きょうは冬らしい冷気が自然を覆っている感じで、広瀬川分流脇を歩くときの空気の冷たさ、風も少しあって川面はさざ波がたって、なおのこと寒そうに感じます。 それでも緑地帯を少年野球チームのメンバーが掛け声をあげながら走っていました。
(午前11時30分頃)
きょうは12月19日、あしたからはいよいよ師走の下旬をなります。 せわしくなってくるのですが、一応この前年賀状を例年の三分の二くらい買いました。 そうそう暮れの様子を夏目漱石は「門」でこのように表現していました。
『 年の暮れに、事を好むとしか思われない世間の人が、故意(わざ)と短い日を前へ押し出したがって齷齪(あくせく)する様子を見ると、宗助は・・・・・』 漱石の小説を読んでいくと、何と素晴らしい表現だと感心することが多々あります。 だから漱石なのだ!と言われればそれまでですが、さすがです。
きょうは広瀬川の分流にはカモもサギもサケも姿は見えませんでしたが、本流に沿ってすこし上流の方へ歩いて行ったら、いました、カモの群れが。 まるでハーレムにいるかのよう?といってはカモに失礼ですか。
9月10日、11日の大豪雨により広瀬川の流れは変わりましたが、至る所に大きな岩盤が目立つようになってきました。 この岩盤もその一つです。
12月師走ということで、我妻はいろいろと掃除をしたり、片付けをしていますが、30年以上も前に仕舞っておいたダンボールが出てきました。 なかから子どもたちが乳幼児だった頃の自由帳というか大学ノートに何でもいいから書かせたものが出てきました。 私と合作の絵(といえるのであれば)もあって、懐かしさでページをめくってしまったのですが、これからお知らせするのはそれではありません。
かって仙台市街地を街の顔として走っていた市電です。 中央循環線とそれに接続している6,7つの路線があり、自動車が普及するまでは乗降客で賑わったものです。 大崎八幡神社(当時)のどんと祭のときは、市電が縦横無尽の活躍をしたものです。
それこそ今で言えば二酸化炭素を出さないクリーンな乗り物として重宝がられたのでしょうが、仙台市は、市電の軌道内に自動車を乗り入れさせることによって、効率の悪くなった市電を廃止させる方向に舵を切り、代替え案として地下鉄を提唱し、1976年昭和51年)3月31日をもって市電を廃止しました。
その後紆余曲折がありましたが、地下鉄南北線が開通し、今となっては当たり前のように走っています。そして今月6日には地下鉄東西線も開業しました。 東西線の利用者数について6日と7日しか公表しませんでしたが、この前6日から13日までの8日間の利用者数を発表しました。
一日の平均利用者数は64,837人で、予測の80,000人の8割の利用となっています。平日の利用者数は大体50,000人台で推移し、平均が64,837人となったのは6日の開業日の利用者が112,500人と予想以上に多かったためです。
個人的な感想を言えば、思ったよりも利用者は多いなと思います。 近くの国際センター駅や川内駅は学生の利用が多いから、結構多いなと感じたのでしょうか。 話しが逸れてしまいました。
1976年・昭和51年に撮った白黒の写真が出てきました。 3月31日、つまり最終日の市電の雄姿です。 花電車も走りました。 花電車、懐かしいですね。 なんかの記念日には花電車が走りました。 小中学校へ通う時にいつも市電が走る姿を見ていましたので、どうしても愛着が出てしまうのでしょう。
「まるみつ」デパートです。
この車は何でしょうか? 40年前か?
今は「さくらの」ですね。
下の①から③の写真は勾当台公園が背景となっています。左側が市役所で、右側は東二番丁通りとなります。 当時は今のように直線に近い道路とはなっていなくて、東二番丁に行くにも左にカーブしてから右に入ることになります。
①
右奥の高い建物は国の合同庁舎でしょうか。
②
この車は何?
ちょっと坂になっています。樹木の区報の建物も国の合同庁舎です。
③
こうやってみると、車は少ないじゃないか!!本当に多かったのか??と思ってしまいます。