今週からアフリカを始め、イスラム教徒の断食月、ラマダンが始まった。
(ダカール市内、グラン・モスケ)
昨日の大相撲の取り組み。エジプト出身の大砂嵐が、ラマダンを実践しながらの出場。夜明け前の2時におにぎりとヨーグルトを食べて以降、取り組みまで何も飲まず、食わずで出場し、なんと白星を飾ったことが話題になっている(→Yomiuri online)。
私もセネガル在任時代、soridariteと称して2シーズンほどラマダンをやってみた。仕事中はもちろん、週末、セネガル人とテニスを激しくする時にも、相手と同じ条件で、炎天下の中、朝から日没まで、水も飲まずに耐えてみた。
はじめはきつかったが、そのうち食べる、飲むの選択肢がなくなると、比較的心が穏やかになるのが自分でもわかった。
ところが。
わたしのセネガル人の友人、ババカルが、海の向こうに浮かぶマドレーヌ島を遠く見つめながら私にいう。「いいか、ンボテ。ラマダンは欲を断つところから始まる。だからラマダン中は女を目で追ってはいけない。そういう目で見みてもいけない。わかったか。」
(沖に浮かぶマドレーヌ島)
サイサイ(ウォロフ語で「女好き、プレイボーイ」の意味)のセネガル人がホントにここまでやってるのだろうか?と疑問がよぎったが、少なくとも私には男のサガで、実践不可能だった。そのうち、この部分はsoridarite示すイミを全く感じず、ルールを無視させていただくことにした笑。
しかしそんな縁があってか、毎度のコリテ(ラマダン明け)や犠牲祭には、いつもセネガル人の友人宅に招いてもらった。羊を捧げ、解体にも参加させてもらった。もちろんノンアルコールだ笑。
アフリカ人ムスリムの敬虔度についてはいろいろな言われ方があり、一様に表現するのは難しいが、概してみんなとても熱心である。私はアフリカ以外のイスラム圏を以前仕事で担当し、足を運ぶこともしばしばだったが、そこと比較しても、アフリカのムスリムは総じて熱心であるといえる。もちろん酒場にいけば、飲んでるの、ラリっているのと、いろいろいるが、多くのムスリムは真面目で真剣だ。
一日五回のお祈りは必ずする。一時職場を離れてもお祈りする。金曜午後は当然の権利とモスクへ行き、仕事の生産性が下がろうとも、慣習と言い切る。出先でもペットボトルの水で手足、口を清め、神に祈る。酒は飲まない。ブタは食べない。ラマダンを実践し、犠牲祭を祀る。そして家族法は戒律に従う。
ただこれも、若い時にはグレたり、反抗したりで、酒に走り、戒律を無視することも当然あるそうだ。しかし年齢とともにその価値を見出し、熱心に信仰に入っていくという。
宗教に熱心だからといって、決して排他的ではない。アフリカ人どおしが宗教観で対立し、他人の宗教を冒涜し、争うということは、本来ほとんどない。報道やモノの整理では、アフリカは部族や宗教で戦争ばかりしている、というような論調のものも見かけるが、過去ログ「風評被害」でも述べたとおり、それがすべてではない。一部歴史の経緯でそういう不幸なこともあるが、おおかたは宗教や部族の違いを超えて、互いに尊重し、助け合って生きている。犠牲祭にはムスリムはクリスチャンを招き、クリスマスはムスリムも一緒に過ごす。それが私の見るアフリカの姿だ。
他方、日本人の感覚で、宗教がそんなに大事なのか、宗教に熱心になりすぎるのはどうか、イスラムの価値観は現代社会とずれているのではないか、というような議論を持ちかけたりすると、人は豹変し、激しく反論が始まる。以前、「アフリカ人との接し方」の記事で書いたが、アフリカ人にとって宗教は家族の次に大切な価値観。それを安易に議論してはいけない。それが私の教訓でもある。
今年もラマダンを迎え、当時の思い出が蘇る。今頃、西アフリカの仲間たちはラマダンに入った頃だろう。そして私もラマダンしなければ、と駆り立てられる。しかしその意味は、宗教観でもSolidariteでもなく、別の意味あい。・・・そう、ダイエットだ。なんて考えているヌルい自分がここにいる。
「ラマダンに思う」、次回はラマダン明けの祀り「コリテ」で、コリずに、お会いしたい。
(ダカール市内、グラン・モスケ)
昨日の大相撲の取り組み。エジプト出身の大砂嵐が、ラマダンを実践しながらの出場。夜明け前の2時におにぎりとヨーグルトを食べて以降、取り組みまで何も飲まず、食わずで出場し、なんと白星を飾ったことが話題になっている(→Yomiuri online)。
私もセネガル在任時代、soridariteと称して2シーズンほどラマダンをやってみた。仕事中はもちろん、週末、セネガル人とテニスを激しくする時にも、相手と同じ条件で、炎天下の中、朝から日没まで、水も飲まずに耐えてみた。
はじめはきつかったが、そのうち食べる、飲むの選択肢がなくなると、比較的心が穏やかになるのが自分でもわかった。
ところが。
わたしのセネガル人の友人、ババカルが、海の向こうに浮かぶマドレーヌ島を遠く見つめながら私にいう。「いいか、ンボテ。ラマダンは欲を断つところから始まる。だからラマダン中は女を目で追ってはいけない。そういう目で見みてもいけない。わかったか。」
(沖に浮かぶマドレーヌ島)
サイサイ(ウォロフ語で「女好き、プレイボーイ」の意味)のセネガル人がホントにここまでやってるのだろうか?と疑問がよぎったが、少なくとも私には男のサガで、実践不可能だった。そのうち、この部分はsoridarite示すイミを全く感じず、ルールを無視させていただくことにした笑。
しかしそんな縁があってか、毎度のコリテ(ラマダン明け)や犠牲祭には、いつもセネガル人の友人宅に招いてもらった。羊を捧げ、解体にも参加させてもらった。もちろんノンアルコールだ笑。
アフリカ人ムスリムの敬虔度についてはいろいろな言われ方があり、一様に表現するのは難しいが、概してみんなとても熱心である。私はアフリカ以外のイスラム圏を以前仕事で担当し、足を運ぶこともしばしばだったが、そこと比較しても、アフリカのムスリムは総じて熱心であるといえる。もちろん酒場にいけば、飲んでるの、ラリっているのと、いろいろいるが、多くのムスリムは真面目で真剣だ。
一日五回のお祈りは必ずする。一時職場を離れてもお祈りする。金曜午後は当然の権利とモスクへ行き、仕事の生産性が下がろうとも、慣習と言い切る。出先でもペットボトルの水で手足、口を清め、神に祈る。酒は飲まない。ブタは食べない。ラマダンを実践し、犠牲祭を祀る。そして家族法は戒律に従う。
ただこれも、若い時にはグレたり、反抗したりで、酒に走り、戒律を無視することも当然あるそうだ。しかし年齢とともにその価値を見出し、熱心に信仰に入っていくという。
宗教に熱心だからといって、決して排他的ではない。アフリカ人どおしが宗教観で対立し、他人の宗教を冒涜し、争うということは、本来ほとんどない。報道やモノの整理では、アフリカは部族や宗教で戦争ばかりしている、というような論調のものも見かけるが、過去ログ「風評被害」でも述べたとおり、それがすべてではない。一部歴史の経緯でそういう不幸なこともあるが、おおかたは宗教や部族の違いを超えて、互いに尊重し、助け合って生きている。犠牲祭にはムスリムはクリスチャンを招き、クリスマスはムスリムも一緒に過ごす。それが私の見るアフリカの姿だ。
他方、日本人の感覚で、宗教がそんなに大事なのか、宗教に熱心になりすぎるのはどうか、イスラムの価値観は現代社会とずれているのではないか、というような議論を持ちかけたりすると、人は豹変し、激しく反論が始まる。以前、「アフリカ人との接し方」の記事で書いたが、アフリカ人にとって宗教は家族の次に大切な価値観。それを安易に議論してはいけない。それが私の教訓でもある。
今年もラマダンを迎え、当時の思い出が蘇る。今頃、西アフリカの仲間たちはラマダンに入った頃だろう。そして私もラマダンしなければ、と駆り立てられる。しかしその意味は、宗教観でもSolidariteでもなく、別の意味あい。・・・そう、ダイエットだ。なんて考えているヌルい自分がここにいる。
「ラマダンに思う」、次回はラマダン明けの祀り「コリテ」で、コリずに、お会いしたい。
食いしん坊、飲みしん坊のあみんには、考えられません(^ ^;
インドネシアに駐在しているIちゃんも苦労してるんだろうなぁ……(どこか、他人事(苦笑))
今後とも、どうぞご贔屓に。
あたくしも食いしん坊アンド呑んべいで、とてもラマダンって柄じゃないんですが、私がアフリカにいた時はできちゃってましたよね。環境ってすごいです。
あ、今朝の記事でお待ちかね、アフリカ航空機アルバム載せてます。よかったら、どうぞご覧ください!
たぶん、ほとんど、σ(^_^)限定のアーティクルだと思っていますから(笑)
ネシアのIちゃん、バンコクで会えそうです\(^O^)/