真説・弥勒浄土      

道すなわち真理の奇蹟

性理題釋~五、輪 廻

2022-02-12 23:15:37 | 性理題釋

五、輪 廻

輪(りん)とは車輪であり、廻(ね)とは去ってまた来ることであります。

天も一つの輪であり、地も一つの輪であって、天地相転変して寒暑を代わるがわるに運び、又風雨をめぐらしておりますが、これが天地の大輪廻であります。

日も一輪であり、月も一輪であって、日月相代わって照明し、運行することやまず、昼夜循環しておりますが、これは日月の小輪廻であります。

天地・日月は輪廻の中心であって、陰が極まれば陰は消えて陽が長じ、陽が極まれば陽は消えて陰が長じます。

故に南北二極があり、南極へ三十六度入れば常に隠れて現れません。

これを陰極又は陰儀と申し、北極より三十六度出づれば常に現れて隠れません。

それを陽極すなわち陽儀と申します。

この南北二極は天地を輪廻しますが天地の間日月の下の全ては、その輪廻を受けないものはありません。

人は天地の正道の気を得て生まれ、日月の精華の気を受けて育ちますが、陰を負い陽を抱いております。

そこで一時でも天地覆載(てんちふくたい)の中にいない事はなく、一時も又日月の照臨(しょうりん)の下にいない事はありませんので、どうしてその輪廻を免れることが出来ましょうか。

故に人には陰にはすなわち陰に随います。

日は陽であり、月は陰であって、夜は月が出るので陰に属し静を主としますので、人はこれに随って静まり息(や)済むのであります。

昼は日が昇るので陽に属し、動を主と致しますので、人は之に随い活動し働くのであります。

万物も天地の流行の宗旨(法則)に随います。即ち陽が極まれば陰が生じ、輪は陰間(地獄)に到って鬼となり、陰が極まれば陽が生じて輪は陽間(現象界)に到り、そして人と生まれるのであります。

これは陰陽消長の機であり、天地日月の輪廻の理であります。

輪廻に地獄道・畜生道・餓鬼道・阿修羅道・人間道・天上道の六道と、胎・卵・湿・化の四生があり、人には富貴・貧賤の二道があります。

富が極まれば貧となり、貧が極まれば賤となり、賤が極まれば貴が生じます。

物も極まれば則ち反し、人が極まれば輪は動物に廻り、動物も極まれば輪が人に廻って来るのであり、胎卵の輪を湿化(しつか)に到り、湿化の輪も胎卵に廻って来て、生まれて死に、死んで生まれ、そして大輪小輪・悪輪善輪・人輪物輪・神輪鬼輪と、ちょうど時計の針が無数に廻り来て廻り去るように、魂は深く迷って行くのであります。

如何に英雄豪傑と雖も、この牢籠(ろうろう)より跳び出すことは難しいのでありまして、経典に『金剛経(こんごうきょう)を読破し、大悲呪(だいひじゅ)を徹底的に解しも、瓜の種には瓜が実り、豆の種には豆がなるのであって、明師の指点を受けなければ、永遠に輪廻の苦しみを解脱する事は出来ない』と申して、明師指点の重要性を説いております。

続く


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性理題釋~四、道の宗旨

2022-02-12 22:16:47 | 性理題釋

四、道の宗旨

大道の宗旨は、天地神明を敬い、国を愛して仕事に忠実であり、敬を敦(あつ)くし礼を崇(たっと)び、父母には孝行をして、師尊を尊重して、朋友を信じ、郷隣と睦まじく和して、悪を改め善に向かわしめ、五倫(君臣・父子・夫婦・長幼・朋友)・八徳(孝・悌・忠・信・礼・儀・廉・恥)を説いて明らかにし、五教聖人の奥妙な宗旨を世に表わし、四維(礼義廉恥)や三綱(君為臣綱・父為子綱・夫為婦綱) 五常(仁・義・礼・智・信)の古礼に遵い、心を洗い思慮を浄め、仮体を借りて真理を修めて、本性の自然即ち真面目を恢復(恢復)せしめ、良知良能(全智全能)の至善を生ぜしめるのであります。

己が立って人を立たせ、先ず己が達して人を達せしめ、人心を教化して善良にし、太平の世を齎(もたら)して大同世界を冀(こいねが)う行いが、この道の唯一の宗旨であります。

この道には何の背景もなく、種々な工作を組織もないばかりでなく、良くない思想をもつことも許されません。

そこで社会においては一切の摩擦もありません。非常に淡白で水晶のような光明な大道であります。

孔子様は『教え有り類無し』と申され、又『異端を攻めるは斯く害あるのみ』とも申して“色々と人に道理を教えるが、外に比類するものがない”と申し、“道以外の法で人を教えることは、人に害を与えるばかりで、教化することはできない”と申され、道の尊いことを説かれました。

続く


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性理題釋~三、大道の沿革

2022-02-12 21:59:45 | 性理題釋

三、大道の沿革

老子、清静経に『大道は無形にして天地を成育す』とありますが、これは天地の源が道であり、未だ天地が創造される以前に道があって、道が天地を生み、そして育てたことを意味します。

史記に『天は子(ね)の会に開き、そして戌(いぬ)の会に没す。

地は丑(うし)の会に闢(ひら)き、而して酉(とり)の会に没す。

人は寅(とら)の会に生じ、而して申(さる)の会に没す』とあります。

※下図をご参照ください。

人間が始めて地球上に生まれて来たのは寅の会であって、当時人の本性は皆善(ぜん)でした。

その当時、天によって人が生じたので、人を支配する一切の働きは天にありましたから、人が道をどうこう論ずる必要もありませんでした。

道が中古に伝わり、人が人を生むようになってから、人間社会を支配する一切の働きは人に移されました。

始めに伏羲(ふくぎ)氏が出世せられ、天地自然の仰観俯察(ぎょうかんふさつ)して、先天八卦を画き、天地の奥妙を顕しました。

これが道が世に降りた始めになります。継いで、蒼頡(そうけつ)氏が文字を創り、有巣(ゆうそう)氏が宮室を建て軒轅(けんえん)氏が衣装を整えるなど、文化は大備しました。

これで道が地上に華を咲かせたことになります。

尚続いて、堯(ぎょう)、舜(しゅん)、禹(う)、湯(とう)、文(ぶん)、武(ぶ)、周公(しゅうこう)と道統を受継いで、心法を一脈相伝しましたが、これを青陽期(せいようき)と申し、これで道が整ったことになります。

時代は変わって周(しゅう)の末世となって五覇(ごは)が起こり,互いに争って、天子の政令が天下に行なわれなくなり、道は紅陽期(こうようき)に転じ、分かれて三教(道教・儒教・仏教)となりました。

これを道の分かれと申します。

老子様が降世して道の宗旨を発揚し、東方の魯(ろ)に孔子を渡ましたが、孔子は『吾今、老子にまみえしが、それなお龍を見るが如しかな』と嘆詞を残されました。老子様はその後、西域の胡王(こおう)を化そうとして、紫雲瑞気溢れる函谷関(こくかん)を出ようとすると、関尹子(かんのいんし)に留められ書をつくらせられましたので、道徳経五千言を著わしました。

これが道教の始であります。

孔子様は道を受けて周遊列国氏、西方を教化しましたが、その後詩を刪(けず)り礼を訂(ただ)すなど、継往開来(けいおうかいらい)して永久不変の真理を闡(ひら)かれ、万世不易の定論を立てられました。大道の精微にして奥妙かつ玄妙な理は、大学と中庸などに悉く(ことごとく)叙述されましたが、これが儒教の始祖であります。孔子様は道を曽子(そうし)に伝え、曽子は子思(しし)に伝え、子思は孟子(もうし)に伝えましたが、孟子以後、道脈は西域に還り、中国には心法が失伝してしまいました。

それから、秦(しん)、漢(かん)、晉(しん)、隋(ずい)、唐(とう) を経て、学者の議論は囂然(ごうぜん)として蜂起しましたが、悟りの境地には至りませんでした。

そして炎宋(えんそう)の時に至り、文運は大いに開き、偉い学者が輩出して、立派な議論も百出し、特に濂渓(れんけいという場所)の周敦頤(しゅうとんい)、洛陽(らくよう)の程灝(ていこう) と弟の程頤(ていい)、関中(かんちゅう)の張載(ちょうさい)、閩中(びんちゅう)の朱熹(しゅき)等の賢人が相継いで起こり、真儒を盛んに提唱しましたが、然し乍、道統は孟子以後、西域に転じていたため運に相応じることができませんでした。

宋の時代に儒者は輩出しましたが、ただ道旨を闡揚したに過ぎませんでした。

釋教として西域に接受された道は、お釈迦様の大弟子迦葉(かよう)に渡しました。

これが佛教の始祖となりました。

こうして道は三教に分かれ、各々一地方に伝えて、また各々経典に留めました。

釈教(佛教)ではお釈迦様より単伝して、二十八代目の達磨尊者(だるまそんじゃ)に至りましたが、中国の梁(りょう)の武帝(ぶてい)の時に達磨様が西域より中国に渡られ、真機は中国に還りました。

これを老水還潮(ろうすいかんちょう:本の水が本に還る)と申します。

達磨様が中国に渡られてから、真道は中国において一脈相伝しました。

達磨様が初祖となり、二祖神光(しんこう)、三祖僧燦(そうさん)、四祖道信(どうしん)、五祖弘忍(こうにん)、六祖慧能(えのう)となりましたが、六祖に至って衣鉢(えはつ)は失伝しました。その当時、南頓北漸(なんとんほくせん)の称がありましたが、その実、道は俗家(僧侶でない人)に帰しました。

六祖は白・馬祖二人に渡して祖としましたが、道は火宅に転じて八代の羅(ら)祖、九代の黄(こう)祖、十代の呉(ご)祖、十一代の何(か)祖、十二代の袁(えん)祖、十三代の徐(じょ)・楊(よう)祖、十四代の姚(よう)祖、十五代の王(おう)祖、十六代の劉清虚(りゅう・せい・きょ)祖に至りました。

この十六祖で紅陽期は円満になり、道は白陽期に転じて、弥勒様の応運となって、路(ろ)祖様が初祖となられました。

そして大開普渡して大いに道の玄妙な天機を万人に伝え、三層を普渡し、万教を和して帰一せしめる末後の一着の大聖業を、弓長(ゆみなが)・子系(しけい)が受け継いで応ずることになります。

三代以上は道は君相にあって、一人で天下を化せられましたが、これを青陽期と申します。

三代以後には、道は師儒(しじゅ)にあって、三教相継いで起こり、各々一地方を治めましたが、これが紅陽期であります。

現在は三期末会で世風は頽廃(たいはい)し、災難が流行して地球の至る所に完全な処がなくなりました。

そして道は庶民にあって人は皆成道し、一人一人が成仏できるようになりましたが、これが白陽期です。

以上が大道の沿革になります。

続く


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性理題釋~二、人と道との関係

2022-02-12 21:49:08 | 性理題釋

二、人と道との関係

 中庸に「道は須臾も離る可からざるなり、離る可きは道にあらざるなり」 “道は片時も離れることができないものである。

離れられるものは道ではない” 道とは真理であります。

人が必ず通じなければならない路であります。

人が平常道徳に依存しているのは、あたかも汽車が軌道の上を走り、船が水上に浮かび、飛行機が空中を飛ぶ様なものです。

もし汽車が軌道を離れ、船が水を離れ、飛行機が空気を離れれば、危険この上なく必ず大事故を引きおこします。

同様に人がもし道を離れると、社会に於いては法律の制裁を受け、死後は陰府(地獄)で閻魔王の制裁を受け、輪廻に墜ち、四生(胎生、卵生、湿生、化生)、六道(天道、人道、地獄道、阿修羅道、畜生道、餓鬼道)の間を転変して止むことなく、無辺の苦海を彷徨うこと極まりがありません。

孔子様は「君子は死すとも善道を守る」と申され、又、「君子は道を憂い、貧を憂えず」「君子は道を楽しむ」などと言って“道を体得された方は死を以て道を守り、貧乏を嘆かず、道の足りないことを嘆き、又、道の成就されることを楽しみにした”と申されました。 

顔回(顔子)は道を得て、拳々服膺して、片時も道を忘れることなく、そして終身これを失いませんでした。

曽子は道を得て、戦々兢々として畏れ慎み、一日己の身を三省しました。このようにして見れば、道と人との間の密接な関係がありますが、惜しいことに世人は皆これを度外視しています。

孔子様は「誰か能く出ずるに戸によらざらんや、何ぞこの道に由らざるはなし」と言って“何びとと雖も戸によらずして出づることができましょうか、又、何ごともこの道によって、その物事が成就するのに、世の人々はこれを知らないのである”と嘆かれました。

※ 三省: 曽子曰く

吾れ日に三たび吾が身を省みる

1、人のために謀りて忠ならざる乎:友人の相談にのって、それのみならず、その人のために行動して忠実であったか。

2、朋友と交わりて信ならざる乎:真義を欠いていなかったか。

3、習わざるを伝うる乎:よく呑み込んでいないのに相手に教えていなかったか。

続く

 


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性理題釋~一、道の真象

2022-02-12 21:39:52 | 性理題釋

1、道の真象

天地の創造される以前には、宇宙は渾然としたエネルギーで、混沌として、一つとして形のあるものはなく、音もせず、臭いもなく、極めて空虚であって、至って玄妙なものです。

道祖曰く、天地の創造される以前は名称がなく、即ち◯・円(えん)の様なものとしました。

名のある物は万物の母であって、即ち「一」の字のようなもの、道の偉大さは名状しがたいが、強いて名づけて「道」と言いました。

円は「一」の静止状態であり、一塊(かたまり)の玄理であって、これが道の全貌です。

一は円の動態です。

この一を根本とし、それが散ずると萬物が生成されました。

これが道の運用です。

円が動けば一を生じ、一が縮まれば「・点(てん)」となります。

・点が伸びれば一となります。

即ち、円、一、点、は動静・伸縮の像であって変化して窮まりありません。

これらのものが宇宙に充満して、一となり、これを巻いて固めると點となります。

即ちその偉大なこと際限がなく小さいこと内腔がない、宇宙に存在する物、貫通されないものはなく、包容(ほうよう)しないものはなく、これが宇宙に充満し、森羅万象包んで、しかも真に空虚で微妙なものであって、あらゆる霊の主宰であります。

これが天にあるものを「理」と称し、人にあるものを「性」と言います。

理は万物に共通の性であり、性は万物が具えている「理」であります。

人はそれを持っていますが、持っていることを自覚していません。

これを悟るものは神、聖人となり、これに迷うものは鬼の世界に墜ちて行きます。

故に曰く、千・万の経典を読破するよりも一点を知ることを良しとします。 

この一点は四方を統合して万善を兼ね持ちます。

人を思いやる心は仁の始めであり、悪を恥じる心は義の始まりです。

正邪をわきまえる心は智の始まりであり、人に譲る心は礼の始まりです。仁義礼智の中心に信があります。

すなわち、

   

    |

義  信 ― 仁

    |

    礼

 となります。

その深長な意義は味わって猶つきないものがあります。

故に老子曰く、大道は形がないが、天地を生成する。

大道は感情がないが、太陽や月を運行して分秒も違わない。

大道は名前がないが、万物を永久に養育する。

天地生成前、道がその体系を形造り、天地生成後に道はその効用を広げました。

続く


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