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高峰秀子さん、死去。数々の名作に主演。

2010年12月31日 | エッセイ・日記・意見
二十四の瞳 木下作品(1954)高峰秀子  田村高広


「二十四の瞳」「浮雲」など数々の名作に主演し、戦後を代表する女優の高峰秀子(たかみね・ひでこ、本名・松山秀子=まつやま・ひでこ)さんが、28日午前5時28分、肺がんのため亡くなった。

 86歳だった。密葬は近親者のみで行った。喪主は夫、松山善三(まつやま・ぜんぞう)氏。

(2010年12月31日18時31分  読売新聞より引用)


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松竹蒲田時代

養父に手をひかれて蒲田撮影所に連れていかれ、『母』の子役オーディションの列に並ばされ選ばれる。以降デビューから1937年までの子役時代を過ごす。日本のシャーリー・テンプルと呼ばれる。共にオデコであったのでデコちゃんの愛称がつく。この時代に既にスターとしての人気を博しており、島津保次郎監督『愛よ人類と共にあれ』(1931) では男の子役を演じるなど、天才子役の名をほしいままにしている。

しかし一方、家庭的には、養母(以下母と記述)が日本におけるステージママのはしり的な存在であり、その強烈な愛情への戸惑いや、彼女のギャランティーで親族全体が生活していることへの精神的な負担など、一概に幸福とは言えない状況であった。母親との愛憎劇は母親が世を去るまで長く本人を苦しめるとともに、親族をはじめとする関係者からひたすら金銭目的で利用され搾取され続けたことは人間不信のトラウマを植え付けることともなった。


東海林太郎と (1936)
映画人の多くに可愛がられており、特に彼女の境遇に深く同情した東海林太郎は養女に引き取ろうとしたほどであった。しかし東海林夫妻が独りよがりの愛情で高峰に英才教育を押し付ける一方で高峰の母を女中扱いで冷遇するなどしたため耐えかねた高峰は母子で出奔、この騒動をめぐって作曲家の藤田まさとが東海林と決裂し藤田が妻恋道中の曲を上原敏に回し以降ほとんど東海林に曲を書かなくなる騒ぎとなった。

東宝時代

1937年、彼女は当時勢力を伸ばしつつあった東宝へ移籍する。松竹では学校にも通えないほど売れっ子であるにもかかわらず、狭いアパート住まいで貧しかったが、桁違いのギャラと世田谷の一軒家と高等女学校へ通えるという条件付きであった。彼女は文化学院へ入学するが撮影でほとんど出席できず、出席できてもアイドル人気でスケッチのモデルに借り出されてばかりで勉強もできず、結局1年で退学した。これについては「学校へ通わせるとは言ったが卒業させるとは言っていないわけで、世間は甘くないと感じた」と述懐している。

あまりの人気に街のどこを歩いてもファンに追いかけられる始末だったある日、たまたま逃げ込んだ銀座の骨董品屋で骨董品の魅力に取り付かれる。以後骨董品集めが長きにわたる趣味となり、造詣が深い。「いい仕事してますね」のセリフで有名な中島誠之助も「姐さん」と呼ぶ長年の知己であり、一緒に骨董屋を開いていたこともある。この経緯は「にんげん蚤の市」に詳しい。

東宝では『綴方教室』、『馬』(共に山本嘉次郎監督)などの映画に出演し、天才子役から女優へと脱皮していった。『馬』で助監督を務めた黒澤明と撮影中に恋に落ちたが、母親の反対で強引に別れさせられた。この『馬』の長期ロケで山形県最上町に滞在した際に、高峰に一目惚れしたのが門脇貞男少年(後のケーシー高峰)で、芸名も初恋の人たる彼女に由来する。

原節子が東宝へ移籍して知り合ってからは原を「お姉ちゃん」と呼ぶ間柄であった。

オペラの奥田良三、長門美保に師事し、本格的な発声を学ぶ。このことは後に音響設備のない戦地での慰問公演や歌手活動などに大きく役立つこととなった。

1941年には後に多くの名作を生み出すことになる成瀬巳喜男監督とのコンビを『秀子の車掌さん』で初めて組んだ。

戦争中においても彼女の人気は上昇し続け、多くの映画に出演した。また出征兵の中には彼女のブロマイドを胸に戦地へと旅立った者もおり、戦後の彼女の反戦思想に大きな影響を与えた。本人は「戦前派・戦後派という区分をするなら自分は夫とともに戦中派」と述べている。

戦時中の彼女の代表作は『婦系図』、『阿片戦争』などマキノ雅弘(当時は正博)監督作品が上げられる。

大河内伝次郎の当たり役『丹下左膳』にも出演しており(『新編 丹下左膳 隻眼の巻』『同 恋車の巻』。ただし『恋車の巻』の映像は現存せず)、それが縁で当時建設中であった女人禁制の大河内山荘に招かれた。

新東宝時代

戦後東京宝塚劇場が占領軍に接収されアーニー・パイル劇場となる。占領軍相手の慰問公演を依頼されたが衣装がなく困っていたところ、入江たか子が手持ちのコートをほどいて一夜で衣装に仕立ててくれたと言う。

東宝争議に巻き込まれた結果、大河内伝次郎、長谷川一夫、黒川弥太郎、藤田進、原節子、高峰秀子、山田五十鈴、入江たか子、山根寿子、花井蘭子で「十人の旗の会」を結成、政治的イデオロギーの強い東宝労働組合を脱退し新東宝へ移籍することになる。このとき「高峰秀子後援会」が発足し、銀座カネボウビル内に事務所が開設されて機関誌「DEKO」が発行された。

太宰治の遺作『グッドバイ』や谷崎潤一郎の傑作『細雪』の映画化に出演したのもこの時期である。谷崎とは彼の家族を交えた形で、以後も交流が続いた。

銀座で開かれた絵の愛好会に出席するようになり、顧問を務めた画壇の巨匠梅原龍三郎と知り合う。以後40年にわたる親交が続き、梅原により高峰がモデルとなった肖像画が長年にわたり多数描かれることとなった。初めて高峰を描いた際には目が大きくなりすぎて似ずに何度も描き直した。試行錯誤の後、目が大きいのではなく眼光が強いことに気付いたという。梅原による高峰を描いた作品は高峰著の「私の梅原龍三郎」に詳しい。

『宗方姉妹』で小津安二郎監督作品にも出演を果たしている。

市川崑は助監督時代に彼女の家に下宿していた仲(それ以前に高峰が京都に短期滞在した際、京都で隣室同士に下宿して食事などを共にしており、その縁を頼って急な東京転勤となった市川が高峰家に転がりこんで1年あまり住んでいた)であり、デビュー作から二本に主演。その後市川が大監督となってからの出演はないものの、エッセイでは「戦友」「崑ちゃんと呼ばせて欲しい」と記し、後述の東京オリンピック映画騒動の際には率先して擁護に当たるなど、変わらぬ友情を示した。

当時結婚を想定して交際していた会社の重役が後援会費を使い込み、しかも他の女性と交際していた事が発覚したことから疲れ果てて新東宝を退社、家を売り払いパリで一人暮らしをする。そのこぼれ話は「つづりかた巴里」に詳しい。

フリー時代


『二十四の瞳』(1954)
帰国後はどの社にも属さずどの社の仕事もすると言う当時の異例中の異例であった日本初のフリー俳優として活動を開始した。 当時は五社協定により所属映画会社に背いた者は映画界からも干されるシステムであったが、そのような中でのこの動きは本人が超のつく大スターであったからこそ可能であったことである。 女優としての黄金時代を迎えたのがこの時期である。数々の名監督とタッグを組み、八面六臂の活躍を見せた。

松竹においては木下惠介監督作品に多く出演し、日本初のフルカラー作品となった『カルメン故郷に帰る』をはじめ、『カルメン純情す』、『二十四の瞳』、『喜びも悲しみも幾歳月』などの作品に出演した。

『二十四の瞳』の撮影で当時木下の助監督をしていた松山善三と出会い、1955年結婚する。仲人は川口松太郎、三益愛子夫妻に木下惠介の3名だった。この際、めでたい話が横から漏れてゴシップ扱いにされるのを嫌った木下が自ら報道各社に「松竹の木下ですが、うちの松山君と高峰秀子を結婚させますので取材に来てください」と電話をして関係者一同による記者会見を行ったのが芸能人の結婚記者会見のさきがけといわれている。

1959年4月10日、皇太子と正田美智子との成婚パレードの生中継にてゲスト解説を務めた。以来美智子妃との親交がある。文藝春秋で日本一の美人を決める対談企画があった際、高峰は「『美女』である以前に人柄や教養も含めた『美人』でないといけないという観点」から美智子妃を推し、企画で選出している。

東宝においては成瀬巳喜男監督作品に多く出演し、『浮雲』をはじめ『女が階段を上る時』(衣装も彼女が担当した)、『流れる』、『乱れる』、『妻の心』、『放浪記』、『娘・妻・母』などの作品に出演した。

大映においては豊田四郎監督作品『雁』などに出演した。その他、夫の松山善三監督のデビュー作品『名もなく貧しく美しく』(東宝)、豊田四郎監督『恍惚の人』(東宝)、稲垣浩監督『無法松の一生』(東宝)、増村保造監督『華岡青洲の妻』(大映)など映画史に名を残す傑作群に出演を果たす。

映画では年少(それもしばしば大幅に)の男優と夫婦役を演じることが非常に多かった。佐田啓二をはじめ、田村高廣、仲代達矢、若山富三郎、天本英世、宝田明らである。この傾向は木下惠介作品に著しい。すべてが円満な夫婦像ではないが、(おおむね)若い二枚目達を相手に包容力と強さ優しさを備えた日本の妻の姿を提示し続けたといえる。[1]

主要映画会社の中で彼女と関わりのない東映、日活については 1960年代以降のいわゆる『ヤクザ映画』によい感情を抱いていなかったようである。

64年の市川崑に撮影が依頼された映画「東京オリンピック」で大論争が巻き起こった際、「とってもキレイで楽しい映画だった。(文句をつけた河野一郎は)頼んでおいてからひどい話じゃありませんか」と擁護コメントを雑誌や新聞に寄せた。雑誌での河野との直接対談でも「永田雅一が友人だからあまり悪くは言えないが」と当時の映画の斜陽化と監督の力量を嘆く河野に対し「それは永田さん(経営者)の問題です。監督は所詮勤め人なんですから『これこれこういうものを作れ』と言われたらそういう物しか作れません」と直言するなど、河野に「高峰秀子と言う女は只者ではない。男に生まれていたら天下を取ったに違いない」と言わしめた。 この対談でたじたじとなった河野は折れて市川と和解。その後も高峰のとりもちで会談を重ねて海外版の編集権などは市川の手に戻った。今日でもDVDなどで親しまれている名作を、全くの第三者である高峰が体を張って守った形となり、市川は後年の対談でもこの件を深く感謝。高峰の義侠心や友情に厚い性格、一本気な面をあらわすエピソードとなっている。

当時国交のなかった中国大陸からの映画使節団が訪日した際には外務省からの依頼により夫妻でホスト役を担っていた。 戦前の中国の大スターだった趙丹が江青の俳優時代を知っているという理由だけで江青に投獄された際にはことある都度に知己を通じ「趙丹は元気にしているか」と呼び掛け続けて文化大革命による処刑を阻んだ。この経緯は「わたしの渡世日記」「いっぴきの虫」に詳しい。

63年からは映画の出演本数は減り、68年以降はTVドラマでも活躍する。特に夫・松山善三が脚本を書いた東芝日曜劇場「春の別れ」は、視聴者の感動を呼び、1974年の年末にアンコール放送された。そのほか、フジTV「小川宏ショー」内の「高峰秀子対談」コーナーの聞き手を務めた。

そんな中、1971年2月に高峰は国会の席においてテレビのクイズ番組を低俗だと非難。そもそもの発端はフジテレビで放送されていた「クイズ・キングにまかせろ!」の賞品(1000万円のマンションの所有権)が独占禁止法に違反しているという告発によるものだった。この騒動で高峰は「俳優を毒するクイズは最低のいやしさだ。」と弁明。その騒ぎを受けて公正取引委員会は、全てのクイズ番組に対し賞金額の見直しを求め、同年9月に全てのクイズ番組の賞金(賞品)の上限を100万円までに定めるまでに至った。

72年10月には東京紀伊国屋ホールで反戦劇「ケイトンズヴィル事件の九人」に出演。

女優引退

1979年、木下惠介監督の映画『衝動殺人 息子よ』に出演予定であった八千草薫が降板し、代役を依頼され出演する。久々の映画出演に制作発表記者会見ではこれで引退かと質問され「とっくに引退したつもりだったんですけどねえ」と答える。制作中の後日、女優引退を発表する。

映画『典子は、今』等に助監督として製作に参加するほか、2003年には映画『葉っぱのフレディ』で朗読を担当する。





今年、いちばんビックリするニュースが大晦日に飛び込んできた。大ショック!!!!!
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気楽な稼業ときたもんだ

2010年12月31日 | エッセイ・日記・意見
気楽な稼業ときたもんだ
砂田 実
無双舎




テレビのイイ時代を駆け抜けた人々。
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