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本と映画とテレビと鉄道をこよなく愛するブログ

「スジナシ」、久しぶりに大爆笑!!!!!

2007年05月15日 | テレビ番組
スジナシ

コロムビアミュージックエンタテインメント

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台本ナシ、ぶっつけ本番の即興ドラマをTVで放送する。たとえ思いついても、誰しもが思いとどまりそうなこの企画に挑んだのは、バラエティ、ドラマ、映画などで活躍を続ける笑福亭鶴瓶。中部日本放送(CBC)の深夜枠番組として1998年スタートし、2004年現在も放送が続いている「スジナシ」から、傑作3本を収録したDVDだ。
大竹しのぶ、勝村政信、段田安則という実力派俳優たちと鶴瓶が、事前の打ち合わせもない限られた状況の中で即興ドラマを演じ、その後VTRを見ながらお互いのそのときの心情などをコメントする。上げ底的な見せ方を一切しない演出が、出演者の演技者としての技量はもちろん、時に演技を越えた本音までも垣間見せる、意欲的な企画。コント的なわかりやすい笑いではないが、決して見過ごすことのできない面白さがあるのは、出演者の“本気”の賜物だろう。(安川正吾)

内容(「DVD NAVIGATOR」データベースより)
笑福亭鶴瓶が豪華ゲストらと共に緊張感溢れる台本なし(スジナシ)の即興ドラマを繰り広げる、中部日本放送の人気バラエティ番組がファンの熱い要望に応えてDVD化。大竹しのぶ、勝村政信、段田安則らがゲスト出演し、爆笑必至の即興ドラマが展開する。


特に「大竹しのぶ」の回は最高!!!!!


スジナシ 2

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内容紹介
多数のファンからの熱い要望に押され続編決定!全国のファンが見たくても見られなかった話題の超人気テレビ番組のDVD第2弾!爆笑&仰天&感動!厳選の傑作3作品を収録。笑福亭鶴瓶とゲストがおりなす即興ドラマ。スジナシとは…笑福亭鶴瓶が毎回訪れるゲストと共に、台本( = スジ)ナシ&ぶっつけ本番で繰り広げる即興ドラマ。演者だけでなくスタッフにも先がよめない状況下での真剣勝負。虚々実々!緊迫のかけひきにハラハラドキドキ!鶴瓶が挑むテレビの新しいカタチ!!
【特典内容】
●新編集完全版 テレビ未公開映像大幅追加
●おまけ映像 「とある収録の日…」番組シーンゲスト登場直前、鶴瓶が突然100人の観客の皆さんのところへ!テレビではOAされなかった初公開シーン。
【収録内容】
♯4 イッセー尾形
即興ドラマの設定は「玄関」。双方自分が誰であるのかさえも不明のまま、まず仕掛けたのは鶴瓶。しかしイッセー尾形も鶴瓶仰天の切り返しで…。
♯5 斉藤暁
「マンションのベランダ」でアドリブ演技。観覧客を突然ドラマに呼び入れる鶴瓶。対する斉藤は奇想天外「私は○○ダ!」と、まさかのセリフを…。
♯6 吉田日出子
じっと見つめる吉田の目から大粒の涙がポロポロと落ちる・・。「独り暮らしのアパート」で、切なく哀しい感動のドラマが生まれる。鶴瓶も感極まり…。

出演者:笑福亭鶴瓶 イッセー尾形 斉藤暁 吉田日出子 プロデューサー:伊藤司 ディレクター:鎌田耕次 制作著作:中部日本放送株式会社(CBC)

内容(「DVD NAVIGATOR」データベースより)
笑福亭鶴瓶が豪華ゲストと共に緊張感あふれる台本なし(スジナシ)の即興ドラマを繰り広げる、中部日本放送の人気バラエティ番組のDVD化第2弾。イッセー尾形、吉田日出子、斉藤暁がゲスト出演し、彼らと笑福亭鶴瓶によるガチンコ即興ドラマが展開する。

笑福亭鶴瓶 スジナシの箱

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内容紹介
中部地区限定放送ながら、各地で話題!鶴瓶の芸の粋を集めた、テレビの新しいカタチ、「スジナシ」。人気と実力を備えた多才で多彩なゲスト陣を相手に挑むガチンコ勝負を「女優編」 「男優編」 「座長編」 の3枚に収めた、ハコイリ3枚組。至宝の箱です!

【収録内容】
《Disc: 1》 女優編
牧瀬里穂
舞台は「珈琲店」。ふらりと入店した牧瀬は、マスターの鶴瓶にとんでもない事を依頼。手汗握る緊迫の駆け引き。物語は予想外の仰天サスペンスへと…
杉田かおる
設定は「町工場の事務室」。今日で退職すると鶴瓶から突然聞かされた杉田は、意を決して愛の告白「お嫁さんでなくても…」まさかの申し出に大あせりの鶴瓶。
奥菜 恵
「逢いたかったから…」大粒の涙をこぼしながら切々と気持ちを打ち明ける奥菜。迫真の告白に戸惑う鶴瓶。実は奥菜は…。「教会」での即興ドラマは感動秘話となり…
【映像特典】
「セットができるまで」

《Disc: 2》 男優編
奥田瑛二
夜の神社。「境内」に2人の男。賽銭箱の前で泣き崩れる奥田。訳ありげな奥田に恐々話しかける鶴瓶。事情を聞くうちに意気投合した2人は、夜の境内でまさかの…
大杉 漣
知人が贈り物を持ってやってきた…。「書斎」に入ってきた大杉は、いきなり鶴瓶に怒りをぶつけ押し問答、そして遂に大ゲンカ勃発!迫力&緊迫のアドリブドラマ。
古田新太
ドラマの設定は『古ぼけた事務所』。本番前に古田がポツリと発した「困りたいなァ」の一言が大混乱への引き金で…。スタジオ騒然!セットの外でまで迫真演技。
【映像特典】
「スジナシ特別イベント」

《Disc: 3》 座長編
佐藤B作
ハバロフスク行きが出る「船の待合室」。ふたりは誰?何のためにココに?全く白紙のまま即興スタート!なぜか突然鶴瓶の頭を叩いた佐藤。激しいつかみ合いに発展し…。
中島らも
山のように買い物をした中島が「デパートの休憩所」に座わっている。横に来た鶴瓶に屁理屈をこね、しつこく絡み掛かる。鶴瓶が無視しようとしても中島は許さず…
渡辺えり子
即興ドラマのセット「大理石のロビー」を見た渡辺は、突然「衣装を替えたい」と近くのデパートへ別の衣装を買いに行ってしまう。スタジオに取り残された鶴瓶とスタッフは…
【映像特典】
「DVD-PR版」


内容(「DVD NAVIGATOR」データベースより)
中部地方限定放映ながら、内容の面白さと毎回のゲストの豪華さにコアなファンが付いている人気番組「スジナシ」の最新版3枚組BOX。「女優編」「男優編」「劇団団長編」の3部構成で、笑福亭鶴瓶とゲストとのガチンコ勝負が繰り広げられる。



中島らもさんの回は、完全に「らもワールド」になっている。最高だ。



スジナシ 笑福亭鶴瓶×妻夫木聡×宮藤官九郎

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内容(「DVD NAVIGATOR」データベースより)
名古屋で話題の人気番組「スジナシ」の東京進出を記念して製作されたスペシャル番組の模様を収録。笑福亭鶴瓶、妻夫木聡、宮藤官九郎の3人が台本なし・全編アドリブのみの即興ドラマに挑戦。果たして今回はどんなストーリーが生み出されるのか?

劇場スジナシ東京公演

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内容(「Oricon GE」データベースより)
CBCテレビで人気沸騰中のバラエティ番組「スジナシ」が舞台に。わずか10分でチケットが完売した超プレミア舞台公演「劇場スジナシ」のDVD化。イッセー尾形、生瀬勝久、広末涼子の日替わりゲストが笑福亭鶴瓶と即興ドラマを演じる。







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「KY」なOL二人。

2007年05月15日 | エッセイ・日記・意見
今日の「昼食」の時の事。今にも雨が振って来そうな天気のせいか、どのお店も12時半を過ぎているというのに、行列ができていた。僕は1人だったので、割と早く店内に入る事ができ、木の葉そばを注文した。

気になったのが、横の4人テーブルを2人で占領しているOL。彼女達は僕が席に座った時点で完食していた。僕の注文したそばが来ても「おしゃべり」に夢中でテーブルを空けようとしない。外では店に入る為に新たなお客が待っているというのに。店員が見かねたのか、「お茶のおかわりは如何ですか?」と暗に、席を空けて欲しいと新しいお茶を入れても、彼女達は全く気にする事も無く、まるで、そこが自分達の憩いの場所の様に占領しているのだ。昼食時の「蕎麦屋」は回転率が勝負。二人の無神経さに呆れてしまった。
僕はさっさと食べると席を立った。まだ彼女達の「しゃべり」は続いている様だった。女性の「しゃべる事」でストレスを発散するのは分かるが、それは喫茶店とか、もっと客が待っていないところに移動して欲しい。心底そう思った。
車を運転していて怖いのが、突然、おばちゃんの自転車や原付が横から飛び出してくる事。まるっきり、後ろから車が来るかどうかなんて確認はしない。「KY(空気の読めない人達)」である。
多分、立ち食い蕎麦屋やカウンターだけの「吉野家」があるのは、客単価が安いので、客の回転率を上げないと、利益が上げられないからだと思う。立ち食い蕎麦屋で、「おしゃべり」に夢中になるOLはいないだろう。
それくらい、今日の蕎麦屋のOL2人は気になった・・・というより「怒り」を覚えた。地球はお前たち2人を中心に回っているんじゃないんや!!!!!と、叫びたくなった僕である。
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「声de入力」

2007年05月15日 | 携帯電話・電話
地名や乗換を声で入力・検索「声de入力」の実力は?
「東京から新宿まで10分後」など自然な文章を発声すれば、EZナビウォークを声で操作できる「声de入力」。発表会会場で気になる実力をチェックした。

 1月12日、KDDIは乗換案内や目的地検索の地名を、音声で入力できるサービス「声de入力」を発表した(1月12日の記事参照)。同社が提供している歩行者向けナビサービス「EZナビウォーク」のメニューのうち、「乗換検索」と「目的地検索」の入力で声de入力を利用できる。

 2006年2月以降発売のEZナビウォーク対応端末で利用でき、現行機種でのサービス提供はされない。同日に発表された「A5518SA」「Sweets pure」「A5520SA」は対応機種となる。

「東京駅から新宿駅まで10分後に」「日比谷のコンビニ」で検索できる
 EZナビウォークでは歩行者ナビだけでなく、乗換検索や道路情報などさまざまな情報を提供している。今回声de入力に対応するのは、ナビの目的地を音声入力できる「声で目的地検索」と、鉄道の乗換案内で必要な駅名や時間などの条件を音声入力できる「声で乗換検索」の2つだ。

 声で目的地検索は、目的地(店名/施設名/駅名/空港名)、電話番号、住所などを入力して目的地を検索するもの。略語も一部登録されており、例えば「コンビニエンスストア」と「コンビニ」のどちらでも検索できる。「××(地名)の○○(施設名)」という入力にも対応しており、「日比谷のコンビニ」といった周辺検索ができるのも特徴だ。

 声で乗換検索では、出発駅、到着駅、日時を声で入力できる。「東京駅から新宿駅まで10分後に到着(出発)」といった検索が可能だ。日時を数字で指定せず、「明日」「今日」といった入力もできるようになっている。また、出発/到着を指定しなかった場合は、「出発」と見なして検索する。

気になる精度は?
 会場に置かれていた対応端末で、声で乗換検索/声で目的地検索の両方を試してみた。記者の場合は、声で乗換検索では4分の3くらい、声で目的地検索ではさらにその半分以下の割合で正しく認識していた。

 そこそこ使える印象だが、うまく認識させるにはいくつかコツがある。誤認識した場合の学習機構は用意していないので、人間側が機械に合わせる必要があるのだ。

 音声認識では大きな声で単語を区切りながらはっきり発音するのが基本だが、声de入力の場合は、大声だとむしろ認識率が落ちてしまう。普通に電話で通話する程度の声の大きさ、スピードで発声するのがコツのようだ。端末から離れて大声で話すより、マイクと口元を近付けて小声で話すほうがうまくいく。また、「から」「まで」「の」といった助詞の後ろを軽く区切るだけでも認識率は上がる。

 雑音が多すぎる、認識が始まる前に発声するなどで認識できなかった場合には、端末側がエラーを出す。ただ認識に失敗したとエラーメッセージが出るのではなく、「発声が早すぎます」「声が大きすぎます」「静かなところで発声してください」など、失敗した理由と認識率を上げるためのアドバイスが出るところは分かりやすい。

周囲の雑音などを判定し、自動的に音声認識が開始される。このとき発声を始めるのが早すぎるとエラーが出る、電話で通話する程度の大きさの声がオススメ。大声すぎるとエラーになりやすい。

 誤認識した場合には、テンキーでテキスト入力して訂正するか、再度音声で入力する。イントネーションやアクセントの違いは吸収できるが、地名の誤読などは判別が難しいという。

 発声終了から認識結果が返ってくるまでにかかる時間は、10秒弱といったところ。この時間を待つよりキー入力したほうが速いと感じる人もいるだろうし、認識精度に対する満足度も人それぞれだろうが、記者は使ってみたいサービスだという印象を受けた。

 誤認識した場合は、再度音声で入力するよりもキー入力するほうが速いが、それでも初めからキー入力するよりは速い。例えば乗換検索の場合、入力する項目が複数あるため、アプリの入力窓とキー入力画面を何度も切り替えながら入力しなくてはならないが、それを1操作で行える手軽さは魅力的だ。住所のような、かなと数字が混じった入力も楽にできる。

 声de入力の機能は、パケット通信料のみで利用できるが、声で乗換検索を利用するには、EZナビウォークの有料登録が必要。料金は、95円/24時間、210円/月、道路情報や鉄道運行情報も利用できるコースが315円/月となっている。

auの音声認識を映像でチェックする

 発表会場で、KDDIのデモンストレーターに実際に音声認識を試してもらった。EZナビウォークを起動し、メニューから「声で目的地検索」を選択。「住所で探す」を選んで、行きたいところを発声してもらった。



 KDDI本社の住所である「東京都千代田区飯田橋3の10の10」と発声してから、約13秒で検索結果が表示された。ちなみに、1回目のトライではミス。異なる結果が表示された。映像は2回目のトライだ。

 周囲は音声認識を試す報道陣で溢れており、とてもうるさい環境。そんななかで、2回試してうまくいったのは音声認識技術としては高性能だろう。ただし一般のユーザーが気軽に利用したくなるかどうかには疑問も残る。

 それよりも気になるのは認識にかかる時間かもしれない。「分析中です」と出ている間、端末は音声の特徴点を抽出している。その後サーバと通信が行われて結果が返ってくるわけだが、最初の分析時間が長い。デモは1X端末で行われたが、CPUはARM9コアを積んだMSM6100。MSM6500を搭載したWIN端末に変わっても、CPUスピードは変わらない。通信部分は短縮されるが、全体にかかる時間は大きくは違わないだろう。



という1月のニュースがあったが、便利らしい、この機能は。

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逸見政孝さんについて・・・

2007年05月15日 | Weblog
逸見 政孝(いつみ まさたか、1945年2月16日 - 1993年12月25日)は、日本の男性タレントで、元フジテレビアナウンサー・司会者。愛称はいっつみい。大阪市阿倍野区出身。血液型はB型。妻はエッセイストの逸見晴恵、長男は俳優の逸見太郎、長女はタレントの逸見愛。

フジテレビ在籍時代は主にニュースキャスターとして活躍。1988年3月31日付でフジテレビを退職してフリーとなり、テレビではバラエティ番組の司会やラジオ番組のパーソナリティなどを務めて人気を博した。1993年9月6日、極めて異例の「癌告白会見」を行い、社会に「中年男性の働き盛りにおけるガン」という問題提起をすることになったが、わずか3ヶ月半後の12月25日午後0時47分、癌性悪液質(スキルス)のため東京女子医科大学病院で死去した。まだ48歳の若さ、惜しまれる早世だった。

略歴

局アナ時代
大阪府立阿倍野高等学校を卒業後、関西学院大学を受験するが失敗。これが原因で恋人に振られ、その悔しさのあまり「有名になって見返してやりたい」と自分の将来について真剣に考えるようになった。たまたまテレビニュースに出演していたアナウンサーを見たのがきっかけで、また高校時代に放送部に所属していた影響もあり、アナウンサーの道を志すことを決意。アナウンサーになるためには、東京の大学の出身のほうが有利と考え、一年の浪人。早稲田大学合格を目指して猛勉強に励む。本人は後に「今の私があるのは、関学が落としてくれたからです。受かっていたら野球部のマネージャーになって、全く別の人生を歩んでいた」と語っている。

念願叶って、早稲田大学第一文学部演劇科に入学、アナウンス研究会に所属。大阪出身であったため大阪方言を話していたが、アナウンス研究会の3期先輩だった舛方勝宏(元日本テレビアナウンサー、現日本テレビ常務取締役)の影響を受けてか、共通語のアクセントを徹底的に覚えた。ラジオとテープレコーダーを購入し、ラジオでアナウンサーの声を聞き、テープレコーダーで新聞記事を読む自分の声を録音。アクセント辞典を見ながら、録音した自分の声を聞き、間違ったアクセントで発音した語句は、ペンでマーク。また、その語句を黒板に書き、覚えるまで消さないようにした。さらに、日常でも共通語で話すようにした。フジテレビのアナウンサー試験では出身地を確かめられたというほどの実力で、フジテレビ入社後には「アクセント辞典を食べた男」と語られるようになる。父に「アナウンサーになりたいんや」と告げると「やりたい様にやれや」と父から厳しい言葉が帰ってきた。

大学の同期で友人でもあった松倉悦郎とともに、フジテレビのアナウンサー試験を突破。大学卒業後の1968年、フジテレビに入社。当初はスポーツアナウンサーとして活躍し、輪島功一の世界タイトルマッチの実況を中心に、プロボクシング中継を担当する。同時にワイドショー『3時のあなた』のサブ司会者としても活躍する。

その後報道へ転出。1976年、『FNNテレビ土曜夕刊・テレビ日曜夕刊』で週末のニュースを担当したことを皮切りに、1978年平日放送の『FNNニュースレポート6:30』(関東ローカル番組)のキャスターとなる。当時のニュース番組のキャスターに逸見の年代で起用されるのは珍しかった。それから2年余りが経過したころ、TBSの『テレポート6』を見て感銘を受けた。そこで、当時同番組のキャスターであった山本文郎に直接電話をかけ、どのようにすれば質の高いニュース番組になるのかを尋ねた。山本からは「できるだけ現場へ行くように」とアドバイスを受けた。その後、逸見と共演者の田丸美寿々(ニュースキャスター、日本ニュース時事能力検定協会理事)は若さを武器に様々な現場へ取材に出向き、行動力のあるニュースワイド番組として定評を得る。取材範囲は、原則的には関東地方に限られたが、神戸などそれ以外の地域に赴いた事もある。

1984年4月からは全国ニュース『FNNニュースレポート6:00』のキャスターを務める。そして同年10月にスタートする『FNNスーパータイム』の初代メインキャスターに抜擢され、幸田シャーミンとのコンビで人気を博す。同番組の予告コーナーが設けられていたバラエティ番組『夕やけニャンニャン』において、司会の片岡鶴太郎やとんねるずとの当意即妙なやりとりが視聴者の注目を集めて人気は全国区となり、ブロマイドまで発行された。当時のニュースキャスターといえばまだお堅いイメージしかなく、当時の彼の外見も「七三分け」に「黒縁メガネ」と、その例に漏れなかったが(フリーに転身してからは徐々におしゃれをするようになっていった)、関西出身のひょうきんなキャラクターとのギャップが視聴者に意外性をもって受け入れられ、一般的なニュースキャスターとは一線を画すキャラクターで人気が高まったものと思われる。人気の高まりを受け、1986年には内田裕也主演の映画『コミック雑誌なんかいらない!』にも出演。また、バラエティ番組への出演が増え、同年から高橋圭三の後をついで、『新春かくし芸大会』の司会を担当する。


フリー転身後
管理職に昇格したことによって、番組出演の機会が徐々に減少。「生涯、一アナウンサーでありたい」との思いが強くなり、1987年11月に辞表を提出。翌1988年3月末、フジテレビを円満退社。三木プロダクションと業務提携を結んだ「オフィスいっつみい」(現在は「株式会社オフィスいつみ」に社名変更)を設立してフリーとなる。「FNNスーパータイム」のキャスターはその後1年間続けた(逸見自身は退職と同時に降板を希望したが、フジテレビと、パートナーの安藤優子に「番組には残って欲しい」と強く希望され、1年間の約束でキャスターを続けた)。テレビでは『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』、『夜も一生けんめい。』(以上日本テレビ系)、『たけし・逸見の平成教育委員会』(フジテレビ系)など数多くの人気番組の司会を務め、「いっつみい」の愛称とその笑顔で、視聴者から高い好感度を得た。ラジオの「オールナイトニッポン」でパーソナリティを務めたこともある。特に『たけし・逸見の平成教育委員会』(フジテレビ系)は裏番組の『クイズダービー』(TBSテレビ)、『おぼっちゃまくん』(テレビ朝日)を終了へ追い込んだ。 タモリ・ビートたけし・明石家さんまのいわゆるビッグスリーBIG3を完璧に制御することのできた唯一の人物として、日本を代表する「名(迷)司会者」として語り継がれている。なお、逸見は著書の中で「『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』と『たけし・逸見の平成教育委員会』が自分にとって一番思い入れのある仕事」と述べている。また、BIG3との共演に関して、「あれ(=BIG3の仕切り役)だけは絶対誰にも譲らない」と語っていたそうである。また『夜も一生けんめい。』では音痴でありながらも精一杯に熱唱していた。また1992年秋に世田谷区に12億円(当時)の英国風の大豪邸を築きあげた。同時に大阪に居住していた両親を呼び寄せ、旧宅に住ませる事となる。

司会者としての地位を確立したこともあり、解答者として他のクイズ番組に出演することはほとんどなかったが、1993年春の『オールスター感謝祭』に、自身が司会する『逸見のその時何が!』の解答者として出演した。この番組には以降も出演する予定だったと思われるが、この時が最初で最後の出演になった。なおこの番組で、当時、逸見の真の病状を知らなかった島田紳助は解答者席の逸見に向かって「実は癌なんです」とか「もうすぐ死にますよ」などと冗談を言っていた。逸見の亡くなった日の夜にインタビューで紳助は「癌という重病を抱えているのに何で仕事し続けんねん。全くのドアホですよ、逸見さんは」などと悔し泣きしながらコメントを述べている。


エピソード
1985年8月12日、大阪への帰省のため家族4人で日航機に搭乗する予定だったが、晴恵夫人が「新幹線で大阪へ帰りたい」と願い出て、直前に東海道新幹線に変更したため、日本航空123便墜落事故の難を逃れている。これは夫人が飛行機嫌いであったためとも言われる。
『たけし・逸見の平成教育委員会』では、国語と社会の正解率が高かった反面、算数の解答は相当苦手であった。ようやく出来たと思った算数の問題(三角形の面積を求める問題)では、公式中の「÷2」をせずに解答。正解だと思っていた本人は、一瞬唖然とした後、相当カッカしてしまった(ちなみに、同じく生徒であった天本英世、高田文夫も国語が得意で算数はかなり苦手であった)。逸見に言わせると「算数の問題は、鬼門だなぁ」とのこと。
一方、逸見一人だけ全問正解した国語の時間では、田中康夫や岡本夏生など生徒達から「逸見君、変」「逸見君おかしい」などと散々言われ、北野先生ですら「事前にイースト(当番組の制作会社)から答えを教えてもらっていたんじゃないですか?」とまで言われた。
『教育委員会』で成績優秀者に与えられる「たけし落とし」を見事完成。めでたく海外一周留学の旅を獲得。ところが、直後に北野先生が「ここで嬉しいお知らせです。何と逸見君が世界一周の旅を視聴者プレゼントとして・・・」と勝手に段取りを進めてしまい、本当に視聴者プレゼントとなってしまった。
大阪弁を完全に矯正したことで、上岡龍太郎など一部の関西出身の芸能人からは「関西を捨てた男」と呼ばれることもあった。また、やしきたかじんは共演をしたがらないほど逸見のことを批判していた。しかし、全国放送で正確かつ的確なニュース原稿を読み上げるプロとしては当然の事であり、「共通語」を完全に会得した努力は、評価すべきである。後輩アナウンサーへの指導も非常に厳しかった。それだけに「(アナウンサーなら)ちゃんとしゃべれ!」と指導するところを「ちゃんとちゃべれ!」と言ってしまったという、他の人物ならなんでもないエピソードが語り継がれている。
一方で、言葉以外では関西出身者としての誇りを持ち続けた。大阪から東京に進出し『世界の常識・非常識!』やその他の逸見司会の番組に出演していた、当時全国的には無名のダウンタウンを可愛がり(逸見はこの番組におけるダウンタウンとの掛け合いで2人の持ち味を最大限に引き出し、ダウンタウンとの応酬合戦では関西弁で突っ込むこともあった)、当時低迷が続いていた阪神タイガースを生涯変わらず愛し続け、関東での阪神の試合に家族で頻繁に応援に訪れていた。晩年には時に関西弁で話すこともあったという。
番組出演時とは対照的に、家庭内では「頑固オヤジ」や「亭主関白」とも言われ、追悼特番でも逸見の頑固ぶりが紹介された。しばしば妻に手を上げることもあったと著書などで告白している。
一般的に「マジメ」と思われていた逸見だが、逸見の著書内では山城新伍とビートたけしの親友2人がそろって「マジメだとは思わない」と述べている。山城は「必要以上に人に気を使う人。良しにつけ、悪しきにつけテレビ人間と思える節がある。もう少し無責任になった方がいい」と述べた。また、直接「もう少し悪人になってもいい」とアドバイスしたこともあるという(本人は笑って否定したという)。たけしは「逸見さんみたいな人は、今だからマジメと言われるだけで、昔なら不マジメ。昔は一つのものに集中する人がマジメだった。でも逸見さんは色んなことに夢中になってるからね・・・」と述べている。
NHK朝の連続テレビ小説『青春家族』に出演した際、逸見演ずる岩井一之はアメリカに永住してビデオレターを送ったりもしたが、アルコール依存症で途中帰国する役設定だった。当該シーンの撮影の後、逸見はメイクをしたまま喜んで帰宅したそうである。また、この役柄設定は業務提携していた三木プロダクションの三木常務(生粋の酒飲み)をモチーフにしていたようだと、三木治が著書の中で語っている。
また、上記と同じような事例で『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』の特番の番宣CMにてスーパーマンの衣装を身に着けた際にも、家族を驚かそうとそのままの格好で帰宅したという。

癌との戦い

最初の癌発見と手術
1993年1月18日、胸のみぞおちの辺りに痛みを訴えた逸見は、港区元赤坂の前田外科病院を年に1度の定期健診も兼ねて受診することにした。その際に担当医から「胃に初期の癌細胞を見つけた」と診断された。1週間後の1月25日に入院、前田昭二院長と新谷弘実医師の執刀により、同年2月4日に胃の4分の3と周囲のリンパ節、腹膜の転移病巣を切除する3時間程度の最初の手術を受けた。逸見本人には胃の3分の2のみを取り除いたと伝えられたのだが、この際、晴恵夫人だけには院長から「ご主人の病状は、実際は初期のがんではなかった。ギリギリの所で全ての癌細胞を取り除いたが、残念ながら5年先の生存率はゼロに近い。」と宣告されていた。そして逸見はわずか1ヵ月後の同年2月25日に退院。翌日には『夜も一生けんめい。』の収録で仕事復帰。当初は、病名を穿孔性十二指腸潰瘍と偽って公表していた。

退院後も抗癌剤投薬や前田外科病院への検査通院を続けていたが、同年春から新番組も始まったことで再び軌道に乗り始めたかに思えた。しかし、同年5月下旬頃になると、メスを入れた手術跡の線上がケロイド状に膨れ始めた。担当医からは「通常、手術後に起こる症状である」と言われたものの、その突起物が次第に大きくなり始めて服を着るにも邪魔なほどになってしまった。スケジュールの都合により夏休み中の同年8月12日にその突起物を除去するという名目で2度目の手術を受けたが、癌はすでに腹腔全体に広がるまでに進行しており、癌性腹膜炎という末期状態であったにもかかわらず執刀医は逸見に癌の再発を告知しなかった。一方、同時期に米国でゴンザレス医師によるビタミン治療も検討されていたが、渡米直前で先方からキャンセルされた(癌の末期状態であるための、治療不能が理由であると思われる)。逸見は当時前田外科病院に絶対の信頼を抱いており、晴恵夫人ら周囲から別の専門病院での診察を勧められても、頑なに拒む態度をとっていた。またこの時期、逸見はレギュラー番組を週5本も抱え、極めて多忙な日々を送っていた。


癌再発と告白会見そして闘病期
同年9月3日、前田外科病院の治療と対応に疑問を抱き始めた逸見は、ようやく周囲の勧めで転院先の新宿区河田町の東京女子医科大学病院へ番組収録前の午前中に訪れ、この時に初めて癌の再発を宣告された。医師団からは触診の際に烈火のごとく怒られ「どうしてこんなになるまで放っておいたのだ!?明らかに状態がおかしいじゃないか!!! この状態で放射線治療するのは腹膜に対して危険だ!! 100パーセント完治する状態ではないが、直ちに手術をしないと腸閉塞の恐れがあり、このまま放置すれば1年持たない!!」と厳しい現状を告げられた。そのことを受けとめた逸見は3度目の手術を決意する。

同年9月6日午後3時、日本テレビ内で緊急記者会見を行ない、各局のワイドショーで生中継された。逸見は冒頭のコメントでこう述べている。

「こういう(生中継の)形でのこういう(内容の)記者会見は賛否あると思いますが、私が入院してから事務所を通じてのコメントを出しますと、真意が伝わらなかったり、あるいは誤解を生じてもいけませんので、私の口から伝えることによって、皆さんに集まっていただきました・・・まず初めに皆さんにお詫びしなければならないのですが(中略)前回退院した時に、大変申し訳なかったのですが、嘘の病名を発表いたしました。(中略)本当のことを申し上げます。私が今侵されている病気の名前、病名は・・・癌です」

逸見はこの会見で、自ら進行性胃癌(スキルス・がんの中で最も性質の悪い病状)である事を初めて公の場で告白した。そこで同年1月からの経緯を克明に説明したうえで、これから3ヶ月間の癌闘病生活を送ることを述べた逸見は、記者から闘病に挑む心境を尋ねられ「・・・僕はやっぱり人間ができていないので恐ろしいです・・・」と吐露した。会見の最後の方では、「もう一度、いい形で生還できればいいなと思っています・・・どうもありがとうございました」と復帰に賭ける闘病への意気込みを語ると、記者からは「生還して下さい!」という声が飛び、記者会見終了後は、会場から逸見に対して「頑張ってください!」と拍手喝采となった。癌と闘う決意表明に多くの芸能タレントは感動していたが、中には明石家さんまをはじめとして、「逸見にとってこの記者会見が生涯最後の仕事になるのだろう」と悲観視する人も少なくなかった。

その記者会見の翌日から全ての仕事を休止。逸見は東京女子医科大学病院に入院して、本格的な闘病生活に入った。そして、羽生富士夫消化器病センター所長ら数名の権威の執刀により、同年9月16日に臓器摘出手術に5時間、大腿部から腹部への皮膚移植手術に8時間、計13時間にもおよぶ大手術を受けた。


術後の容態悪化と最期
手術後の逸見は歩行訓練を行なったり、お粥などの流動食から好物のたこ焼き等の普通食を多く摂るなど、順調に回復している様子も見せた。ところが大手術から 1ヶ月が経過していた同年10月下旬に、突然腹痛を起こし食べ物を嘔吐した。その後、腸閉塞と判明して、この日は一時帰宅日であったが、中止になった。これにより普通食禁止の絶対安静となり、絶食状態を余儀なくされたために、高栄養の点滴をつけられたが、徐々に衰弱していった。その状態にもかかわらず、同年11月上旬から抗がん剤の投与が開始された。その抗がん剤の副作用の影響で、日頃の表情豊かであった逸見とは思えない姿に陥った。激しい吐き気を催して、意識がもうろうとなり、うわ言を発するなど、ますます病状は悪化していった。同年10月にマスコミに公表された病室での写真よりもさらに痩せ細り、体重が50kgを下回っていた逸見に、同年12月16日には、既に切除して消滅したはずの癌が腸に見つかった事が正式に分かり、主治医は「年を越せるかどうか分からない」と、妻の晴恵ら家族に宣告していた。翌日12月24日には、意識不明の危篤状態に陥った。この日は息子である太郎の誕生日だった。そして早期復帰の願いも空しく、「1年後に亡くなるのは本意ではありません」と述べた会見からわずか3ヶ月半後の翌日12月25日午後0時47分、癌性悪液質のため、東京女子医科大学病院で亡くなった。 まだ48歳であり最初の癌発見からわずか341日後の早すぎる死であった。家族に言った遺言は「もう早く(家に)帰りなさい」であった。そして亡くなる間際の遺言の「3番が正解です」は、逸見がフリー転向後、頻繁にクイズ番組に出演していたこともあり、仕事熱心さを伺わせた。


死後の賛否両論と波紋
結果的に癌の再発を根治する事はできなかったわけで、逸見の患った癌(スキルス)の特質上、逸見の死後「末期の状態であったにもかかわらず、なぜ大手術を行なったのか?」という疑問・批判の意見が多数あった。さらに、手術を行なわず他の治療で処置したほうが、1年程度は長く生きることができたとの見方もある。一方では腸閉塞を防ぐため、中・長期的な生存のためにはこのような大手術が必要であったという見方もあり、賛否両論がある。なお、慶應義塾大学医学部の近藤誠医師は、前田外科病院と東京女子医科大学の治療・手術方法を指摘している。「同年2月の手術の段階の病状でいかなる治療を行なっても、逸見は助かる見込みは100%無かった。またこの際に手術を行なわなければ、癌再発は起こらずあと数年は生きられた」とも語っている。

ただし、結局はどの様な手段を施しても逸見の癌の完治は不可能であったが、逸見自身が闘病方法を選択して積極的に病と向き合ったことや、スキルス胃がんを患った場合の医学的理論から逸見は早かれ遅かれ、いずれ死を迎えられざるを得られなかったという見方から、この様な議論については虚しいものとして沈黙を貫いている人が逸見の周囲には多い。

なお、逸見の実弟である憲治も1980年に同じスキルス胃がんで半年間の闘病の末、32歳の若さで亡くなっている。


没後

放送業界に衝撃
人気絶頂期にいた彼の死は、芸能界に留まらず日本社会に改めて衝撃を与えた。これは、死の直後にテレビ全局がニュース速報で“闘病中の逸見さん、力尽きる”と(ラジオ番組ではアナウンサーや番組パーソナリティから直接)伝えたこと、また古巣のフジテレビのみならず、他系列の民放各局でも追悼特番が組まれるなど、アナウンサー出身の芸能人としては、異例の扱いを受けた事がわかる。その後、新宿区信濃町にある千日谷会堂で行なわれた通夜の帰路にTBS、テレビ朝日、NHKを回り、その翌日の告別式の後には、一番お世話になった古巣のフジテレビと日本テレビを回って荼毘に付された。棺には、逸見の遺体と共に『たけし・逸見の平成教育委員会』で逸見が使用した学級委員長の制服も一緒に納められた。遺影は、自身が司会を務める予定であった『平成初恋談義』(1993年10月よりスペシャル番組からレギュラー番組に昇格)のPRや番宣ポスターなどに使用するために撮影されたものである。


親しかったタレントが号泣
逸見が初代キャスターを務めていた『FNNスーパータイム』では、彼の訃報をトップ項目として扱い、死を悼んだ。この時訃報を伝えたのは逸見の13期後輩である山中秀樹(現フリーアナウンサー)であり、翌月曜日にはフジテレビ時代の先輩である露木茂もニュースを読み上げ、またかつて同番組でコンビを組んだ安藤優子が葬儀の模様をレポートし、放送中に号泣した。また、逸見が亡くなった直後の緊急追悼番組のCM中に徳光和夫がスタジオの隅で号泣していた。さらに、逸見のレギュラー番組だった『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』、『たけし・逸見の平成教育委員会』、『いつみても波瀾万丈』、『夜も一生けんめい。』(亡くなった当日に生放送。このため、同日放送予定だった回は翌年1回目の放送となった)では追悼特番を放送した。ビートたけしが告別式の間中、参列者席で号泣し続けていたことは語り草になっている。式の折には、「いい人ばかり先に死んじゃうんだ。俺がもっと悪いことを教えてあげればよかった」と涙ながらに語ったという。1997年9月の『たけし・逸見の平成教育委員会』の最終回でも、たけしは「逸見さんと最後までやりたかった・・・それが一番残念です」と述べた。また、逸見についての話は親交が深かった事もあり、彼の著書でも逸見はよくとりあげられる。また、1998年1月25日の「知ってるつもり?!」でも逸見のことが取り上げられた。追悼特番では渡辺正行が号泣した。




「人柄」を画面から感じさせる人だった。面識は無いが、逸見さんの死に当時かなりショックを受けた。
コメント (1)
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柳本ジャパン、2007年度メンバー決定!

2007年05月15日 | 健康・スポーツ
2007年度、全日本女子バレーボールチームのメンバーが決定した。

1 多治見 麻子   MB   パイオニアレッドウイングス
2 板橋 恵     S    日立佐和リヴァーレ
3 櫻井 由香    L    デンソーエアリービーズ
4 先野 久美子   MB   久光製薬スプリングス
5 大村 加奈子   MB   久光製薬スプリングス
6 竹下 佳江    S    JTマーヴェラス
7 高橋 みゆき   WS   NECレッドロケッツ
8 菅山 かおる   L    JTマーヴェラス
9 宝来 眞紀子   WS   JTマーヴェラス
10 佐野 優子    L    久光製薬スプリングス
11 杉山 祥子    MB   NECレッドロケッツ
12 小山 修加    WS   久光製薬スプリングス
13 庄司 夕起    MB   パイオニアレッドウイングス
14 落合 真理    WS   久光製薬スプリングス
15 嶋田 美樹    MB   日立佐和リヴァーレ
16 栗原 恵     WS   パイオニアレッドウイングス
17 大山 加奈    WS   東レアローズ
18 有田 沙織    WS   NECレッドロケッツ
19 荒木 絵里香   MB   東レアローズ
20 木村 沙織    WS/S  東レアローズ
21 井野 亜季子   L    日立佐和リヴァーレ
22 高崎 紗緒梨   WS   NECレッドロケッツ
※ポジション
 (WS:ウィングスパイカー(レフト・ライト)、MB:ミドルブロッカー(センター)、S:セッター、L:リベロ )



大山加奈のプレーが見られるのはとてもとても嬉しいが、石川友紀が選ばれなかったのは何故なのだろう?

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「赤ちゃんポスト」に・・・「ゆりかご」に男児 開設初日の10日

2007年05月15日 | 子供・動物・生き物・ペット
 熊本市島崎の慈恵病院(蓮田太二理事長)が、親が育てられない新生児を匿名で受け入れる「こうのとりのゆりかご(赤ちゃんポスト)」の運用を始めた十日午後、三~四歳とみられる男児が預けられていたことが十四日、分かった。

 関係者の話によると、十日午後二~三時ごろ、「ゆりかご」に男児が入れられたという。母親が預けたらしい。男児の健康状態は良好。身元を示すような物などはなかったという。

 男児が預けられたことについて、蓮田理事長は「もし事実としても、そうでないとしても、医療人としてコメントできない」としている。

 「ゆりかご」は病院東側の外壁に縦五十センチ、横六十センチの扉があり、扉の内側(室内)に保育器が置かれている。扉を開けるとブザーやモニターが作動して、看護師が駆け付ける仕組み。同様の施設が病院に開設されたのは全国で初めて。

 同病院は昨年十一月に設置計画を発表。今年四月、熊本市が設置を許可し、五月十日に運用をスタートした。

 蓮田理事長は「『ゆりかご』は困っている人が相談できる“窓口”としてのシンボルマーク。まずは相談してほしい」と呼び掛けていた。
(熊本日日新聞より)




この赤ちゃんはこれからどういう人生を送るのだろうか?心配。

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曾根さんの「沈底魚」 、第53回江戸川乱歩賞受賞。

2007年05月15日 | 本・雑誌・漫画
 第53回江戸川乱歩賞(日本推理作家協会主催)は14日、曾根狷介さんの「沈底魚(ちんていぎょ)」に決まった。賞金は1000万円。贈呈式は9月21日、東京・内幸町の帝国ホテルで。

 曾根さんは1967年生まれ、静岡県出身。東京都在住。4月に別の作品で日本ホラー小説大賞の短編賞にも選ばれている。(共同通信より引用)



毎年、江戸川乱歩賞受賞作は楽しみに読んでいる。今年はどんな小説なのかなぁ~
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筑紫哲也氏肺がんと「NEWS23」で告白

2007年05月15日 | 病院・薬・病気
 ニュースキャスターの筑紫哲也氏(71)が14日、メーンキャスターを務めるTBS系番組「筑紫哲也 NEWS23」で、初期の肺がんを患っていることを告白した。治療のため15日から番組を休養する。人間ドックで腫瘍(しゅよう)が発見されたもので、生番組冒頭「先週、初期の肺がんと分かった。症状は克服できるので、また戻ってきます」と気丈に語った。

 午後10時54分、番組が始まると筑紫氏は淡いピンクのスーツ姿で、普段は中盤以降で放送する人気コーナー多事争論のフリップを取り出した。そこには番組が取り組んできたテーマでもある自筆の「がんを生き抜く」の文字があった。「自分はがんにならないと根拠のない自信を持っていましたが、先週、初期の肺がんだと分かりました。症状は克服できるということで、しばらく治療に専念します。がんにうち勝って、また戻ってまいります」。

 1分40秒ほどで多事争論を終えると、その後は、何事もなかったように通常のニュース報道に入っていった。ただし、放送したTBSでも知らされていた関係者は、ほとんどいなかった。筑紫氏の窓口となっていた同局広報担当も、都内の自宅で見た生放送で知り、急きょ会社に戻った。

 筑紫氏は4日から7日まで毎年恒例の春休みのため、番組を休んでいた。その期間で毎年受けている検査入院で腫瘍(しゅよう)が発見された。事実は、放送直前に番組幹部など一部にしか伝えられていなかった。異例の生放送によるがん告白の直後、東京・赤坂の同局には問い合わせの電話が相次ぎ、取材陣が訪れた。同局は「番組でお伝えした通りです。TBSでは、筑紫キャスターを尊重し、1日も早い復帰を、全国の視聴者とともにお祈りしたいと思っております」とコメントした。15日の放送から休養するが、17年半務めている同番組を、病気により長期休養するのは初めてだった。

 筑紫氏は今年4月の都知事選で、複数の政党から水面下で立候補を打診されていた。しかし、朝日新聞出身で、長らくアンカーマンを務めてきたジャーナリストとしての自負は強い。「ジャーナリストが天職であり、自分の仕事が政治より重要ではないとは思っていない、政治家になるつもりはない」と断った。適度に休暇を取りながら検査入院を受けるのも長く、報道に携わるためだった。

 89年、夜10時以降のニュース番組は久米宏氏(62)の「ニュースステーション」(テレビ朝日系)が人気独占状態の逆風の中、「NEWS23」のキャスターを引き受けた。「多事争論」などの評論で人気を得て、「NEWS23」を民放を代表する番組に育てた。95年にTBSがオウム真理教幹部に、教団と対立していた故坂本堤弁護士のインタビュー映像を見せた問題が発覚した。筑紫氏の「TBSは死んだに等しい」の発言は局内外に波紋を広げたが、キャスターとしての強い責任感の表れだった。告白に番組を選んだのも、キャスターとしての責任だったのかもしれない。

 番組終了の間際、膳場貴子さん(32)らキャスター陣に「明日から休みますが、留守の間よろしくお願いします」と締めくくった。後任を置く予定はない。

[日刊スポーツの紙面から]



「癌の告白」と言えば、元・フジテレビアナウンサーの逸見さんの会見が心に残っている。その年の年末年始、家族でイギリス旅行に行き、帰国した時、逸見さんの訃報を聞き、ショックだったのは忘れられない。筑紫さん、ゆっくり休んで元気になって欲しい。

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