鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

あったかいけど、

2021-01-16 14:14:54 | 思いつくまま

 

今日は天気予報通り気温は上がりました。でも10度を超えるという予報に対して、目下のところは午後0時16分の9.0度が最高気温ですか。最低気温は深夜の1.4度です。日中は氷点下にはなりませんのでいいですねえ。ここ3,4日は助かります。

 

でも、日差しが差したのはほんの少しだけで、あとはどろーんとした、重苦しい冴えない天気となっています。まあこの気温の状態では雪が降るということはないでしょう。日陰のあまり人が通らない道には凍った雪がまだ残っています。

 

残念なことがありました。作家の半藤一利さんが12日に亡くなりました。90歳でした。まだ長生きしてほしかった。瀬戸内寂聴みたいに長生きして、社会にらみをきかせ、ご意見番として活躍し続けてほしかった。

 

戦前戦中の歴史に詳しい昭和の語り部としてもっと生きていて欲しかったですね。戦前戦中をよく知る人たち、戦争の惨禍を熟知しているからこその発言をしてほしかったですね。

 

私も半藤さんの本を3,4冊は持っているし、私としては珍しく大体は読んでいます。読みやすいのです、とっても。文章が語り聞かせるような、難しいことも柔らかくかみしめて分かりやすい形にして語りかけてきます。

 

”長州の独裁者”がやりたい放題なことをして日本を危険な方向に導いていってしまったし、その後を引き継いだ”東北の99代目”はまさに恥さらし真っ最中ということで、またしても長州の独裁者が出てくるかもしれないという状況では、戦前戦中のことを口を酸っぱくして発言し続ける必要があるのに、残念です。

 

 (きれいに水面に映っていました。)

14日の朝日新聞の記事です。「語り部の根底には、14歳当時の東京大空襲の体験」があり、「無謀な戦争に突き進み多くの犠牲を生んだ日本近現代史の解明と、記憶の継承を生涯の原動力とした。」

 

  (180度回転してみました。おかしくない感じ)

取材執筆を手伝う中から、「旧軍人が自慢話や弁解に傾き、責任を回避しようと証言を曲げる様から歴史の教訓を得た。」

 

「司馬遼太郎は、半藤さんによれば『正史に恥ずべき、ヘドの出るような昭和の人物像は対に書けなかった』」「司馬さんが描かなかった『怨念や憤怒や嫌忌』を引き受け、戦争の問題を考え続けた」

 

そういわれればそうなんですね、司馬遼太郎は歴史の表舞台で活躍した人物を描くのは得意でしたが真逆の人物については、書こうとはしたようですが、遂に書けなかったようです。私も彼の言説を読んだことがあります。

 

本当はノモンハン事件を描きたかったようなのです。そのために資料もいっぱい集めてはいたのですが、とうとう書かないまま亡くなってしまいました。司馬が書いたとしたらどのようなノモンハン事件になったのか、想像するだけでも興味がわくのですが、でも結局は書きたくても書けないままに終わってしまったのでしょうね。

 

翌15日の朝日新聞には、ノンフィクション作家の保坂正康さんが長い文章を書いていました。興味のあることをいろいろ教えてくれています。

 

半藤さんは、「絶対」という言葉を原稿では使わない、「大東亜戦争」など戦前の価値観に基づく言葉も使わないようにしていた、ということです。それは”ものを相対的にみる視点”を明確に持っていたからだと。

 

お互いに、歴史を演繹的にではなく、鈍重ではあるけれども、帰納的に見ていこうという姿勢で二人は一致していたとか。そして抽象的な概念を嫌い、自分の手で触ったものだけを信用する人だったようです。

  

保阪さんは最後の方でこう言っています。

「死んだらダメだよ。言論界の地図が変わるから」と言っていたのに。

「近代日本が犯した多くの誤りを書き残していかなきゃいけないと遺言のように言っていた。」

「いろんな国に迷惑をかけたことの歴史的総括をやっておかないと日本は信用されない、と(言っていた)」

  

本当に惜しい人を亡くしました。   ご冥福をお祈りいたします。

 


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