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お楽しみはこれからだ❣️

本と映画とテレビと鉄道をこよなく愛するブログ

新アニメのアフレコと「柳本ジャパン」の似ている事・・・僕の思いです。

2006年08月24日 | テレビ番組
新アニメの初回のアフレコ。今日、16時から立ち会った。現場はいい雰囲気である。初めてのスタジオ。初めて会う人々。それをまとめるのが、同期のCP。そして、今回、とっても良かったのが、監督と音響監督のコンビネーション。音響監督と言っても、分からない人は多いだろう。アフレコ時に、声優さんへのダメだし含め、全ての音の指示を出すのが「音響監督」だと僕は認識している。監督もプロデューサーもスタッフも、おかしいなと思った箇所があれば、この「音響監督」に伝える。それを集約して、声優さん達に、微妙なニュアンスを伝えるのが「音響監督」。監督のダメだしにも、自分がちゃんと納得がいかないと、とことん訊く。そして、的確に声優さんに伝える。監督との打ち合わせの時間がかかると思ったら、スタジオの中にいる声優さんに「今、打ち合わせ中です!」と「何で待っているか」を伝える。これは、ドラマの助監督の場合も同様。出演者は「何で待たされているのか」を知っていれば、納得する。しかし、「何待ち」か、誰も言わないと、不安になり、イライラしてくる。とても、細かい気遣いだが、これが積み重なってくると、爆発したりする事もあるので、要注意。

アフレコは無事終了し、同期のCP恒例の「飲み会」が始まる。僕も誘われ参加。一つのチームが出来上がる。アニメのアフレコでは、毎週、この「飲み会」が行なわれている。3本のアニメを持てば、一週間で3回、飲み会にCPは付き合う。今の社会に欠けている「人間関係」「チームワーク」を作る為である。

僕は「柳本ジャパン」が好きだ。帰りのタクシーで思ったのは、CPが全体を見て、監督が柳本晶一、そして、音響監督がキャプテンでセッターの竹下佳江。そんな風な思いがよぎった。自分は陰に廻り、周りに笑いを振りまきつつ、「優しさ」を配っていく・・・そして、仕事は最大限の事をする。「自分は!自分は!」という人の多い中で、音響監督の行動は爽やかな一風の清涼剤であり、見習って欲しい人が周りにたくさんいるなぁ~とため息が出てしまった。

僕は人見知りをするタイプである。しかし、飲み会を設けてくれた事で、いろんな人と話せた。音響監督もその一人。女優の室井滋さんと親しいとの事で、話は盛り上がる。室井さんの事務所の社長さん、通称「ふぐママ」の話にもなる。「ふぐママ」に会いたいなぁ~と久しぶりに思った。元気かなー、元気に決まっている。

音響監督と室井さんとふぐママと一緒に美味しいものを食べ、酒を飲みたい。今日の飲み会には、うちの編成のアニメ担当の後輩も来ていたのだが、僕のブログが「どこのテレビ局」の誰が書いたか、バレバレであると言う。固有名詞は、「遊川和彦さん」以外は出していないのだが。

バレてもいいと思っている。テレビ業界の事も、自分の体験した範囲内でうそ偽りなく書いているし、それがうちの会社の「具体的な事」にまでは言及していないと思っているのだが。

もし、僕の書いた事で迷惑に思った人がいたら、教えて下さい。調子良く、書き進んでいる内に、余計な事まで書いてしまっているかもしれないから。

「柳本ジャパン」の三連戦をHDDで観て・・・

2006年08月23日 | 健康・スポーツ
HDDで録画していた全日本女子バレーの「三連戦」を観た。凄く、面白い。第1戦の「対キューバ戦」では、大山加奈と荒木絵里香が大活躍。続く第2戦「対韓国戦」では、落合真理の活躍と小山の初得点。第3戦「対ブラジル戦」では、終盤の高橋みゆきの活躍と小山修加の打点の高いスパイクが目立った。リベロで登場した菅山かおるも頑張っていたが、まだリベロとしての行動範囲は狭く、それを竹下佳江キャプテンがカバーしていた様に思う。杉山はマイペース。木村沙織はレシーブでブラジル側に狙われて、苦しい思いをしていた上に、竹下が抜けた時、レシーバーとセッター両立に苦しんでいた様に思う。

大山加奈と荒木絵里香は、高校もVリーグの所属チームも一緒。また、落合は高校の先輩で・・・ベンチで内心悔しい思いをしていただろう。

「柳本ジャパン」・・・この布陣に「栗原恵」「狩野舞子」等が加わり、個性的なチームができるのではと確信した。

それにしても、フジテレビのバレー中継は「選手の表情」を捉えて、「ドラマ」にしており、素晴らしい。しかも、スロー再生の決断の早い事。11月のTBSがどこまで中継できるか・・・心配である。http://go-japan.seesaa.net/

元・全日本女子バレー選手「大友(山本)愛」が出産しました。

2006年08月23日 | 健康・スポーツ
大友愛さん出産…パパ山本も奮起

 バレーボールの元全日本女子で、今年1月にビーチバレーの山本辰生(30)=フリー=と結婚した大友(現山本)愛さん(24)が18日に第一子となる長女を出産していたことが21日、分かった。

 関係者によれば、18日午後に神奈川県内の病院で3296グラムの女児を出産したという。予定日より1週間ほど遅れたものの、母子ともに健康。2人は待ちわびていたわが子の誕生に大喜びといい、名前はこれから決める。

 1月に結婚した大友さんは、出産の準備のため3月31日付で所属していたVリーグ女子のNECを退社。関係者によれば、出産は無事に終えたものの、今後も育児に専念するといい、現役復帰する意向はないとみられる。

 一方の山本は、20日に行われたビーチバレージャパンで3位に入り、25日からはJBVツアー第4戦(福岡)に出場。パパになったことで気持ちも新たに2年後の北京五輪を目指す。
(スポーツ報知) - 8月22日より


僕的には、大友選手に現役復帰して欲しいなぁ~

「左折する時に出る矢印」・・・赤信号では「赤い矢印」になっていた。

2006年08月22日 | 鉄道・車・タクシー・バス・飛行機
「青の矢印」だけ出せば、分かりやすいと思うのだが。そんなに交通量も無いし・・・

スパゲティー屋が満員だったので、エントリーした。そしたら・・・

2006年08月22日 | 料理・飲み物・食べ物
こんな「円盤状」のものをくれた。周りが光る。順番が来たら、光ったり、音が出るんだろうなぁ~と思っていたら、席が空いて、単純に店員に取り上げられた。あれはただの「順番が書いた板」だったのだろうか?

サイパンの「エレベーター」のボタン

2006年08月22日 | エッセイ・日記・意見
泊まったホテルのエレベーターの中のボタン。「DC」「DO」は「Door Close」「Door Open」の略だろう。「エレベーターのドアを閉めるボタン」のある国って案外少ない。

8/18~8/22「サイパン旅行」に行って来た。

2006年08月22日 | 旅・外国
20年ぶりに「サイパン」に行って来た。飛行機テロの影響で、成田空港の「スーツケース」「手荷物」の検査は厳重を極めた。乗った飛行機が「ノースウェスト航空」というアメリカの航空会社という事もある。

家族が揃って空いている期間が8/18~8/22までしか無かった。長男のサッカーの合宿、長女の陸上の試合、家族の帰省等等、やっとこの日取りが決まった。しかも往きは20:55発成田で、午前1時過ぎにサイパンに到着。その日は昼前まで寝て、8/20.21の地元のツアーの申し込み。そして、昼ご飯はホテル内の日本料理店のランチ・ブッフェ。つまり、特にアトピーの酷い次男が食べられるものを考えると、海外では、和食のあるバイキング料理か、スパゲティーで「卵製品」も「乳製品」もかけてないもの(スパゲティーの麺には、この2つの成分は入っていないので)になる。

8/19の午後はホテルのプールで遊ぶ。子供達は元気だ。日が暮れる午後5時頃までプールで遊んでいた。泊まったホテルは「GRAND HOTEL」。20年前、ドラマのスタッフと初めてサイパンに来た時は「DIAMOND HOTEL」だったろうか?確か、コンチネンタル航空が名古屋空港からしか出てなくて、名古屋まで行った記憶がある。どちらのホテルもサイパンの繁華街からは遠い。

夕方、着替えて「DFS(デューティー・フリー・ショッパーズ)」へ。今回は「阪急交通社」のツアーで行ったのだが、「阪急交通社」の発券してくれた「ショッピングカード」を持っていると、どこのホテルからも「DFS」へのタクシーは無料。

「DFS」へ行くとつい買い物をしてしまう。子供達には退屈な思いをさせたかもしれない。僕が買ったのは、モンプラン100周年の「万年筆」。モンプランのマークのところに、マークの形にダイヤモンドが埋め込まれている。そして、ブルガリの時計。一昨年、グァムで買ったのだが、スポーティーな奴が欲しくて、清水の舞台から全力疾走で落ちる気分で購入。

「DFS」の向かいの「ABCストア」で、「メラトニン」を12瓶買う。日本では、この「睡眠導入剤」は「厚生労働省」の認可がおりていない為、もの凄く高い値段で売っているが、サイパン(アメリカ)では「ABCストア」の様な雑貨屋(日本で言えば「ドン・キホーテ」の様な店)に
積み上げてある。この「メラトニン」はドラマのポスター撮影で初めてロスに行った時、向こうのコーディネーターに勧められたもの。寝付きは良くなるし、朝も眠気が残らない。ダイエットサプリメントにも、手が出掛かったが、以前アメリカで買ったダイエットサプリメントを飲んで「不整脈」を起こしたので、今回はパス。
夕食はホテルの人に教えて貰った「DFS」から歩いて3分のスパゲティーの店「カプリチョーザ」で夕食。レギュラーサイズを頼んだのに、ラージサイズが来て、「メタボリック症候群」に一歩前進。次男用に頼んだスパゲティー。Without Cheeseと言ったのに、真ん中にチーズが振りかけてあり、そこの部分を妻と僕とで食べて、次男にはチーズのかかっていない部分を食べさせる。子供達も疲れが出たのか、夕食を食べながら寝かかっていた。なかなかハードな初日だった。
僕と妻はホテルに戻り、21:00から足つぼマッサージを30分、全身マッサージを60分。先週、神戸の中華街で受けた足つぼマッサージは痛くて悲鳴をあげそうになったが、今回はそれほどでも無かった。

続く、8/20は、「Pacific Islands Club」という「巨大プール」での一日。案内の女性がまず施設全般を歩いて紹介。僕より背が高いので、190cm以上はあるだろう。白人・・・アメリカ人かもしれない。僕の場合は大体斜め下を向いて喋る事が多いので、自分とほぼ目線の高さが一緒というのは少し戸惑う。ここではプールだけでなく、卓球・テニス・ミニゴルフ・水中バトミントン・水中バスケット・アーチェリー等、いろんなスポーツがすべて「ツアー料金」に含まれていて遊べる。昼食もビール・白ワイン・赤ワイン・シャンパン飲み放題の豪華なバイキング。次男の食べるものもあり、ホッとする。朝8時に泳ぎ始めて、夕方4時半まで、ウォーター・スライダーや波乗りで子供達は遊ぶ。
僕はプールサイドで足を切ったので、午後はテントの下の白いデッキチェアーに横たわって昼寝。昼食で白ワインを4杯も飲んだせいだ。後で、足の切り口に「小バエ」が集まっていたと子供達に聞いた。

次男は「黒く日焼けする」か゛「アトピーで皮膚の色が元々変わった部分」は白くなり、白黒のまだら焼けになっていた。
この日は、家族全員疲れ果て、部屋で、「どん兵衛」や「インスタント味噌汁」を作って食べ、爆睡。

8/21、「マニャガハ島ツアー」。サイパン島から船で20分の無人島。午前中は11:00から「バブル・メーカー」と呼ばれる「スキューバーダイビング」の「ウォーキング版」。子供が小さいので、本格的なスキューバーの道具を付けながら、水中に張られたロープを両手で持って少しずつ進んでいく。インストラクターの人から「魚肉ソーセージ」を貰い、手の中で小さなカケラにして、あげると、綺麗な色をした熱帯の魚が目の前が見えない位、寄ってくる。
僕が初めて、体験ダイビングをしたのは、サイパン。それ以来、20年ぶりにダイビングを体験。子供達にはいい体験になった事だろう。撮った写真はCD-Rに、撮ったビデオはDVDに焼いて売られている。買ってしまった。ホテルのフロントまで届けてくれるというサービス付。

午後は13:15から「パラ・セーリング」。ボートに引かれてパラシュートと共に、空を飛ぶスポーツだ。グァムと違っていたのは、サイパンはイスが無く、太ももに巻いた帯状のものに腰掛ける様にして飛ぶ事。この方が下も良く見えてよい。天気もよく、風も穏やかで空の上から綺麗な海とコーラルアイランドを見ていると、仕事でのストレスが小さく感じてしまう。ボートを操っている4人のスタッフも陽気だ。一年中、この仕事をしているのだろうか?何かというと、笑いが起きるのがいい。大江戸線乗っていても、笑いは起きないもんなぁ~。ここでも撮影があり、CD-Rを買う。両方ともまだ見ていないがどんな写真が撮れたのだろう。

「パラ・セーリング」が終わり、15:00の船でサイパン島に帰ろうと、子供達と決めるが、そこは熱中し出すと、時間を忘れる。結局、最終便の16:00の船に乗る事に。

夕食をホテル内の日本料理屋で食べ、もう一度「DFS」と「ABCストア」に買い物に。いろいろ買って、「DFS」からのシャトルバス(無料)でホテルに戻る。トランク二つに妻が一生懸命、荷物を詰める。僕はこういう作業が大の苦手。子供達と僕は寝てしまったが、彼女は24:00までパックするのに、かかったとの事。お疲れ様!

午前2時45分にモーニング・コール。3:15にバスでサイパンの空港へ。ここでも荷物検査が厳しい。2つあるうちの1つのスーツケースが重量オーバーで、係りのおばさんの指示で僕がどんどん重そうなものを抜いていく。抜いたものは手持ちで機内に持ち込むのだ。妻が折角パックした荷物も台無し。

5:15フライト。荷物検査等で時間を食っていたら、最終の搭乗案内があり、慌てて飛行機に乗る。しかし、定刻より5分も早く、飛行機は動き出す。どうなっているのだろうか?機内は冷蔵庫の中の様に寒く、震えながら、なんとか寝ようとする。食事は不味いし、アルコール類を飲むにはお金がいる。アメリカ系の航空会社は押し並べて、サービスが悪い。「ノースウェスト」が「ノースワースト」と言われる所以である。

成田には、定刻より20分も早い8/22の7:30に到着。新宿行の「成田エクスプレス」まで待つのが嫌だったので、京成の通勤特急で「八幡」まで行き、都営新宿線の本八幡から新宿へ出る。新宿からタクシーで帰宅。11時頃か。

僕と妻は午後、駅近くの「伊勢丹クィーンズ」で買い物。僕は「鍼」に行き、治療中、意識を失う。「治療、終わりましたよ!」という鍼の先生の声で起こされ、帰宅。

久しぶりのブログ更新。明日からは仕事。

都営新宿線車中でボロボロ泣きました。

2006年08月22日 | 本・雑誌・漫画
「電池が切れるまで」の仲間たち―子ども病院物語

角川学芸出版

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内容(「BOOK」データベースより)
「幸せ」と言って亡くなった真美ちゃん。「命」の詩を書いた由貴奈ちゃん、白血病を克服し医師を目指す盛田君…。こども病院で、病気と闘いながらも前向きに生きるこどもたちと、こどもを支え続ける家族、医師、教師たちの喜びや葛藤を、真摯に綴ったベストセラーの待望の文庫化。全国に感動の輪を広げた奇跡の詩画集『電池が切れるまで』に秘められた真実の物語が、命の輝きを伝える。すべての漢字にふりがな付き。(Amazon.の解説より)


子供が病気になる事は「怖ろしい事」だと思う。僕自身にも3人の子供がいるが、どんな子供に、どんな病魔が襲いかかるか・・・そして、どれだけその事を本人と家族が背負って前向きに生きられるか・・・僕は都営新宿線の中でボロボロと泣いてしまった。僕を含めて子供3人がアトピー。特に次男のアトピーは酷い。夜中に体中を無意識で掻き毟っている。朝は血だらけである。中学・高校の時の自分を見る様だ。当時は「アトピー」という病名を知っている人は少なく、結構悲しい思いもしたものだ。そんな思いを次男にも、長女・長男にもさせたくない。だから、新宿の「鶴薬局」という、日本で一箇所しかない「中国漢方」に通っている。妻は毎日、4人分の煎じ薬と、入浴剤を作っている。「鶴薬局」の詳しい連絡先は、このブログで何回か書いたので、「鶴薬局」で検索して欲しい。


「柳本ジャパン」の試合が見られる!!!!!

2006年08月18日 | 健康・スポーツ
柳本 晶一(やなぎもと しょういち、1952年6月5日 - )は、大阪府大阪市出身の元日本男子バレーボール代表選手で、現全日本女子バレーボールチーム監督。大阪商業大学附属高校卒。テレビ中継のニックネームは全日本女子バレー 復活請負人。現役時代のポジションはセッター。

経歴
大阪商業大学付属高校卒業後、1970年に帝人三原に入社。翌1971年に新日本製鐵(現堺ブレイザーズ)に移籍。以降、主力選手として活躍。日本代表としては1973年に初招集されるが、名セッター猫田勝敏の控えに甘んじることとなる。それでも、1974年のアジア大会で優勝、同年の世界選手権で銀メダル獲得、1976年のモントリオールオリンピックに出場し4位入賞するなど活躍を見せる。1980年から監督兼任となり、1982年に日本リーグ(現Vリーグ)優勝。1986年に地域リーグ・日新製鋼の選手兼監督となり創部5年で日本リーグに昇格させた。1991年に現役引退し監督専任となるが、チームは廃部。タイ男子ナショナルチームを指揮した後、Vリーグ女子・東洋紡オーキスの監督に就任、2年目でVリーグ初優勝、初めて日本リーグ時代を通じて男女ともに自分の指揮するチームを優勝に導く。現在も男女共に日本一に輝いたのは柳本ただ一人である。

2003年2月より女子日本代表監督に就任。吉原知子をキャプテンとして全日本に復帰させ、大山加奈、栗原恵ら若手選手を積極的に起用するなど大胆な策で、同年11月の第9回バレーボール・ワールドカップではアテネオリンピック出場権を逃したがアジアのライバルと言われる韓国や同大会3連覇中だったキューバ等から大金星を挙げ全体で5位に食い込む快進撃を演じ、翌2004年5月のオリンピック最終予選ではその快進撃が更に増して開幕からの怒涛の7連勝を果たし、2大会振りの出場権を獲得した。同年8月のアテネオリンピックにて5位の成績を残す。オリンピック終了後、監督辞任を示唆したが、協会に慰留される形で続投する事となった。

代表歴の長い選手たちからは「晶ちゃん」と呼ばれている。彼がいかに選手たちの心をつかんでいるかと言う証拠である。

そして2006年10月から11月にかけて日本で開催される世界バレーでも日本代表を指揮して行く。

球歴と成績
現役選手
帝人三原→新日本製鐵(現堺ブレイザーズ)→日新製鋼
ベスト6
1978年(第12回日本リーグ)、1979年(第13回日本リーグ)、1982年(第16回日本リーグ)
監督
新日本製鐵(選手兼任)→日新製鋼(選手兼任、1991年から専任)→タイ男子ナショナルチーム→東洋紡オーキス→全日本女子
最優秀監督賞
1982年(第16回日本リーグ男子)、1998年(第5回Vリーグ女子)、2000年(第7回Vリーグ女子)



「柳本監督」の采配が好きだ。個性的な女性の選手を上手に操っていく。アテネ五輪の前からの「柳本JAPAN」の大ファン。栗原は怪我で抜けたが、木村沙織のセッター、小山、落合、そして大山加奈、菅山かおる、高橋みゆき、キャプテンの竹下佳江・・・今夜はどんなスタメンで来るのか?ヨーロッパ遠征では「ロシア」を破っている。楽しみ楽しみ。


竹下 佳江(たけした よしえ、1978年3月18日 - )、日本のバレーボール選手。福岡県北九州市出身。身長の低さが気にならない程の華麗なトスさばき、高いレシーブ力、闘志あふれるプレーでチームを牽引する。柳本バレーを操る、世界最小最強セッター。ニックネームはテンであるが、本人はその由来を今のところ明かそうとしていない。

来歴
竹下 佳江
生年月日 1978年3月18日
ポジション セッター
所属 JTマーヴェラス
身長 159cm
体重 55kg
利き手 右
最高
到達点 スパイク 280cm
ブロック 270cm
高校時代には、全国大会の経験はないが、1995年の世界ユース選手権に選ばれ優勝を経験した。1996年にNECレッドロケッツに入団。1997年に全日本入りをする。1997年グラチャンでは、正セッター大貫美奈子の控えとして出場した。出番は少なかったが、コートに立つと会場からは拍手が沸き起こった。

2000年シドニーオリンピックの切符を世界最終予選で逃してから、責任を感じ続け、2002年4月に当時所属していたNECを退社し、バレーから離れた時期があった。しかし、熱心な誘いを受けて、同年8月にJTマーヴェラスで復帰。2004年5月20日にはJTとプロ選手契約を結んだ。アテネオリンピック後、留任した柳本晶一監督にキャプテンに指名される。Vリーグではチームメイトである菅山かおると仲がよい。

海外で試合する際にDVDを持参するほどのお笑い(特に安田大サーカス)好きである。

球歴・受賞歴
所属チーム履歴
萩ヶ丘小学校→戸ノ上中学校→不知火女子高校(現・誠修高)→NECレッドロケッツ→JTマーヴェラス
全日本代表としての主な国際大会出場歴
オリンピック - 2004年
ワールドカップ - 2003年
受賞歴
2000年 - 第6回Vリーグ ベスト6 
2001年 - 第7回Vリーグ ベスト6 
2004年 - 第10回Vリーグ ベスト6 レシーブ賞

自分を押し殺して、チームの為に闘う竹下。最高のキャプテンだ。



「人の話を聞く事」は難しい・・・ついつい自分の喋る事を考えてしまう・・・

2006年08月18日 | 本・雑誌・漫画
プロカウンセラーの聞く技術

創元社

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Amazon.co.jp
対人関係を良好に保つための手段として、臨床心理士として活躍する著者がカウンセリングで重要視される「聞く」技術を一般向けに紹介しているところが特徴的。対人関係に悩む人はもとより、営業職など、より良い人間関係を築きたい人に向いている。
ここでいう「聞く」とは、ただ耳を傾けるだけではない。「聞く」には理解が必要であり、「話す」より膨大な努力を要すると著者は語る。実際のカウンセリングでの会話を掲載し、読者に対し「さて、あなたならどう答えますか?」と尋ね、読み進めながら読者自身が自分の反応や態度を考え、それをより良い「聞く」態度に修正するという方法で、対人関係における自己鍛錬の場を提供している。

また、いかに井戸端会議での会話が洗練された「聞く」技術と良好な人間関係を保つことに長けているかを良い例として取り上げた。専門家から見た「話す-聞く」相互関係とその技術を、我々が思い浮かべやすい生活場面を想定し、楽しみながら学べる気軽さがある。

訓練を進めるうちに、相手が話すことに対してどれだけ我々が「聞く」耳を持たないか、また、そのことで過去の人間関係が崩壊した可能性も否めず、「眼からうろこ」状態を体験するかもしれない。一般向けに書かれているため、専門用語はほとんど使われていない。しかし、全31章の「聞く」技術に関する講義と訓練の場は、「臨床心理士だったらこうする」という反応や態度も示され、臨床心理士の卵にとっても価値ある1冊だと言える。(青山浩子)

出版社/著者からの内容紹介
「沈黙は金、雄弁は銀」「一度語る前に二度聞け」など、昔からしゃべることよりも聞くことの大切さが強調される。もちろん「話す」ことも人間関係の上で大きな影響を与えるが、本当に人の話を「聞く」ことができると、人間関係は驚くほどよくなる。   本書は、「聞く」ことのプロであるカウンセラーが、「聞き上手」になるための極意を、実例をふくめてわかりやすく説いた1冊。(Amazonの解説より)


昔から「人の話を聞く」のが苦手。相手が話している間に、次の話題を考えてしまう僕。自分の話を幾らしても、新しい情報は得られないのに。「人間関係」もきっと、今より上手くいくだろうに。




「パチンコ」に全然興味が無い。

2006年08月18日 | エッセイ・日記・意見
日本のパチンコの起源とされるものは、1920年に米国から入ってきたバガテールが初めとされています。当時、日本では小林脳行(株)が発売したコリントゲームと言う名称で親しまれ、数年後にはヨーロッパのウォールマシンを参考にして作られた「玉遊菓子自動販売機」がデパートの屋上などでお披露目されました。パチンコ店の第一号は昭和5年に愛知県に出来たのが最初で、その後、お店が増え続け、昭和23年に風俗営業取締法が施行されました。因みにこの時の玉貸料は1個1円という値段が設定されました。

その後、パチンコ業界には大きな旋風が吹き荒れており、かの有名な「正村ゲージ」が登場する事によってパチンコが爆発的な人気になり現代パチンコ産業としての礎を築く事となりました。こうして普及したパチンコも昭和25年に玉貸料1個2円に上がり、全国遊技業組合連合会が発足、パチンコ店の数も38.764店舗を有し第一期黄金時代が到来しています。パチンコの歴史をひもとけば、そこには様々な出来事がありました。「ローマは一日にしてならず」という諺がありますが、これからも幾重の困難を乗り越えパチンコは発展していくのでは無いでしょうか?


最近、また「パチンコ」がブームだ。でも、僕は全く興味が無い。賭け事全般にそう。麻雀を除いては・・・「パチンコの起源」が気になって調べてみました。


でも、「木下恵介」が好きだなぁー、何故か・・・

2006年08月18日 | 映画・DVD・ビデオ
木下 恵介(きのした けいすけ、男性、1912年(大正元年)12月5日 - 1998年(平成10年)12月30日)は、日本の映画監督、脚本家。本名は、木下 正吉。正字での表記は「木下 惠介」。

実弟に作曲家の木下忠司、実妹に脚本家の楠田芳子がいる。

略歴
静岡県浜松市にて食料品店を営む父・周吉、母・たまの8人兄弟の4男として生まれる。1933年(昭和8年)松竹蒲田撮影所に入り島津保次郎監督の撮影助手。

以後助監督から監督になり1943年(昭和18年)に『花咲く港』でデビューした。同年、黒澤明も監督デビューし終生のライバルとして日本映画界を支えてゆくこととなる。また、木下組から小林正樹、松山善三 吉田喜重、山田太一等々多数の映画人が巣立っていった。

1951年(昭和26年)に『カルメン故郷に帰る』で戦後初の長編カラー映画を発表。1964年(昭和39年)松竹を退社し、テレビ界にも進出。「木下恵介劇場」などテレビドラマも製作した。

後に木下恵介プロダクション(木下プロダクション→現・ドリマックス・テレビジョン)を設立する。

1976年(昭和51年)『スリランカの愛と別れ』で再び映画監督に復帰。映画、テレビドラマの監督と同時に脚本も数多く手がけている。1977年(昭和52年)紫綬褒章を受章。1984年(昭和59年)には勲四等旭日小綬章を受章。

1998年12月30日午前3時10分、脳梗塞のため東京都港区の自宅で死去。享年86。生涯にメガホンをとった映画は全49作である。


監督作品
公開年 作品名 主な出演者 備考
1943年 花咲く港 小沢栄太郎,上原謙,水戸光子 監督デビュー作。菊田一夫の戯曲が原作。

1943年 生きてゐる孫六 上原謙,原保美,山鳩くるみ

1943年 歓呼の町 上原謙,東野英治郎,信千代

1944年 陸軍 田中絹代,笠智衆,三津田健 陸軍省の依頼で「大東亜戦争3周年記念映画」として製作。

1946年 わが恋せし乙女 原保美,井川邦子,増田順二

1946年 大曾根家の朝 杉村春子,三浦光子,徳大寺伸

1947年 結婚 上原謙,田中絹代,東野英治郎 新藤兼人脚本。

1947年 不死鳥 田中絹代,佐田啓二,山内明 佐田啓二と田中絹代の接吻シーン

1948年 女 小沢栄太郎,水戸光子 毎日映画コンクール監督賞。

1948年 肖像 井川邦子,小沢栄太郎,三宅邦子 黒澤明脚本。毎日映画コンクール監督賞。

1948年 破戒 池部良,桂木洋子,滝沢修 毎日映画コンクール監督賞。

1949年 お嬢さん乾杯! 佐野周二,原節子,佐田啓二 新藤兼人脚本

1949年 新釈四谷怪談 田中絹代,上原謙,佐田啓二

1949年 破れ太鼓 阪東妻三郎,森雅之,村瀬幸子 キネマ旬報ベスト4

1950年 婚約指輪 三船敏郎,田中絹代,宇野重吉

1951年 善魔 森雅之,淡島千景,三國連太郎

1951年 カルメン故郷に帰る 高峰秀子,小林トシ子,佐野周二 日本初のカラー作品。万一に備え、モノクロフィルムでの撮影も同時に行われた。

1951年 少年期 石浜朗,田村秋子,笠智衆 波多野勤子と息子との4年間の交流書簡集を映画化。

1951年 海の花火 木暮実千代,津島恵子,三國連太郎

1952年 カルメン純情す 高峰秀子,若原雅夫,淡島千景 『カルメン故郷に帰る』続編。カメラを傾けるという斬新な撮影法。

1953年 日本の悲劇 望月優子,桂木洋子,田浦正巳

1954年 女の園 高峰三枝子,高峰秀子,岸惠子 後の学園紛争を先取りしたとも評される。キネマ旬報ベスト2

1954年 二十四の瞳 高峰秀子,月丘夢路,田村高廣 キネマ旬報ベスト1

1955年 遠い雲 高峰秀子,佐田啓二,高橋貞二

1955年 野菊の如き君なりき 有田紀子,田中晋二,田村高廣 伊藤左千夫『野菊の墓』が原作。回想シーンは楕円の縁取りがなされている。

1956年 太陽とバラ 中村賀津雄,石浜朗,久我美子

1957年 喜びも悲しみも幾歳月 高峰秀子,佐田啓二,中村賀津雄 キネマ旬報ベスト3

1957年 風前の灯 高峰秀子,佐田啓二,田村秋子 『喜びも悲しみも~』で善良な夫婦を演じた高峰・佐田がこの作品では阿漕な役どころ。役者のイメージをヒット作の役柄で固定してしまわないようにとの木下の配慮からできた作品。

1958年 楢山節考 田中絹代,高橋貞二,望月優子 つい最近まで著作権の関係でTV放映・ビデオ化がなされなかった作品。

1958年 この天の虹 高橋貞二,川津祐介,久我美子

1959年 風花 岸惠子,川津祐介,久我美子 過去と現在が激しく交錯する。

1959年 惜春鳥 佐田啓二,有馬稲子,津川雅彦

1959年 今日もまたかくてありなん 高橋貞二,久我美子,中村勘三郎

1960年 春の夢 岡田茉莉子,久我美子,佐野周二 お正月作品。

1960年 笛吹川 高峰秀子,田村高廣,市川染五郎 モノクロフィルムに部分的に色を焼きつける手法。楢山節孝同様、つい最近まで著作権の関係でTV放映・ビデオ化がなされなかった作品。

1961年 永遠の人 高峰秀子,佐田啓二,仲代達矢

1962年 今年の恋 岡田茉莉子,吉田輝雄,田村正和 お正月作品。

1962年 二人で歩いた幾春秋 高峰秀子,佐田啓二,山本豊三 道路工夫をめぐる、木下得意のクロニクル。

1963年 歌え若人たち 松川勉,川津祐介,岩下志麻

1963年 死闘の伝説 岩下志麻,加賀まりこ,加藤剛

1964年 香華 岡田茉莉子,乙羽信子,加藤剛 有吉佐和子の同名小説を映画化。斜陽の映画界(当時)に久々の大作と評された。この翌年黒澤明は赤ひげを発表している。

1967年 なつかしき笛や太鼓 夏木陽介,大空真弓,小坂一也 松竹を離れて製作された作品。

1976年 スリランカの愛と別れ 北大路欣也,栗原小巻,高峰秀子

1979年 衝動殺人・息子よ 若山富三郎,高峰秀子,田中健

1980年 父よ母よ! 加藤剛,三原順子,滝沢美幸 いわゆる非行少年・少女をモチーフにした作品。

1983年 この子を残して 加藤剛,十朱幸代,淡島千景 永井隆の著作が原作。長崎の原爆が描かれている作品は意外に少ない。

1986年 新・喜びも悲しみも幾歳月 加藤剛,大原麗子,植木等 喜びも悲しみも幾歳月から30年。燈台守の生き様に老人問題を加味した、新しい形のクロニクル。

1988年 父 坂東英二,太地喜和子,野々村真 松山善三監督作品『母』と同時上映。


僕のお薦めは「花咲く港」「破れ太鼓」「永遠の人」「二十四の瞳」「日本の悲劇」。「女」「楢山節考」も異色だが、お薦め。日本の風景の撮れる監督。「女」の厭らしさ、憎悪を撮れる監督。だから、世界では評価されにくいが、この人は「天才」だと思う。
破れ太鼓

松竹

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内容(「Oricon」データベースより)
時代劇の大スター阪東妻三郎が初の現代劇で典型的頑固親父を演じたこの作品。家庭内のドタバタな出来事をユーモアたっぷりに描いた作品。
二十四の瞳

松竹

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内容(「Oricon」データベースより)
美しい小豆島を舞台とした先生と12人の生徒たちの感動作。木下恵介監督の代表作であり日本映画史にも残る永遠の名作がDVD化。

木下惠介 DVD-BOX 第5集

松竹

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内容(「DVD NAVIGATOR」データベースより)
日本映画の黄金期を築き上げてきた名匠・木下惠介作品を集めたBOXシリーズの第5弾。今村昌平監督作でも知られる『楢山節考』をはじめ、『笛吹川』『永遠の人』『今年の恋』『香華(前後篇)』『歌え若人達』ほか、全9作品と特典ディスクを収録。

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「黒澤明」」とは?

2006年08月18日 | 映画・DVD・ビデオ
黒澤 明(くろさわ あきら、1910年3月23日 - 1998年9月6日)(黒沢 明とも表記)は、日本の映画監督。小津安二郎、溝口健二、成瀬巳喜男らと共に、海外でも広く名前が知られている日本映画の巨匠の一人であり、「世界のクロサワ」と呼ばれることもある。 映画芸術科学アカデミーの会員だった。文化勲章受章者。妻は矢口陽子(女優)。タレントでプロデューサーの黒澤久雄は息子。衣装デザイナーの黒澤和子は娘。加藤隆之は孫。 黒澤優と黒澤萌は孫娘。

来歴
東京府荏原郡大井町(現在の東京都品川区東大井)出身。父親は秋田県中仙町出身の元軍人、体育教師。若い頃は、なかなか進路が決まらず、焦燥の日々を過ごしていた。画家を志していたこともあったが、1936年、P.C.L.映画製作所(現在の東宝)に助監督として入社、映画界に飛び込む。

ロシア文学とジョン・フォードの映画の影響を受け、シェイクスピアの『リア王』(『乱』)、『マクベス』(『蜘蛛巣城』)、ドストエフスキーの『白痴』(『白痴』)、芥川龍之介の『藪の中』(『羅生門』)などの文芸作品の翻案もの、『七人の侍』、『隠し砦の三悪人』などの純粋な娯楽時代劇、『生きる』『天国と地獄』などのヒューマン現代劇などの作品がある。1948年の『醉いどれ天使』にはじまり、1965年の『赤ひげ』まで、主演には三船敏郎を頻繁に起用した。(ただし、『生きる』を除く)

『蜘蛛巣城』で三船敏郎に向かって本当に矢を撃ち、三船を怒らせたことでも有名。

一方で、その妥協を許さない厳しい製作姿勢から、映画製作が滞ったこともあった。『赤ひげ』の制作で東宝との関係が悪化したこともあって黒澤はアメリカで『暴走機関車』の制作を準備するが、制作方針を巡りアメリカ側と深刻な対立が生じたため、映画は実現しなかった(後にアンドレイ・コンチャロフスキーが黒澤の脚本を原案として映画化)。

1968年に日米合作『トラ・トラ・トラ!』の日本側監督を務めた際には、撮影開始当初から米国側の製作会社であった20世紀フォックスや仲介の日本人ブローカーと、撮影スケジュールや予算を巡って激しく衝突した結果、監督を降板する事態となり、その2年後には自殺未遂事件を起こしている。黒澤の代役には舛田利雄、深作欣二(クレジット上は共同監督だが、深作が担当したのは実質的にはB班監督)とが共同で当たった。なお黒澤本人の意向によりクレジットに名前はないが、脚本は黒澤が書いたものがほとんどそのまま使用されている。

その後、一時映画製作から遠ざかっていたが、ソビエト映画界の全面支援による『デルス・ウザーラ』、ジョージ・ルーカス、フランシス・フォード・コッポラを外国版プロデューサーに配した『影武者』、フランスとの合作の『乱』、米ワーナー・ブラザーズ製作(日本ではこの映画への出資をワーナーに働きかけて実現させたスティーブン・スピルバーグ提供とクレジットされている)『夢』等、海外資本の参加によって実現した映画が続くことになる。それ以降も『八月の狂詩曲』、『まあだだよ』と制作は続くが、次回作として予定されていた『雨あがる』の脚本執筆中に京都の旅館で転倒骨折したために療養生活に入り、映画制作は不可能となった(その後『雨あがる』は元・黒澤組スタッフが中心となって制作、2000年に公開される 監督は小泉堯史)。

1998年9月6日に脳卒中により逝去。1998年10月1日、映画監督としては初の国民栄誉賞を受賞。

世界的な影響
海外の、アメリカを中心とした映画監督にも影響を与え、ジョージ・ルーカスは代表作『スター・ウォーズ』の登場キャラクターを『隠し砦の三悪人』から着想したと述べており(そもそも『スター・ウォーズ エピソード4/新たなる希望』自体のストーリーが『隠し砦の三悪人』に酷似しており、ファーストシーン・ラストシーンともそっくりである)、スティーヴン・スピルバーグの『未知との遭遇』の砂嵐の中からジープが現れる場面は『蜘蛛巣城』、『レイダース/失われたアーク《聖櫃》』で主人公が後ろ姿だけで顔を見せない冒頭は『用心棒』を模したと言われ、フランシス・フォード・コッポラの『ゴッドファーザー』のファーストシーンの結婚式の場面は『悪い奴ほどよく眠る』の手法を模したといわれる。また、『七人の侍』が米映画『荒野の七人』(ジョン・スタージェス監督)、『用心棒』が米映画『ラストマン・スタンディング』(ウォルター・ヒル監督)などに翻案された。だが、イタリア映画『荒野の用心棒』(セルジオ・レオーネ監督)のように盗作問題に発展したケースもあった。

徹底した男性主義路線
黒澤は「一番美しく」、「素晴らしき日曜日」などのごくわずかな作品を除いて、徹底して男性主義の映画を撮り続けた。

それを物語るのに、他監督の作品では華々しく主役をしている女優で黒澤に起用されたのは、わずかに轟夕起子、入江たか子、原節子、木暮実千代、久我美子、京マチ子、津島恵子、司葉子、香川京子、山口淑子、山田五十鈴、田中絹代ぐらいである。その起用は、司と香川と山田と入江を除いて初期の昭和20年代のみで、しかも、起用されたと云っても、轟・木暮・久我・津島・司・香川・山田・田中はあくまで助演止まりで、京と山口は皮肉な扱いの役で、山田と田中は戦前の全盛期を感じさせない頃になっての起用で、そして、複数作で起用されたのは轟と入江(出演2作のうち1作は助演)と原と久我と香川と山田だけである。

今まで、この切り口で語られてきたことはあまりないが、実際に、黒澤と同じく日本映画界やドラマや舞台で活躍してきた高峰秀子、吉永小百合、岩下志麻、若尾文子、岸惠子、岡田茉莉子、浅丘ルリ子、山本富士子、有馬稲子、高峰三枝子、新珠三千代、三田佳子、池内淳子、八千草薫、十朱幸代、淡島千景、佐久間良子、山本陽子、栗原小巻、大原麗子、松坂慶子、倍賞千恵子の大女優達に共通するのは『黒澤明の映画に出演していない』ことである。

ただし、ここに挙げられている大女優達のうち、高峰(秀)・新珠・池内・八千草・淡島を除いてはフリーや東宝専属(←黒澤も)ではない他社の看板女優であり、五社協定によって映画会社間の壁が高くなってしまった昭和30年代だけに限って云えば、出演していないのは当然ともいえる。 しかし、その間、黒澤が熱望しながら五社協定で出演が実現しなかった女優で伝えられているのは京マチ子ただ1人だけであり、また、70年代初頭の五社協定崩壊後も、やはり黒澤は彼女らを全く必要としない男性主義を貫いた。

高峰秀子の場合は複雑で、助監督時代に恋仲であったのを無理に別れさせられた事情もある。ただし、黒澤の作品リストから削除された『明日を創る人々』(1946年)に1本だけ出演している。

そんな黒澤だが、主に『女性映画』を撮った木下恵介、成瀬巳喜男らの才能は認めている。

また、主役級ではなく助演専門の女優である中北千枝子、千石規子、根岸明美を好んで起用したように決して女優を使うのが嫌いだったわけではない。

監督作品

監督
公開年 作品名 制作(配給) 脚本 主な出演者 上映時間ほか
1943年 姿三四郎 東宝 黒澤明 大河内傳次郎、藤田進、月形龍之介、志村喬 79分/白黒/スタンダード

1944年 一番美しく 東宝 黒澤明 志村喬、清川荘司、入江たか子、矢口陽子 85分/白黒/スタンダード

1945年 續姿三四郎 東宝 黒澤明 大河内伝次郎、藤田進、月形龍之介、河野秋武、轟夕起子、清川荘司、宮口精二、森雅之 82分/白黒/スタンダード
1945年 虎の尾を踏む男達 東宝 黒澤明 大河内伝次郎、藤田進、榎本健一、仁科周芳(岩井半四郎) 58分/白黒/スタンダード

1946年 わが青春に悔なし 東宝 久板栄二郎 原節子、藤田進、杉村春子、大河内伝次郎、河野秋武、三好栄子、志村喬 110分/白黒/スタンダード

1948年 素晴らしき日曜日 東宝 植草圭之助 沼崎勲、中北千枝子、渡辺篤、菅井一郎 108分/白黒/スタンダード

1948年 醉いどれ天使 東宝 植草圭之助、黒澤明 志村喬、三船敏郎、山本礼三郎、千石規子、中北千枝子、笠置シヅ子、久我美子 98分/白黒/スタンダード

1949年 静かなる決闘 大映 黒澤明、谷口千吉 三船敏郎、志村喬、千石規子、三条美紀、中北千枝子 95分/白黒/スタンダード

1949年 野良犬 新東宝=映画芸術協会 黒澤明、菊島隆三 三船敏郎、志村喬、木村功、山本礼三郎、淡路恵子、千石規子、三好栄子、千秋実 122分/白黒/スタンダード

1950年 醜聞 松竹=映画芸術協会 黒澤明、菊島隆三 三船敏郎、山口淑子、志村喬、桂木洋子、北林谷栄、日守新一、左卜全 104分/白黒/スタンダード

1950年 羅生門 大映 黒澤明、橋本忍 三船敏郎、京マチ子、志村喬、森雅之、千秋実、上田吉二郎、加東大介、本間文子 88分/白黒/スタンダード

1951年 白痴 松竹 久板栄二郎、黒澤明 原節子、森雅之、三船敏郎、久我美子、志村喬、千秋実、東山千栄子、千石規子 166分/白黒/スタンダード

1952年 生きる 東宝 黒澤明、橋本忍、小国英雄 志村喬、日守新一、千秋実、小田切みき、田中春男、中村伸郎、金子信雄、浦辺粂子、藤原釜足、左卜全、宮口精二、渡辺篤、伊藤雄之助 143分/白黒/スタンダード

1954年 七人の侍 東宝 黒澤明、橋本忍、小国英雄 三船敏郎、志村喬、木村功、宮口精二、津島恵子、千秋実、藤原釜足、左卜全、稲葉義男、加東大介、高堂国典、土屋嘉男、東野英治郎 207分/白黒/スタンダード

1955年 生きものの記録 東宝 橋本忍、小国英雄、黒澤明 三船敏郎、志村喬、千秋実、東野英治郎、千石規子、清水将夫、根岸明美、三好栄子、左卜全、佐田豊 113分/白黒/スタンダード

1957年 蜘蛛巣城 東宝 小国英雄、橋本忍、菊島隆三、黒澤明 三船敏郎、山田五十鈴、志村喬、久保明、千秋実、太刀川洋一、浪花千栄子、佐々木孝丸、高堂国典、稲葉義男 110分/白黒/スタンダード

1957年 どん底 東宝 小国英雄、黒澤明 三船敏郎、山田五十鈴、香川京子、千秋実、左卜全、藤原釜足、三井弘次、東野英治郎、渡辺篤 125分/白黒/スタンダード

1958年 隠し砦の三悪人 東宝 菊島隆三、小国英雄、橋本忍、黒澤明 三船敏郎、千秋実、藤田進、藤原釜足、志村喬、上原美佐、三好栄子、土屋嘉男、三井弘次、上田吉二郎 139分/白黒/シネマスコープ

1960年 悪い奴ほどよく眠る 東宝=黒澤プロ 小国英雄、久板栄二郎、黒澤明、菊島隆三、橋本忍 三船敏郎、香川京子、三橋達也、森雅之、志村喬、加藤武、西村晃、笠智衆、藤田進、藤原釜足、宮口精二、中村伸郎 151分/白黒/シネマスコープ

1961年 用心棒 東宝=黒澤プロ 菊島隆三、黒澤明 三船敏郎、仲代達矢、加東大介、山茶花究、河津清三郎、山田五十鈴、司葉子、東野英治郎、沢村いき雄、志村喬、藤原釜足、夏木陽介 110分/白黒/シネマスコープ

1962年 椿三十郎 東宝=黒澤プロ 菊島隆三、小国英雄、黒澤明 三船敏郎、仲代達矢、小林桂樹、加山雄三、団令子、志村喬、藤原釜足、清水将夫、伊藤雄之助、入江たか子、平田昭彦、田中邦衛 96分/白黒/シネマスコープ

1963年 天国と地獄 東宝=黒澤プロ 小国英雄、菊島隆三、久板栄二郎、黒澤明 三船敏郎、仲代達矢、香川京子、三橋達也、石山健二郎、木村功、加藤武、志村喬、山崎努、佐田豊、伊藤雄之助、中村伸郎、田崎潤 143分/白黒・パートカラー/シネマスコープ

1965年 赤ひげ 東宝=黒澤プロ 井手雅人、小国英雄、菊島隆三、黒澤明 三船敏郎、加山雄三、山崎努、団令子、香川京子、桑野みゆき、二木てるみ、頭師佳孝、土屋嘉男、志村喬、笠智衆、田中絹代、内藤洋子、杉村春子 185分/白黒/シネマスコープ

1970年 どですかでん 四騎の会=東宝 黒澤明、松江陽一 頭師佳孝、菅井きん、三波伸介、伴淳三郎、芥川比呂志、奈良岡朋子、加藤和夫、渡辺篤、井川比佐志、田中邦衛、楠侑子、松村達雄、三谷昇 140分/カラー/スタンダード

1975年 デルス・ウザーラ モスフィルム 黒澤明、ユーリー・ナギービン ユーリー・サローミン、マキシム・ムンズーク、シュメイクル・チョクモロフ、ウラジミール・クレメナ、スベトラーナ・ダニエルチェンコ 141分/カラー/70ミリ・ワイド

1980年 影武者 東宝=黒澤プロ 黒澤明、井手雅人 仲代達矢、山崎努、隆大介、萩原健一、根津甚八、大滝秀治、油井昌由樹、桃井かおり、倍賞美津子、室田日出男、志村喬 179分/カラー/ビスタビジョン

1985年 乱 グリニッチ・フィルム=ヘラルド・エース 黒澤明、井手雅人 仲代達矢、寺尾聰、隆大介、根津甚八、原田美枝子、宮崎美子、野村武司、井川比佐志、ピーター、油井昌由樹、植木等 162分/カラー/ビスタビジョン

1990年 夢 黒澤プロ 黒澤明 寺尾聰、倍賞美津子、原田美枝子、井川比佐志、いかりや長介、伊崎充則、笠智衆、頭師佳孝、根岸季衣、マーティン・スコセッシ 120分/カラー/ビスタビジョン

1991年 八月の狂詩曲 黒澤プロ=フィーチャーフィルムエンタープライズII 黒澤明 村瀬幸子、吉岡秀隆、大寶智子、鈴木美恵、伊崎充則、井川比佐志、根岸季衣、リチャード・ギア 97分/カラー/ビスタビジョン

1993年 まあだだよ 大映=電通=黒澤プロ 黒澤明 松村達雄、香川京子、井川比佐志、所ジョージ、油井昌由樹、寺尾聰、小林亜星、日下武史 134分/カラー/ビスタビジョン


僕は全作品を観た。素晴らしい。今回の「橋本忍」の本を読んで、映画作りに対する「狂気のごときエネルギー」の凄さを感じた。天才では無く、もの凄い努力家だった。

「夏休み」だぁ~

2006年08月18日 | エッセイ・日記・意見
明日、正確に言うと今日から夏休み。5日間の休暇。さあ、どうしよう。前夜祭のつもりで、ビール3缶と焼酎のウーロン割りを飲んだ。現在午前1時過ぎ。明日、目覚まし時計で強制的に起きなくていいという開放感満載。

とりあえず、午前中は「鍼」。腰がここ数日、痛くて、マッサージや鍼に通っている。人の働いている時に休むのは、土砂降りの日に車の中から、通行人を眺めている様な「優越感」を感じる。昨日までは、通勤の電車がガラガラで、みんな休んでいやがるなーと、ちょっと腹立たしく思っていた。この5日間は逆である。休み後の仕事を忘れてのんびりしよう。

家族も帰省から帰って来て、朝、ベランダの草花に水をやる事も無くなったし、長男の飼っているいもりに「冷凍赤虫」を餌としてあげる役目も終わり。外食やレトルトが多く、ちょっと太ったかなぁ~。とにかく、長時間寝る!!!!!