
(桜坂で見つけたシーサーは煙草を吸っている!煙草は大嫌いだ!喫煙所や喫煙室の前にこんなシーサーがあったら、近づかない・近づくサインになるね!うしろの寝そべっている猫に注目ですね。猫は煙草の害を受けないのだろうか?)
【つぶやき】先日、知人、友人とランチユンタクをした。
ふじたあさやの講演会に参加し、世界各地からの参加者に混じって児童演劇についてのトークに参加したのらしい。沖縄から一人!地域とのセッションが弱いね、と一言でした!来年はアジアを中軸テーマに広島や山口など、他府県に広げるとのことを話していた。問題は「なぜ沖縄なの?」の問いに実行団体の主体がはっきり明示できないことだと、知人の弁である。
なぜ沖縄から参加者が居ないの?の問いに参加者が視線を向けたのは、リッカリッカの総合プロデューサーだったという。なるほどー。地域を取り込めないリッカリッカ?ここしばらくほとんど見る機会がないのでー。児童演劇としての純化された舞台が増えているのかもしれない。児童演劇、子供演劇とは何か?ですね。沖縄の現在なり現況と演劇との結び付き、世界との結び付きが弱いのだろうか?
インターネットが大衆的で、テレビはさらにそうで、映画はちょっと金がかかり、演劇劇を見るということはもっと金が掛る娯楽である。総合芸術の醍醐味は参加した観衆は堪能する。しかし特権的な空間であることは事実である。
ゆえに有識者階層の医療関係の方々(高収入)が、あまり伝統芸能を御覧にならない、という現実にも驚いたが、文化(芸能や演劇)は、ある面、表出する側の演劇人にとっては、自己表現の場であり、発信の場である。いい作品はロングランで社会へのインパクトは大きくなる。例えば「人類館」のような作品は、社会のコアを突き刺したままである。それほどの作品は残るがそうでない作品は残らない。あぶくのように漂い続ける。娯楽と芸術との違いである。いい作品は、2000年以前のBC450年ごろ上演された「オイディプス王」のように、永遠に上演され続ける。世界で!
普遍性を持つ劇作品とは?沖縄の現代演劇でもいい作品は上演される。ただ舞台制作は金がかかるし、パトスが並大抵ではない。新たに生み出される作品も3ステでも500~600人が見ればいい方で、多くの観衆を得ているわけではない。伝統芸能は国立芸場おきなわのキャパが600人で繰返し同じ琉球舞踊や組踊を上演している。中に新作や復活組踊などを織り込んでいる。沖縄芝居や民俗芸能もある。同じ舞踊や同じ作品が繰り返されている。
現代演劇の場合、小劇場や小ホールが目立つ。それが意外と最近は活気がある。高校生が独自の演劇作品を上演している。いいね。大学の演劇部も活躍している。でも目立たないね。学内に留まっている琉球大のテトラなどがある。街に出たら?と話したことがあったが、予算の問題もあるようだ。小劇場をうまく利用してほしい。
さて劇場の拠点ができつつあるところで、そこからいい作品、面白く、実存的で、人間社会の心臓部を突き刺し切開してみせるほどの舞台が登場してほしい。
自分で作品を創造したくなる、刹那の衝動は悪くないね。