志情(しなさき)の海へ

かなたとこなた、どこにいてもつながりあう21世紀!世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

『故郷のトポロジー』 by 喜納育江が気になっていたが整形外科で左腕に注射してもらった後一挙に読んだ!

2011-10-11 22:16:30 | 書評
喜納さんのこの本は出版祝賀会の時に手に入らなかった。5日程前に送られてきた。大阪で読もうかと思ったが書物は結構重いので、帰ってから読もうと思っていて、今日、授業の後、整形外科で左腕に注射をしたら少し気分が楽になったので、夕食後一挙に読んだ。

「エコ・クリティシズムコレクション」のシリーズの一冊なので、エコクリティシズムが脈打っている。それで腹いっぱいになりそうだったが、序文の文書のみずみずしさに惹きつけられた。

序章:【場所と居場所と故郷をめぐる一考察:私(たち)はどこにいる】
 グローバルではなくプラネタリーという概念が目を惹く。喜納さんが山里勝己や野田研一が中軸となって提唱している環境文学/エコクリティシズムの後継者、あるいは同伴者だということが分かる。地球全体の営みをエコロジカルな視点から描き出そうとする。「空間」と「場所」のスナイダーの定義も引用される。空間が人間の定住の営みの中で場所へと変容していく。コスモポリタンとしてのアイデンティティーは根ざすからこそ実現される、などのことばもなぜか胸騒ぎを覚える。付け加えて彼女はアメリカのマイノリティーのインディオやチカーナ(チカーノ)文学を研究している。さらなる境域への視野の深まりがまたことばになっている。

ことばは「魂」の依り代、ことばは「風土」の依り代と言い切る詩人がいて、また『風土』という和辻哲郎の優れた書もある。あえてなぜ、環境文学なりエコクリティシズムなのだろか?人間と環境、自然との関係性はすでに古来から小説なりあらゆる創作(表現)の中で表出されてきた。環境やエコロジーはこの地球という惑星の中で特別なナニモノカなのだろうか?すでにマダ―ア―スなり、この地球生命体あっての人間の営みだということは当然の認識でもあると思えるのだが、なぜエコ・クリティシズムであり、エコフェミニズムなのか、その理論的意味付けが単に作品を分析する上の論理的フレームなのかと気にもなった。

序章の最後に次のことばがある。「環境文学が、言葉がないと思われている場所に言葉を見出だし、生命が感じ取れなかった場所に生命の気配を感じ取ることを可能にしてくれる学問であるなら----環境文学の役割を支える無数の物語のひとつになれることを願う」とーー。ただXX文学と括ってしまうところに、文学研究の論理化の罠があり、それを超えた豊かさがまた疎外されてしまうのではなかろうか、と一瞬危惧した。

文学は文学であり、XX文学と差異化したり枠組みを当て嵌めることの狭量さを感じたのもその通りである。それと自然環境のなかで自然に耳を澄まして生きて行くことはもはや多くの人類が疎外された現在である。私の中の自然はすでに本能を矯正された欲望であり、存在のもつ歪みの中にあると考えるゆえに、在る面でもの凄い楽観論にも思えた。

しかし優秀な喜納さんの第一章から第六章までの論稿は、一挙に読ませる文章の柔らかさである。第一章:故郷という居場所、第二章:沈黙に依り添う言葉、第三章:ラ・クローナとリオ・グランデ、第四章:新しい場所に根ざす、第五章:環境としての場所と身体、第六章:淵を居場所とする者たちへ、の中で、第五章と第六章が興味深かった。社会的・文化的アイデンティティーとエコロジカルアイデンティティーの相互構築プロセスという提唱など、なるほどで、【エコフエミニズムが自然と女性という単立した問題についての運動に終始するのではなく、すべての被抑圧者集団の解放を目ざす思想に至る】ということなど、男性中心イデオロギーが支配する父権制、資本主義経済システムの根源にある女性や自然の蔑視・収奪、もその通りに思える、しかしあえて環境やエコーの視点がどう数多の地球的規模の問題に切り込んでいくのだろうか?

文学理論と実際の問題の相互関係は作品から明らかに切り取ってはいるが、それがあえて環境に特化されて論じられることに、どことなく違和感なり差異を覚えているわたしがいる。

最近蜘蛛の詩を書いてみたのだが、「世界は生命が蜘蛛の巣の網のようにつながり合った関係性の総体として存在するものである」と書かれたことばに出合ったとき、「あらっ」と思った。蜘蛛の糸と網がある。餌を得るための網であり、食べるモノと食べられるモノが網を彩っているのも確かなのである。網の世界は一様ではありえない。

存在の基盤にある哀しさ(悲しさ)、バンパイヤのように血を飲み干しながら生きている存在、原罪のような生存(実存)の痛みは感じられなかった。加害と被害、犠牲と権力など、そして崎山多美の論も単にコジャという場所だけに「こだわれないもの」もありそうに思えた。コジャだけにあったわけではない性やエロスの乱反射の闇と光の色合い、あれは何だったのだろう、これは何なんなのだろう?【交感】ということばはなぜか気になることばである。

この本は一気に読ませる論稿が並んでいる。ワクワク感も伴う。淵からの声への感応だけではなく交感するための言葉を求める崎山多美の小説批評も読ませる。

すでにしてあなた(わたし)はことばを紡ぐという意味において淵からはるかに遠い、そして差異もありつづける。ことばの嘘のない表出とはなんだろうか?と考える。わたしは他者で他者化された女を生きている。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。