(河北町立大川第一小学校)
きのう3月11日、認定NPO法人「カタリバ」の主宰で、二女(旧大川小学校6年生のみずほさん)を亡くした佐藤敏郎さんが、オンラインの防災授業をしたそうです。
(写真は、私が実際に行って、見て、撮ってきた大川小学校です。初めて行ったのは、2011年10月下旬です。七か月後のようすです。)
それがHUFFPOST日本版に掲載されましたので、私からも改めて紹介させていただきたいと思います。
10年前の東日本大震災での最大の悲劇といっていい大川小学区での惨劇は永遠に語り継がれなければならないと思っています。この拙いブログでも微力ですが、紹介させていただきたいと思います。
『泥だらけの子供たちが何十人もブルーシートをかぶせられて並べられていました。うちのみーこも、その中にいて、名前を叫んで肩を揺さぶっても目を覚ましませんでした。ブルーシートをかけられていた子、皆、知ってる子でした。その光景は忘れられないし、忘れてはいけないんだと思いました。このことを何て伝えたらいいか、まだ私も受け止め切れていないです。だから、それぞれが想像できる範囲で考えて受け止めていただけたらなと思っています。』
『地震から51分経っているんです。何とかならなかったのかなって。裏の山に走っていけば間に合いました。宮城県には津波が来るという情報もありました。時間も情報も、手段もありました。でも、助けられませんでした。これが大川小学校でのあの日起きたことです。』
(裏山です)
『私たちもたくさん調べました。調べれば調べるほど、あの時、学校はパニックになっていたんです。私も、自分の勤めていた学校のすぐ下を津波が流れて行って、パニックになった。ならない人はいません。』
『「予想していなかった」といった子がいましたが、予想はされていました。津波が来るぞということは予想されていた。予想されていたのに対策は不十分だったんです。でも例えば、今後、南海トラフ地震が来ると予想はされていますね。でも本気になって準備はしていますか?』
『いざという時にパニックになる。みんなそうです。パニックになっていない時に、準備をしておかないといけないいんです。何もない、落ち着いている時にちゃんと準備をしているかどうか。していた学校は助かりました。』
『平和な時ってみんな気づかないんです。震災後に改めて思いました。あの日大事だと思ったことは、今日も、いつも大事だということです。飲み物、食べ物、寝る場所は、震災後だけじゃなくて、今も大事ですよね。空気と同じ。でも失ったときに気付く。それでは遅いんです。大事なもの、、見えにくい、気付きにくいもの。命はその最たるものだと思います。』
『「もしもは、いつもの中にある」この10年間で気づきました。何事もない時に同準備すればいいのか。避難するっていうことは、この宇井ら山をちょっとだけ登ればよかっただけのこと。大事なのはいざという時に、避難するそのスイッチを入れやすくなっているかどうかなんです。』
『「校門を出て津波に向って行った時、娘はどんな顔をしていたかな」って想像します。怯えていたと思います。自分たちもそこにいると考えてください。それが想定です。私も津波のいろんな訓練もしました、準備もしました。でもその準備の中に、私は娘を想定に入れていませんでした。』
『今日、お話を聞いたその中に、自分や自分の大事な人がいると思ってください。だから防災っていうのはそれを助けるということ。防災は恐怖ではない。助かるためにやるんです。希望です。ハッピーエンドです。津波は襲ってくる、でも皆さんは助かるんです。避難訓練も、自分や命を守ることを思ってください。今日の授業を聞いている先生たちも大勢いますね、すぐスイッチが入れられるように本気になって準備してください。』
大川小学校は2011年の10月ですが、南三陸町の防災庁舎に行ったのは2011年6月下旬でした。
3・11が過ぎたので、私はこれから折に触れて自分なりに10年前の大震災について考えていきたいと思っています。お付き合いください。
今朝の広瀬川の定点観測・撮影です。