正司敏江・玲児のジャパンチェーン
正司敏江・玲児
メンバー 正司 敏江(本名:及川キミコ)
生年月日:1944年11月9日(66歳)
正司 玲児(本名:及川玲児)
生年月日:1939年1月17日
没年月日:2010年12月10日(満71歳没)
結成年 1963年
解散年 2010年(玲児の死去による)
事務所 松竹芸能
活動時期 1963年 - 2010年
師匠 正司歌江(敏江)
横山ノック(玲児)
正司敏江・玲児(しょうじ としえ・れいじ)は、元夫婦によるどつき漫才コンビ。敏江が松竹芸能所属で、玲児はフリー。
メンバー
正司 敏江(しょうじ としえ、本名、及川キミコ、公称:1944年11月9日 - )香川県小豆島生まれ。
正司 玲児(しょうじ れいじ、本名、及川玲児、1939年1月17日 - 2010年12月10日)大分県生まれ。
来歴と芸風
敏江はかしまし娘の住み込み弟子として修行し、妹分・芳江、春江の3人でちゃっかり娘を結成。1962年初舞台。他の2人が津軽三味線の世界に飛び込んだため解散。
同年、玲児は京芸プロ(漫画トリオの個人事務所)従業員を経て、松竹芸能に入社。フラワーショウを担当をしていたが、1963年に本名で音楽ショウ・ピスボーイを中井次郎(後の池乃めだか)らと組んで初舞台。
共に売れていなかったが、当時から2人は交際しており、裏方(マネージャーの玲児)が商品(芸人の敏江)に手を付け、芸界の掟を破ったことで、師匠の正司歌江から破門される。1964年、浪曲師の斎東満夫妻の仲人で結婚。
1966年、夫婦である事を隠し、兄妹漫才と偽って正司利児・敏江の名で再出発(現在でも敏江は玲児を舞台上では「お兄ちゃん」呼ぶ)、その後夫婦漫才コンビでである事を公表。
しかし敏江は台本の覚えが悪いのに稽古嫌いで、いい加減なアドリブで誤魔化してばかりだったため、前座に燻っていた。ある日、舞台上で怒った玲児が敏江を本気で突き飛ばしたところ、これが初めて客にウケる。最初は一方的に張られていた敏江だったが、玲児に逆襲すると更にウケる事を発見し、嫁主導の夫婦どつき漫才の型を確立、一躍注目を浴びた。
2人の熱心さにほだされ、周囲の抵抗も次第に解けて行き、1968年には再び『正司』の屋号を許される。敏江の「誰のお陰で正司を名乗れると思うとるんや!」の決めゼリフは、こうして誕生した。
現在では主に額を平手で叩いて音を出すだけだが、世間で仮面ライダーが流行っていた若い頃には「ライダーキック!」の掛け声と共に飛び蹴りしたり、敏江もサービス精神を発揮し、振袖の裾をはだけてのパンツ開帳を定番ギャグにするなど、生傷の絶えない熾烈な芸にエスカレート。
玲児の浮気が発覚して私生活では結婚10年で離縁してしまうが、人気に後押しされてコンビは続行し、養育費問題を始め家庭の不幸すらネタにしてしまった。夫婦漫才が離婚後も組み続けているのは、ミヤコ蝶々・南都雄二、京唄子・鳳啓助以来で、その後に続く者は無い。
芸歴からすれば既に大ベテランの領域に入っているが、意気軒昂にどつき漫才を展開中。養護ホームなど公的施設の慰問にも積極的に取り組んでいる。松竹芸能の歴代の拠点だった、演芸の浪花座の閉館(2002年)及びB1角座の閉館(2008年)の際には、共に大トリの大役を務めた。
小林信彦の『日本の喜劇人』第9章「大阪の影」の末尾に「久しぶりに、ぞくぞくさせられる芸人に出会った」と敏江のことが出てくる。現在でも、積極的に舞台通天閣劇場TENGEKIにトリで出演するなど、活動は盛んに行っている。
2010年に入ると玲児が健康を崩し、11月には一旦舞台に復帰したものの、12月10日に成人T細胞白血病リンパ腫で死去、71歳没 。
11月にテレビで、「正司敏江・玲児」の漫才を偶然観た。あまりの変わりようにビックリ。玲児さんの元気の無さがとても気になっていた。