深夜から強い雨が降り続きましたが、午後あたりからは小止み状態となっています。 西日本のように気温は高くはなっていません。 今暴風警報が出されています。
ニュースで知りましたが、羽生選手、いったいどこまですごいのでしょうか!!伸びるのでしょうか!!!ショートプログラム(SP)でNHK杯の106.33天を上回る 110.95点 を獲得したというではないですか。
何でも半数以上の審判が満点をつけたということです。ここまでくればもう恐れ入りましたというほかはないですね。
サギとオシドリ(のこども)
雨の分流にはサギが1羽とオシドリの家族が浮かんでいました。
サギは飛び立ちましたが、オシドリは逃げませんでした。嬉しかったですね。
きのうブログをアップしてから知りました。 9日午後10時30分頃野坂昭如(敬称略ですみません)が誤嚥性肺炎からくる心不全で亡くなったということでした。 きょうの新聞には大きく記事が載っています。
(2012年8月15日のこのブログもご覧ください。)
(煙草も酒も好きだったなあ)
野坂昭如とは付き合いは古く(何て書くと個人的な親交があったように聞こえますが、それはまったくありません。)、大学の頃からかな興味を持ち始めたのは。 最初はあの風貌から”無頼風”な印象を受けていましたが、ダンディーな黒メガネに真っ白なスーツスタイル、そして「平凡パンチ」(だったかな)等の文章を読むようになってから段々と印象が変わってきました。
滅茶苦茶なことを言っている風貌とは打って変わって、とってもナイーブな人で、ニンゲン観察力が鋭く、その根底にはとっても強い反戦平和の思想があり、とりわけ子どもへの思いが強い人だなあとはっきりと認識してからは、愛読者になり、いろんな評論集や小説を読むようになりました。 そして現在に至っています。
この頃目にしていたのは、カタログハウス社の「通販生活」でのいろんな文人等との往復書簡となっていました。 病に倒れてからは、元宝塚出身のきれいな奥様の献身的な介護を受け、その頃のことを書いた本も微笑ましく読ませていただきました。
つい最近は水木しげるも亡くなり、ますます貴重な戦争体験者が減ってきて、それと反比例するかのように威勢のいい論陣を展開する、戦前回帰かと思わせる動きが大きくなっていることはまことに心配でなりません。いくら危惧しても危惧しすぎることはないと恐れに似た気持ちさえ抱いています。
【 飢えにとことん痛めつけられた人の、悲痛な体験 「戦争で、最もひどい目に遭うのは、子供たちだ」 縦横自在な顔 根っこにあったのは、昭和ひとけた世代の反骨心と正義感であろう。一面の焼け野原から僕らのすべては始まったと言い、まだ足は焼け跡に置いたままのつもりだと語っていた。型破りと歌劇が絵になる人だった。 空襲に焼かれた後の日、妹を背負ってよく見入った蛍の群舞が忘れられないと書いていた。以来、自分は唱歌「蛍の光」を歌えないと。 ・・・・以上は「天声人語」より 】
【 極端にいうと、「いかがわしさのカリスマ」を持った人でした。 行儀の悪いコラムにグラビア、インタビューで、野坂さんの存在は表面化しました。 今でいう「ヘタウマ」の走りじゃないですか。 彼には自分の本道は作家にある、国民文学として名を残すという志があった。 世の中を野坂だらけにしてやれ 晩年は・・・戦争を思い起こし、老境を読ませるようになりました。 一時代をイメージ通りのものに作りあげ、信奉者もつくった ・・・・以上は「野坂昭如さんを悼む」(山藤章二)から 】
【 私生活ではお互いに意識的に離れながらも、時代に対しては共闘者として対してきたつもりである。 恩人でもあり、仲間でもあった。大きな支えが失われたようで、淋しい。 無頼派を演じつつも、傷つきやすい芸術家だったと思う。 ・・・・五木寛之の寄稿から 】
【 昭和一ケタ生まれの作家として、最後まで反戦平和を訴え、子どもたちの飢えた顔をみたくないと、TPPにも反対していた。 ・・・・矢崎泰久 】
【 眼前の危機に見て見ぬふりをしがちな今の日本を憂え、原発問題についても懸念する(内容の手紙が届いていた)。 病床からこんな危機感を伝えなければならなかった今の日本とは何だろうかと思う。 ・・・・横尾忠則 】
【 日本がひとつの瀬戸際にさしかかっているような気がしてならない。 当面の安穏な生活が保障されるならばと身を合わせているうちに、近頃、かなり物騒な世の中となってきた。戦後の日本は平和国家だというが、たった一日で平和国家に生まれ変わったのだから、同じく、たった一日で、その平和とやらを守るという名目で、軍事国家、つまり、戦争をする事にだってなりかねない。 明日にでも、たったひとつの選択しか許されない世の中になってしまうのではないか。 また、ヒョイとあの時代に戻ってしまいそうな気がしてならない。 ・・・・12月7日放送TBSラジオ「六輔七転八倒九十分」から 】
以上はきょうの朝日新聞の記事からでした。
きょう12月11日は、あの日から4年9か月目となります。 正直に言えば自分の中でも風化というか、ついつい過去の出来事としてややもすれば忘れてしまいかねない状態になっていることが怖いです。
忘れないためには、風化させないためには記憶し続けること、記録することが大切なのは言うまでもないことですが、やはりそのためにも風化を防ぐためにも、いわゆる”震災遺構”が必要と考えています。
岩手県の記事ですが、大槌町の旧役場庁舎をどうするか、住民同士でいろいろと話し合いが行われてきましたが、町長は年度内に解体するという方針を貫き、解体費を盛り込んだ補正予算を議会に提出しています。
大槌町の役場では、先の大震災による大津波で当時の町長を含む40人もの人が犠牲となっています。 このことはとっても大きい事実現実です。 同じような被害があった宮城県の南三陸町の旧防災庁舎は、宮城県が借用することになって解体ということからは免れました。
常々個人的には、宮城県は少々極端にいえば、教育や福祉には全くと言っていいほど積極的ではなく、土木行政主体と言ってよく、県政には不満が多いのですが、この件に関してはよくやったと思っています。これこそが県のとるべき施策と考えます。
今回の大槌町の旧役場についても、岩手県の介入が出来なかったのか?できなかったのはなぜか?単にしなかっただけか?全く分かりませんが、ひとつの町だけの問題として任せておくのは、今回の大震災をどうとらえるかという県自体の問題(ではないでしょうか?)からも逃げているように感じられます。
そして私が一番問題ではないかと感じているのは、今回の旧庁舎の解体か保存かについていろいろな考えが出されている中で、高校生たちが解体に”待ったをかけた”ということです。新聞によると、大槌高校の6人が今月4日に議論の継続を求める要望書を提出したからです。
大槌高校「復興研究会」という、全校生徒236人の半数が所属する研究会で、大学の研究者や町の職員と街づくりを議論してきたと言います。その一環として、広島市の原爆ドームや神戸、新潟の被災現場を訪問して勉強してきました。その結果が旧庁舎を保存すべきとなったとのことです。
『自分たちが主役となる町の未来に直結する大事な議論。高校生同士でも、もう少し話し合う時間が欲しい。』
『次代を担う高校生として町の将来を考えなければいけない。旧庁舎を残し、生まれてくる子どもに震災を風化させずに伝えたい。観光資源にもなる。』
『町が好きだから、真剣に旧庁舎の問題を考えている。町長ともう一度冷静に意見を交わしたい』
これに対して町長は全くつれない態度ですね。解体方針は変えずに、「旧庁舎はすべての世代の問題。若者の考えだけを受け入れられるほど単純ではない」といっています。
折角地元の高校生たちが真剣に考え議論して要望書を提出したというのに、単に考えは聞くだけ、要望書は受け取るだけというのはいかがなものでしょうか。真剣に町の将来を考えている高校生たちがいるというのに、非常にもったいないと思います。
確かに「旧庁舎がある限り前を向けない、苦しくてたまらない」というひともいるのは事実でしょう。 ならばそういう人たちも含めて議論協議するということは考える余地さえないということなのでしょうか。 それこそ老若男女での話し合いができるというものです。
それこそ生きた社会科の授業、生きたまちづくりにつながり、その結果”解体”となったとしても、そういう話し合いの場があったということだけでも貴重な経験となるのではないでしょうか。過去をしっかりと直視し、過去から学ぶという姿勢がしっかりしていれば、していなければ将来は明るいとは言えないのではないでしょうか。
平野公三町長の判断は残念ながら近視眼的で、現実追随主義にほかなりません。
≪こういう内容で行ったんアップした後に、地元の新聞をネットで見たら、大槌町議会の13人が全員の総意として、解体予算案の提出を先送りする要望書を町長に提出したそうです。よかったです。結論を出すのは来年の12月頃とのことです。≫
同じ岩手県の釜石市の事例です。 2013年12月4日のこのブログでも取り上げています。
忘れないでほしい。
ここで多くの命が失われたことを
忘れないでほしい。
生きたかった命がここで絶たれたことを
忘れないでほしい。
ここで亡くなった多くの遺族がいることを
忘れないでほしい。
津波はまたくるのだということを
忘れないでほしい。
ここであった現実を
伝えてほしい。
生きるために、今自分がどうすべきか
伝えてほしい。
失った命を 家族を守れずくやしい思いの人間がいることを
伝えてほしい。
震災で命をなくしてはいけないということを
伝えてほしい。
今は そして今日は 今日しかない、明日は 数分後は 何もわからないという現実を
「釜石市鵜住居地区防災センター」で奥さんを亡くした遺族(男性)のメッセージです
とっても長くなってしまいました。 読んでくれた人に感謝です。