新たな船出となる本部総会(昭和47年11月)で、会長(註…池田会長:当時)は力説している。
「本年より西暦2000年までには、ぜひとも人類の滅亡を食い止めるだけの平和勢力を築き上げておきたい」
それは並々ならぬ決意であった。
その後の会長の行動、ことに国際的活動の軌跡をたどってみるならば、「第一章」とは決定的な違いが、際立ってくる。中ソ両国への友好交流がそれである。
(中略)
同じ本部総会の席上、会長が呈示した「宗教的使命」「人間的使命」という視点は、極めて重要な意味を持っていた。
信仰者としての「宗教的使命」に対して、社会人として果たすべきものが「人間的使命」である。いくら「宗教的使命」といっても、社会的使命を果たしてこそ実現するのだ、というその主張は、人々の目を大いに開かせた。
むろん、文明史的なスケールを持つビジョンである。したがって、なにも社会主義国との交流を肯定するためだけに、持ち出されたわけではないだろう。
しかし、宗教者がめざすのは、単に信仰活動だけではない。平和、文化、教育等にかかわる運動をも使命とすべきである、というからには、自由主義国だけが舞台ではあるまい。当然のことながら、社会主義国の人々との親しいお付き合いも、含まれていなくてはならなかったはずであった。
《吉村元佑著 人間の中へVol.6 池田大作と「生命の世紀」 P.80~81》
…………………………
現在再読している本より抜粋。
私は、この「人間の中へ」シリーズをよく再読するのだが、このVol.6は唯一「第二次宗門問題」後に発売されたものである。
引用させていただいた部分は、創価学会の本質を知る上で重要な内容だと思っている。
理屈ではなく「悲しむ民衆を生み出さない」ために奔走された池田先生を”師匠”とするからには、それを我々の上に具現しなければ意味をなさない。
「正しい信仰」をしているからこそ、「正しい行動」がある。
逆に言えば、「正しい行動」がなければ、「正しい信仰」とは言えないのである。
その「正しい行動」とは何か。
様々なことは言えると思うが、はっきり言えることは「唯受一人血脈の御法主上人猊下を尊敬申し上げる」といったことではないということだ。
権力に随従することは、決して人間主義とは相容れないのである。
「人間の中へ」シリーズは、学会の歴史を知る上においても是非とも読んでいただきたい本である。
「本年より西暦2000年までには、ぜひとも人類の滅亡を食い止めるだけの平和勢力を築き上げておきたい」
それは並々ならぬ決意であった。
その後の会長の行動、ことに国際的活動の軌跡をたどってみるならば、「第一章」とは決定的な違いが、際立ってくる。中ソ両国への友好交流がそれである。
(中略)
同じ本部総会の席上、会長が呈示した「宗教的使命」「人間的使命」という視点は、極めて重要な意味を持っていた。
信仰者としての「宗教的使命」に対して、社会人として果たすべきものが「人間的使命」である。いくら「宗教的使命」といっても、社会的使命を果たしてこそ実現するのだ、というその主張は、人々の目を大いに開かせた。
むろん、文明史的なスケールを持つビジョンである。したがって、なにも社会主義国との交流を肯定するためだけに、持ち出されたわけではないだろう。
しかし、宗教者がめざすのは、単に信仰活動だけではない。平和、文化、教育等にかかわる運動をも使命とすべきである、というからには、自由主義国だけが舞台ではあるまい。当然のことながら、社会主義国の人々との親しいお付き合いも、含まれていなくてはならなかったはずであった。
《吉村元佑著 人間の中へVol.6 池田大作と「生命の世紀」 P.80~81》
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現在再読している本より抜粋。
私は、この「人間の中へ」シリーズをよく再読するのだが、このVol.6は唯一「第二次宗門問題」後に発売されたものである。
引用させていただいた部分は、創価学会の本質を知る上で重要な内容だと思っている。
理屈ではなく「悲しむ民衆を生み出さない」ために奔走された池田先生を”師匠”とするからには、それを我々の上に具現しなければ意味をなさない。
「正しい信仰」をしているからこそ、「正しい行動」がある。
逆に言えば、「正しい行動」がなければ、「正しい信仰」とは言えないのである。
その「正しい行動」とは何か。
様々なことは言えると思うが、はっきり言えることは「唯受一人血脈の御法主上人猊下を尊敬申し上げる」といったことではないということだ。
権力に随従することは、決して人間主義とは相容れないのである。
「人間の中へ」シリーズは、学会の歴史を知る上においても是非とも読んでいただきたい本である。
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