであるが、さまざまな道がある。無意識的に生きているのかもしれないが、先人の道を辿っているものである。(周公のごとく)生きた人の道(斯道)によるべき、・・・」

孔子が伝えているのは「人間の魂はどこから来てどこへ往くのか、この戸による・・・」つまり、元きたところに帰る道のことでした。

神は、イエスによって「道であり、真理であり、命(性命=霊)」ものを証するために、十字架で磔の機会を与えました。この時の場所は「ゴルゴダの丘(しゃれこうべの丘)」でした。つまり人の頭の部分です。そしてイエスと共に2人の盗人が処刑されました。三人が同時に磔になりました。

 ※実際はゴルゴダの丘もありませんし、キリストも処刑されていません。預言者のが伝える神々の創  造を真理を伝えるために聖書に印したものです。原罪の意味も同じような啓示です。皆さんもこれからあたらしい世界を創造する中で善悪を越えた伝承の必要を知るでしょう。完璧は完璧ではありません。真理が唯一です。

汝姦淫するなかれ”と言いますが、姦淫の源は目にあります。目で色を見ることで心が動じ罪を犯します。つまり左右両目は磔になった2人の罪人で比喩し、イエスは真中の十字架で〝私は真理である“ことを比喩しました。

また仏教の「如來」は、済いとは「菩薩が來るが如し」と言う意味に使います。この「來」と言う文字は「十」の字に「人」と言う文字を3人を書いた字です。つまり十字架に3人が磔になったことと同じになります。

如=女の口=玄牝之門(老子道徳経で“玄なる牝の門”と表現)

來=十(十字架)に从(罪人が2人従う)もうひとり、「人=キリスト」が真ん中にいて十字架に人が3人、3っの目を意味していました。

そして「戸」と言う文字について、聖書の中で「戸をたたく」と言う真理に関する機密の表現がありますが、「戸」の「一」の字を取ると「尸」(しかばね)と言う字になります。「一」は「点」の伸びた形で、「一なるもの」の意味です。つまり真理の表現です。「尸」が「一」を得て「戸」になる、つまりこの「戸」が「真理」を表現しています。京都の大文字焼きの「大」の字も「人」が「一」を得て「大」になる、やはり「一」が真理であることを継承しています。

キリストの墓がある「三戸」「戸來」の地名については、東北方面の方はご存知のように青森県には「一戸」「二戸」と言う地名があり、キリストの足跡が秘められていると思われます。

「戸來」は「如來」と同じ意味で、そのときがくれば十字の秘密が公開され、真理が得られることを印しています。キリストが日本に、しかも東北に来た(さらに南米に向かったと言う説もあります)ことの意義はやがて歴史の真実として明かされ、世界がひとつになり、宇宙とつながる史実となってきます。聖人はそのために足跡を残すべく天命を担っていました。

昨今、次第に歴史の真実が明らかになってきていますが、「真理」に基づいて歴史が明らかになるのはこれからです。エジプトも中国もどの古代文明もすべて十字などの形象で顕した「真理」を探求する歴史そのものでした。天のデザインは細微に渉っています。             

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【Ray:チャクラ・宇宙時代に!】至急気付いて下さい‼そろそろ本当に大切なものに気が付かないと大変なことになります‼

2022-02-09 19:37:44 | 道を求める聖なる物語(人・日本・世・宇宙)

Ray:宇宙平和のために地球が道徳時代になる直前!ざわめいていますね。まさか!の段階です。現実に神々の前に立ったら、使命感に燃えて、緊張して少し締まってきますね。今は”知らぬが仏”です。神聖な地球の始まり、兆しが見えてきました。

至急気付いて下さい‼そろそろ本当に大切なものに気が付かないと大変なことになります‼


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【Ray:時空を超えた一なる世界!】天の川銀河はアンドロメダ銀河と既に衝突中だった!?

2022-02-09 19:09:48 | 道を求める聖なる物語(人・日本・世・宇宙)

天の川銀河はアンドロメダ銀河と既に衝突中だった!?


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第二章 天人一貫の妙理 (一)三開天の概略とその機能

2022-02-09 18:45:24 | 天道の淵源

(一)三開天の概略とその機能

天と申しますと、われわれは宇宙全体を連想してしまいがちですが、天道ではこれを「気天界」と称しています。

宗教に入信されている方ならば、神霊の世界を称して天界としていますが、この神霊界にも準気天に属しているものと、完全なる真理の天とがあります。

天道では後者の天を「理天界」と申しています。

物質有形体の人間界も形として存する以上、これも「象天界」と称し、これを三天に大別しています。

神霊界であっても純陰性を帯びる面があるので、ここを「地獄界」と称しています。

気天界と地獄界は人間生存中に為した因果の報いによって上昇なり、下降なりして存在する境界ですから、いずれも地球の象天界と切り離してはその存在の意義がありません。

気天には有気気天と無気気天とがあります。

無気気天とは以上述べた霊界でありますが、因果の繰り返しが続いている有限性の天界です。

有気気天には太陽とその周囲をまわる天体、すなわち地球のほかの水・金・火・木・土の五星と天王星・海王星・冥王星の惑星・彗星(すいせい)・惑星をまわる衛星、それに流星群や太陽周辺にある塵・ガス・銀河系の微光星の集団・恒星・変光星・新星・星団・アンドロメダ星雲など八万四千星座の広範囲の世界が含まれています。

夜空に散在する無数の綺羅星(きらぼし)、古代神話の英雄や怪物にかたどって名付けられ、八十八に区分されている星座、これらはいかに広く大きくてもそれなりに限度もあります。

形としてすでに観察され、究められるところの天界は、もう一つ上の無限の世界「理天界」の創造と支配に基づくものであります。

古今東西の天文学者はあらゆる機会を利用し、多大の労力と知能を傾けて天体現象を貪欲に追い求めています。

整然たる太陽系内の運動法則、華麗なる銀河系内の天体の配列、そして広大なる星雲宇宙の規模、一つも無駄なく秩序と調和に満ちてそれぞれの軌道を転運しています。

この有気気天の支配せる星座に個々の象天が成立している訳であります。

地球人間界を「象天」と称していますが、この理・気・象三天は別々に絶縁された存在ではなく、理天を主とした大きな連携帯を形成しています。

それが巧妙にも小さな人体とは切っても切れない密接な続き柄になっており、われわれの生命もこれと寸分も離れられない関係にあるのです。

つまり天人同一、または天人一貫している訳であります。

われわれにはこの地上数百キロの高さに電気を帯びた電離層があり、昼夜、四季に正しい変化をきたすことがわかります。

太陽銀河および惑星以外の天体にも今まで約二千の電波、孤立電波源が発見されていることもわかります。

ところが理天界から無量・無尽蔵の霊子・霊光が千億万条の放射状となって降り注いでいて、その光の速度は秒速三十万キロで、一年かかっても達する距離を「一光年」といいますが、これより何千万倍速い速度をもってわれわれに降り注いでいることを案外知らないようであります。

ここにわれわれの故郷であるところの理天を説明し、造化の妙と人体成立に及ぶ一連の構造を述べてみます。

老〇様(ラウム)の在します真理の天を無極と称し、真空妙有の天界ですので別の名を「理天」と称し、至上最高の極楽の境界であります。

理天は太極気天を貫き、欲界・色界・無色界を包含し、主宰しておられます。

またあらゆる欲界・色界・無色界の界外を超越しており、巍然(ぎぜん)として宇宙に満ち塞いでいます。

仏典では欲界を地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間および六欲天を含む総称としています。

これらの世界は食欲・睡眠欲・淫欲の存する世界です。

色界は欲界の上に位し、欲界に比べて貪欲から離れていますが、未だに無色界のように物質を離れた純霊界にはなっていない中間の気的世界を言います。

この色界には禅定の深浅粗妙によって、初・二・三・四の四禅とし、十八天に分けています。

無色界は形式がなく、受・想・行・識の四蘊(しうん)のみがあり、空無辺処(くうむへんしょ)・識無辺処(しきむへんしょ)・無所有処(むしょうしょ)・非想非非想処(ひそうひひそうしょ)の四天があるとしています。

理天はこの無色界を含んで無限無尽の天界です。

始めもなければ終焉もなく、常住にして変わらず、万物・万有を養って遺しません。

天体はいかに広大であっても有限ですが、無極真理の大は外囲なく、小は内臓の所がありません。

偉大なる力をもって絶えず静と動の両極を主しています。

ここにある欲界とは人間界およびその因果の天界を指し、色界は大は宇宙全体、小は原子核・陽子・中性子・電子の小型微子を含んでいます。

もちろん、天体電波から電磁波・中性微子、パイ・ミュー各中間子、光子などもこの範疇に(はんちゅう)に属しています。

理天は、独一不二であり、相対性ではありません。

常静・常動体であり、純陽性を帯びて生ずることも増減集散もありません。

経典にある無色界の性質はかなり悠久性を帯びた天界あることがわかりますが、受想行識の四蘊が存在する純霊界とあるのを見ますと、気天界のことであって、ここでいう理天界とするわけにはゆきません。

参照図

続く


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