志情(しなさき)の海へ

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書きたいことはいろいろあるが、【脈】72号の評論「否定知識人たちの祭り」宮城正勝が面白い!

2011-01-12 01:05:18 | グローカルな文化現象
いきなり「沖縄の映画と言えば、面白い評論があったな」と詩人が言った。「宮城は鋭いからな。あいつが言う事は本当だよ」と言う。何事かと聞くと、どうも比嘉加津夫が発行している【脈】という雑誌の事らしい。手元に送られてきたのらしい。

読んでみるとたまにメールを交換する世良利和氏の琉球新報の【落ち穂】に書いたエッセイの中身を紹介し、イントロにした文章で、『沖縄映画論』(四方田犬彦、大嶺佐和編、作品社、2008年)を切っている。

中江祐司の映画がポコポコにされたという事から2007年に明治学院大学で開催された「沖縄から世界を見る」(東琢磨、仲里効、大嶺佐和、越川芳明、新城郁夫、高嶺剛、四方田犬彦)を読み解いていく。つまり高嶺剛は【絶対視してべた褒め】で「ナビィの恋」や「ホテルハイビスカス」の中江祐司は盗人か犯罪人のようにこきおろされている、という事を問題にしている。

普段から思想で社会が変ったことなどない、と言い切る詩人の思いに呼応するところがあったのだろう。思想なんて犬に喰わせろか?しかし歴史は思想史でもある。その総体の流れはある振り子のように行きつ戻りつする、つまり弁証法的な思念の流れを意識せざるをえない。アリストテレスからサルトルの弁証法、アドルノの否定的弁証法とあるのらしいが、私は自身が学んだ世界の演劇史の流れの中に弁証法を認識しただけのこと。究極的には「何が真実かの問」が永続してあるということに至るだけだがーー?

さて宮城正勝さんの論評の末尾を引用しよう。「この人たちは現在(消費資本主義社会)における「政治と社会の矛盾」や「天皇制」や「権力」の捉えどころのなさ、輪郭のなさ、リアリティーのなさと、その根源が同一であるところの、人びとが抱いている不全感、恣意性、抑圧感に思いを致したことはないに違いない。半世紀以上も前の名辞を鸚鵡返しにするだけで、「矛盾」や「天皇制」や「権力」の現在形といった自動化した言葉が飛び出してくるのだ。
 人々の生きた時間への視点を欠いた、否定知識人たちのラジカリズムほどうっとうしいものはない」

確かに面白い評論だった。ざっと読んで、つまり固定概念にとらわれている、いわゆる大学などを中心とした知識人層の観念の偏り、化石化された思念のゴリゴリが文化現象をしっかり見据えることができない、と言いたいのかと感じた。なるほど!です。
「てぃだかんかん」の映画の中でいわゆる学会に属する知識人層が、ただ海が好きで珊瑚の移植によって珊瑚を救う実践的活動をする男性をデータ―がないと笑いはじいていた場面を思い出した。すなおに作品を味わう。すなおに時代の現象を見る眼が曇ることは、論によって対象を分析する方法論にがんじがらめにされる「知のフレーム」の問題もあろうかと思った。

いろいろ考えさせられる論稿である。素の眼が常に必要だということなのだろう!面白いのは面白い。いいいのはいい。そしてやはり真実の在り処が問われる。100%の真実はない。常に100%に近い真実の追求か?50%かもしれない。

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