吉本隆明は、沖縄の御嶽(うたき)に置いてある三つの石のように、自らの遺影の前に天草から取り寄せた石を三個置いているというがーーー、「死ねば死にきり!自然は水際たっている」の高村光太郎の詩行を賞賛したという。
死ねば死にきりだろうか?故郷の三個の石は死出の道しるべだったのだろうか。出自の地へ回帰していくのは、人の習性、宿命的なものだろうか。父祖の地へ回帰していく心、精神のありか~。故郷の地に抱かれて生涯を終えたい心情は普遍的はものだろうか。
「死ねば死にきり!自然は水際たっている」の自然は水際たっている、は自然、地球、宇宙という膨大なこの時空の中の一粒の塩のような命にとって、個の命が果てた後も亡羊としてこの惑星が存在するゆえに、(あと何億年?)自然の力や美に包摂される一粒であることは確かだ。100年たらずの一個の生命は、空中をよぎる瞬時の光のようなものだろうか。
「死ねば死にきり」は魂の輪廻転生や永劫回帰も涅槃も永遠も信じていないのだろうか。
人の死生観はそれぞれの信仰や宗教により、異なるに違いない。また無宗教や無信仰の者は最も超自然的な力を恐れるべきだという一説をある本だったか詩集で読んだ記憶があるが~、いずれ訪れる死とどう向き合うか、問われている。必然としてやってくる「死」に向き合う恐怖や諦観、希望、安寧、絶望、透明になっていく精神、無意識に漂う身体と精神の総体。
死を見据える魂の震え、身体の痛みを抱えた家族を見つめている。
黄色いカンナの花が公園に咲いていて目を引き付けた!