きのうは午後から定例の会議があり、その後夕方から忘年会となりました。 ウナギ料理がメインの学区内の店で開きましたので、美味しく飲み美味しく食べてきました。 そのためか8時前に帰宅したのですが、すっかり酔ってしまって、コタツで2時間ほど寝てしまいました。 気持ちがいいものですね。
(午前11時6分頃)
(飛行機雲と黒雲)
そして、きょうの最高気温はラジオによると 13.5度 とか。(その後のラジオでは14.2度と言ってました。) 道理で過ごしやすかったはずです。 午前中10時から学区内の新年祝賀懇親会の第2回の実行委員会があり、自転車で往復したのですが、空気の感触は全くといっていいほど寒くは感じませんでした。
少しは寒さにも慣れてきたようです。
きょうは12月11日です。 月命日、あの日から3年と9日月が経過してしまいました。 今県内では、震災遺構として各市町で何を残すか議論がおこなわれています。
また、巨大津波の犠牲になった幼稚園児や大川小学校の児童の家族、また銀行の家族等が、なんで肉親は津波で死ななければならなかったのか、その原因究明を求めて裁判を起こしています。
2つとも大変興味がありますし、きちんと整理して後世に伝えなければならないものと自分なりに考え、新聞記事等を切り抜いています。
南三陸町の防災庁舎は、町としては町民の意思として解体するという方針が出されていますが、解体には反対し、これこそ後世に残しておくべき貴重な震災遺構だという意見が、町内にもありますし、町外からの保存の声が強いため、庁舎はまだそのままとなっています。
私の考え方は去年のブログにも書いた通りこれこそ是非とも保存すべき遺構であるという考えに変わりはありません。 もっといえば絶対に遺すべきだと強く言いたいです。(2013年9月21日のブログです。画面左側の縦枠の中ほどにある”バックナンバー”から検索してください。)
石巻市立大川小学校の悲劇についても検索してみると結構このブログの記事にしています。 この件についても過去記事を検索して欲しいのですが、とくに2012年3月21日と22日の記事、同年7月11日、2013年では8月18日・10月11日・10月12日・10月25日・12月11日、2014年3月12日・11月11日等の記事を改めて見ていただけたら幸いです。
その大川小学校の動きですが、今月6日に東京の子どもの権利のための国連NGO「DCI日本」が開催した、子どもの権利条約批准20周年記念集会において、大川小学校の卒業生6人が意見を発表しています。
紹介するのは地元の河北新報と朝日新聞の7日の記事です。 6人は大震災当時5年から中学2年で、現在は中学3年から高校3年となっています。
6人は約1年間、「ここねっと発達支援センター緊急子どもサポートチーム」(仙台市の団体)の支援を受け、自分たちの思いを話し合ってきたということです。その結果、保存への思いを高めてきたといいます。 集会(セミナー)では、あの日を語り継ぎたいとの思いから、被災した校舎の保存を訴えたそうです。
(今午後2時42分です。あと4分で2時46分を迎えます。)
3人の発言が2つの新聞に掲載されています。
6年だった妹を亡くした佐藤そのみさん(現在高校3年)は
、『映像で伝えるのは簡単だけど校舎があるのとないのとでは伝わり方が違う。風化させてはいけない』(朝日)
『解体を望む気持ちは分かる。・・・。校舎にはつらい記憶だけでなく、残された子たちや私たち卒業生、犠牲になった74人の子の夢と思い出が詰まっている。 今を大事に生きなさい(と奮い立たせてくれる気がする)』(河北)
5年だった妹を亡くした紫桃朋佳さん(現在高校2年)は、
『思い出の校舎がなくなるのは大川っ子として黙っていられない。見るだけで学べる場所にしたい』(朝日)
『生き残った私たちが大川小での思い出や起きたことを伝えていくことが大切。 そのために校舎を残す必要がある。あの校舎を見て、地震や津波の恐ろしさを感じてほしい』(河北)
3年だった妹と母、祖父を亡くし、自身も津波に巻き込まれ九死に一生を得た只野哲也さん(現在中学3年)は、
『なぜ命を守れなかったのか。忘れないためにも校舎は残して』(朝日)
『助けられるはずの命がなぜ助けられなかったか、大人も一緒に考えてほしい。 校舎を残して後世に伝え、自分たちと同じ思いをする子どもがいなくなるようにしたい』(河北)
ちょっとびっくりしたのは、3日くらい前の女性週刊誌の新聞広告の見出しです。 確か大川小学校の校舎を解体して、付近を公園にする計画があるとか。 なだこれは!と言ってしまいました。 週刊誌を立ち読みすればよかったのですが、誰がどういう意図で解体して公園にすると言い出したのか?
付近を公園にするのはいいとしても、被災した大川小学校は貴重な震災遺構として後世に残すべき建物です。そう思います。 これは南三陸町の防災庁舎も同じです。 宮城県として絶対的に保存して残すべき建物は、この2つの建物こそ残すにふさわしいと考えます。
そして巨大な防潮堤に巨額の予算を使うのであれば、この2つの建物の保存にこそ十分の予算を手当てすべきです。 それでなくても悲しいことですが、否応なく記憶は風化していくものです。 全国からの知恵を募集してでも、震災遺構として残し、そのためには周囲の環境をどうしたらいいか叡智を募るべきです。
鎮魂と慰霊のメモリアルパークとし、県外からも追悼に訪れる人たちが多くなるようにすべきと考えます。