志情(しなさき)の海へ

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「まあだだよ」の映画を途中から少し見た。内田百の人柄と子弟の交流が何ともいい味わい!

2010-12-29 23:18:08 | グローカルな文化現象
何も書きたいことがなく?惰性で聞えてきた黒澤明の最後の映画だという作品について少し検索したら以下のいいエッセイがあったので、張りつけることにした。映像を少し見ていて、また聞えてくる台詞や歌(仰げば、尊し)に心がひかれていた。今日恩師から電話があった。師の声に聞き入りながら懐かしい学生時代の事が思い出された。あの頃よくご自宅に訪ねたり、いっしょにいろいろな雑談に興じたものだった。博士論文を書くために師が収集していた多くの文献資料カードを整理したこともあった。そうすることによって学問の方法をあえて教えてくださっていたのだと今は理解している。大学の学問が、生活の場と落差があることなどについても、疑問なども覚えていた政治の嵐の頃の学生時代である。

映画を垣間見て思ったのは、恩師と学生たちの交流のよさである。ああ70歳を超え、80歳になっても恩師といっしょに食事をしてお酒をのみ語りあう空間はいいものだなー、こんなにも教え子たちに慕われる彼は幸せな人だ!今頃はもうこんな姿はどこにもないのかもしれない。ふと、恩師の先生方をご招待していっしょに語りあえる場を持ちたいなどと思った。何歳になっても恩師は恩師である。そう、今からでも遅くはない。70代、80代の恩師の方々の今の声に耳を澄ましてみたいと思う。

恩師の瀬名波先生のお声は変わらない。沈着そのもの、英国大使も関心をもっているのらしい事柄ー沖縄にイギリス協会(友好協会)を設立したらどうか、という以前から持ち上がっている事柄について、対話がはずんだ。確かにアメリカ一辺倒のきらいがある沖縄である。文化関連の研究や協会もアメリカが中心!しかし、アメリカの歴史は浅いのである。浅いですからねとお互いにことばに出していた。でもスナイダーにしてもロマン派だからね、とのことばもーー。英国大使が沖縄に関心を持つ根拠は何だろう。スコットランドやウェールズやアイルランドも含め、ケルト文化と沖縄の比較研究をしたいと思っていることもあって、英国との連携はまた新たな視座を与えてくれそうである。

アメリカの研究者が自己研鑽のために訪問する国々はヨーロッパだよ。日本に来るのも少ないね、との事。アメリカに留学する日本の若者も少なくなってね、と話は続く。ヨーロッパの歴史は奥深いのである。

瀬名波先生がお元気でおられることが次の新たな展開を生み出すのだろう。イギリス研究は政治学、歴史、言語、文芸、経済、文化史と広い。島袋純さんなどもスコットランドから多くの示唆を得ているような話しぶりだった。わたしなども今だにシェイクスピアの比較受容研究をまとめたいと考えている。それとウェールズには是非行きたいと考えている。湖水地方も。また再びベケットやジョイスが生まれたアイルランドにも行きたい。アラン島にも。ああ、きりがないなー。とにかくアメリカに押しつぶされそうな沖縄だが、より歴史の古いヨーロッパ、なかでも英国やアイルランドなどとの交流を密にすることの豊かさはそこに待ち受けていると思えるーー。フランス、ドイツ、イタリア、スペインもそうだが、アメリカの対極にあるヨーロッパでもあろうか?

ところで黒澤明があえてなぜ内田百を取り上げたのかは分からない。映画も最初から丁寧に見ていたわけではない、ただ「まあだだよ」「もういいかい」の口調に惹かれていた。逝くのは「まあだだよ」のニュアンスにユーモアを感じたからなのかもしれない。内田は優れた作家でとてもいいエッセイを書いた人なのだと詩人が言いきった。その人柄の暖かさ、師を慕う子弟の人柄がほのぼのとしていた。こんなのもいいなー。恩師の家に押し掛け一緒に酒を飲み食事をする。今はもうなくなった風景かな?取り戻せるなら取り戻したい人と人の関係のありようである。

***************(以下は転載コピーである!)

黒澤明「まあだだよ」の教育論

-内田百の人間力と教育のあり方について-


 

イジメが日本中の教育現場に蔓延し、子供たちの自殺が深刻な問題となっている。何故、こんなことになってしまったのか、考えていると、ふと黒澤明の映画「まあだだよ」(1993年)の一場面が浮かんできた。

ある日、年老いた先生が学校を退任すると、子供たちの前で宣言をする。するとひとりの教え子が先生に向かって、このように言う。
「学校の先生をやめても、先生は先生です。僕のオヤジも、この学校の同窓生だったオヤジの友達も、今もって先生のことを先生先生と言っています。そして先生は金無垢(きんむく)だって・・・」(全集黒澤明 最終巻 「まあだだよ」より 岩波書店 2002年5月刊)

この映画は、教育者から後に小説家になった内田百(1889-1971)の自伝的短編が原作となっている。百は夏目漱石(1867-1916)に師事した人物であるが、やはり師である漱石の影響もあってか、長く教育の現場にいた人物だった。生徒が言う「金無垢」と言うセリフがあるが、これは内田百という人物について、紛れもない「本物の教育者」であるという意味で使用しているようである。

ところが、映画を観ていると、この内田百が、完璧な教師であったかというとそんなことはない。飼い猫ノラが居なくなれば、オロオロと探し回り、東京が空襲に遭い、自分の家が燃えて焼け出されては、為す術もなく、あばら屋で暮らすことになる。むしろ内田百先生は、世渡りが下手で少しも格好良くない。

しかし教え子たちは、そんな人間味のある先生が大好きで、ネコが居ないといっては一緒に探し回り、家が空襲で焼け出された時には先生のために家を確保しようと奔走する。そこには師弟愛から始まった人間同士の温かい交流がある。いつしか先生を中心にした輪のような関係が自然に出来上がっている。大戦という暗い世相のなかでも、必死で生き抜く当時の日本人の逞しさが満ちあふれた温かい人間ドラマだ。

この映画について、黒澤は、撮影後のインタビューでこのように述べている。
「今度つくった『まあだだよ』は、教育のあり方を描いたんです。教育というのは、教室で先生から教わることももちろんあるんだけれども、それだけじゃなくて、先生の人間性そのものから教わることが多いんだよね。それがいまの教育には欠けている。先生と生徒の間柄が、いまは何か水くさくて、先生はサラリーマンみたいだし。・・・昔は、僕らもずいぶん先生のところへ遊びにいったものですよ。入りびたりになっていたくらいでね。」(黒澤明「夢は天才である」文芸春秋社 1999年8月刊)

確かに黒澤の言う通りだ。昔は、先生の家に行き、様々な話をしたものだ。私は高校時代寮生活だったこともあり、先生の蔵書を前に、目の眩むような思いを抱いたこともある。内緒でといって、ウイスキーを戴いたこともある。すべては新鮮だった。

敢えて分かり切ったことを言うならば、偏差値の高い学校に入ることが、教育の目的となってしまった昨今の教育は、一種のサービス産業に成り下がってしまったのである。教育は、サービス産業とは明らかに違うはずだ。教育本来の目的は、見識ある人間がこれから社会を支えようとする人間に対し以心伝心(いしんでんしん)で伝えられる何かである。以心伝心とは、心をもって相手の心に直接伝えるもの。それが教育の原点である。

ところが昨今では、偏差値の高い学校に入れることが、教育の本分となってしまった感がある。その結果、必要のない学科は当然のようにしてどんどんと省かれてしまう。最初に省かれたのは「道徳」だった。最近では「世界史」の未履修問題が世間を賑わしたが、受験テクニックを中心とせざるを得ない詰め込み教育というものは、親のエゴと文科省のリーダーシップの欠如の結果とはいえ、実に情けない話である。

現在のように、現場の先生方が、受験やら何やらで、そんな時間が取れないと、本気で思っているならば、変えるしかない。そのような余裕のない教育の現場で育った子供たちの将来の人間としての伸びしろ(成長力)も、たかが知れているというものだ。独創性のある子供たちは、そんなところからは決して出ては来ないであろう。

私たちは、黒澤がシンプルに指摘したように、子供達が、先生の人間性や人柄から自然な形で教わる以心伝心の機会をつくってあげるべきではないだろうか。そのためには、先生の方でも、子供たちに人間味で教えられるような「金無垢の先生」になってもらうような努力が必要となる。



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2006.11.20 佐藤弘弥


<写真は沖縄芝居「五人の母」より>

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