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遊里跡の探訪録など。
ブログの日時は、行動日・撮影日に合わせております。

高松 内町

2012年03月11日 17時00分00秒 | ◆四国
青線
かつて片町駅前の一画を占めた私娼街。通称は「パラダイス」。


片原駅前の道路に面した建物。もはやなんの店だったのかわからない。

 
こぢんまりとした物件が並ぶ。右は三階建て。

 
狭い横丁にバラック様の二階建てがひしめく。


現役の飲食店が何軒か営業していた。店内からは常連客らしい笑い声が聞こえてくる。

 
二階の様子。建物に比べしっかりとした造りの欄干が印象に残る。


この界隈では堅実に建築された一軒。窓や欄干の装いにひと工夫が見られる。

 
袋小路のいちばん深い場所。腰に施された石の装飾がおもしろい。

東浜恵美須神社

2012年03月11日 16時30分00秒 | ◆四国
八重垣遊廓ゆかりの神社。


鳥居の左の柱に「萬民快楽」と刻まれている。
寺社ではたまに見かけるフレーズだが、場所が場所だけに、別の想像をしてしまう。


玉垣の親柱に「新地」とある。「睦会」というのは当時の組合の名前だろうか。


本殿。


脇の入口。

高松 八重垣

2012年03月11日 15時30分00秒 | ◆四国
遊廓→赤線
昭和5年ごろ、業者数34、娼妓数180
昭和30年、業者数41、娼妓数約100
町の歴史は、高松特殊浴場協会の公式サイト「城東百科」(18歳未満禁止)に詳しい。

高松では雨に見舞われ、傘を片手に、ぎこちない体勢になりながら撮影。
ぶれないように注意していたものの、後で見たら、何枚かピンぼけになってしまっていた。


全面がサイディング張りになっているが、もとは看板建築だったとおぼしき建物。
遺構かどうかは、この状態ではなんともいいがたい。


親子格子を左右に配した和風建築。どちらかといえば花街的なたたずまい。

 
[左]こぢんまりとした外観ながら、三つもの入口を備えた、ある意味贅沢ともいえる構え。
[右]ピンぼけ失礼。玄関の巴瓦は鶴のレリーフになっている。

 
[左]一階のタイル張りが目を引くが、これはオリジナルの意匠ではないかもしれない。
[右]笹の葉と鳥の透かし彫りを施された欄干と、桧垣模様を描く戸袋がおもしろい。


右奥に伸びる和風建築。角地のみを洋風に作り変えられている。
生い茂った庭木が中庭からはみ出している。廃屋化して相当年月が経っているらしい。

 
青みがかったグレーが、建物に落ち着いた雰囲気を与えている。建物の状態も良好。
井桁状の桟をあしらった欄間や、カーブを描く飾り窓など、デザインの工夫が見られる。

 
奇妙な平屋建て。なんの建物だったのだろうか。

以下余談。
写真を撮っていると、とある風俗店から、呼び込みの店員が傘もささずに近づいてきた。
注意されるかと思って身構えたら、予想外の質問。
「あのう、写真撮ってますけど、この建物って何かあるんですか?」
「えっ?」
思わぬ問いに言葉を詰まらせていると、
「いや、じつは午前中にも別の人が撮影に来ましてね。不思議に思っていたんですよ」
「ああ、なるほど」
質問の意図がわかり、町のことを簡単に説明すると、店員は礼を言って店に戻っていった。
雨に濡れながらわざわざ聞きに来たのが印象的だった。
写真を撮る人がよほどめずらしかったのだろう。
午前中に来たという撮影者氏は、ひょっとすると、今朝秋田町で会った同好の士かもしれない。

鳴門駅東口

2012年03月11日 11時30分00秒 | 風景・街
地図をチェックしていると、鳴門駅の東側に気になる飲み屋街を見つけた。
青線だった可能性はあるだろうか。


撫養川に面した建物群。古い飲食店が並んでいるが、妖しいムードはない。

 
昭和の残り香を強く感じさせるスナック。入口の石造りが特徴的。

 
トタンの錆び具合が格別。柱には黒い豆タイルが貼られている。
レトロな景観は好みだが、期待していた青線のような雰囲気は感じられない。


カフェーのような造りの玄関まわり。

 
奥へ進むと意外なものが。着物を展示したショーウィンドーがとてつもなく浮いている。

 
[左]鳴門駅のロータリー前。このビルにもいくつかの飲食店が入っている。
[右]ビルは通り抜け可能。通路の奥に、先ほど見てきた飲み屋街を望む。

鳴門 丸山 ~拾遺編~

2012年03月11日 11時00分00秒 | ◆四国
撫養町のあれこれをもう少し。

 
メイン通り。それほど広い道ではないが、終点を見ると不自然な通りであることがわかる。


年代ものの電柱。遊里時代からここに立ちつづけてきたのだろうか。

 
なぜこんな路地に、というような場所にひっそりと残る元バー。
当時はカフェー的な店だったのか、あるいは遊客をあてこんだ飲み屋だったのか。


小さな祠。遊里との関係は不明。

 
遊里につきものの銭湯。残念ながら、近年閉業してしまったらしい。

 
ブロック塀に掛けられていた鶴と亀の瓦。
昔ここにあった建物の瓦なのだろう。かなり豪勢な建築だったのではないかと思われる。

鳴門 丸山

2012年03月11日 10時30分00秒 | ◆四国
遊廓→赤線
明治16年、業者数4、娼妓数44
明治33年、業者数6、娼妓数29
昭和5年ごろ、業者数20、娼妓数100


和風の長屋建築。壁面はトタンで覆われているものの、出格子が往時の姿を保っている。

 
意外に奥行きのある和風建築。玄関まわりに雰囲気がただよう。

 
メインストリート沿いにたたずむ木造長屋。欄干や持ち送りに装飾が見られる。

 
かなりリフォームされているものの、かつては料亭であったような気配が感じられる。
照明部分の「淀川」は屋号だろうか。


年季が伝わってくる木造建築。逆光に苦心しながら撮影。
出格子は切子を組み込んだ親子格子。丸山の建物の出格子は、総じて親子形式のようだった。

 
元旅館らしい長屋造り。全面トタンでふさがれた二階の内側が気になる。
玄関の足元には、いろいろな種類の小石が等間隔に埋め込まれていた。

 
黒壁と羽目板の組み合わせが渋い和風建築。
窓に注目すると、一階、二階、側面のすべてが、親子格子で統一されている。

徳島 新天地

2012年03月11日 08時00分00秒 | ◆四国
青線
かつて徳島駅の西側に存在した、闇市起源の私娼街。
建物は長屋形式で、ピアノの鍵盤のような店が100軒ほど(通路を挟んで50軒ずつか?)
ずらっと並んでいたという。

昭和46年(1971年)、新天地の跡地に、ポッポ街という商店街が建設された。
新天地とのつながりは不明。おそらく立地以外の関係性はないのだろう。


ポッポ街の東口。建物は完全に一新されており、当時の痕跡は何も残っていない。


「ポッポ」は蒸気機関車のことらしい。


「駅前商店街」が正式名称だろうか。あるいは途中で改名したのか。


店舗配置図。
まっすぐの通路沿いに店が連なる細長い長屋造りは、新天地の様式を踏襲している。


二階の風景。現在のポッポ街から、新天地時代の様子を思い描くことはできないが、
当時は、一階が居酒屋、二階で客を取るという、典型的な青線方式だったらしい。


西口。

徳島 秋田町(2)

2012年03月11日 07時00分00秒 | ◆四国
ひきつづき秋田町を歩く。

 
壁の色が若干赤みを帯びている。往時はもっと派手な色彩だったのかもしれない。
玄関の欄間は繊細な造り。扉は新調されているが、以前はどんな装いだったのだろうか。

 
玄関の欄間を除き、窓という窓がふさがれてしまっている。空き家なのだろう。
二階の軒下には照明の跡が並んでいる。


現代風にリフォームされているものの、よく観察すると、角を切った構造や、
古びた屋根瓦といった特徴が見られ、遺構の可能性は高いと思われる。

 
[左]大通りを挟んだ反対側の一軒。こちらにも気になる物件がいくつか点在している。
[右]この建物は一階の全面がタイル張り。落ち着いたパステルカラーで統一されている。

 
一見普通の家屋のようでいて、入口が三つ。軒下には軽料理店のプレートが。
この「軽料理店」というのは、徳島では特殊飲食店的な位置づけだったのかもしれない。


アーチ窓など、カフェー風に見えないこともない外観だが、そこまで古い建物ではないか。

 
板張りの木目が印象に残る建物。欄間を彩るのは桜と矢羽の彫刻。

探索中、こちらと同じような物件にカメラを向けている男性がいることに気づいた。
もしやと思って挨拶すると、やはり遊廓跡を撮っている方だった。
町並みを撮影している方なら、これまでも、玉の井や吉原ですれ違ったことがあるものの、
遊里を撮っていると明言する方と遭遇したのははじめて。
けっして多くの言葉を交わしたわけではないが、同好の士との出会いはうれしかった。
もう少し話せばよかったな、と後悔。

徳島 秋田町(1)

2012年03月11日 06時30分00秒 | ◆四国
遊廓→赤線
明治3年、散在傾向にあった遊女屋を一ヶ所に集める。「南廓」「南新地」と呼ばれた。
明治16年、業者数25、娼妓数40
明治33年、業者数62、娼妓数106
昭和5年ごろ、業者数83、娼妓数250
昭和30年、業者数57、娼妓数約173


電柱を見上げると、「シンチ」の文字が目についた。
上の錆びついたプレートにも「新地」の字が読み取れる。これはなんの標識だろうか。

 
虫籠窓が特徴の和風建築。二階の窓と欄干には橘紋が描かれている。


無骨な手すりのベランダが目を引く。が、遺構かどうかは微妙なところか。

 
二階に袖看板の跡が残っている。
近づいてみると、入口の頭上に「軽料理店」「バー」の鑑札が貼られていた。

 
[左]転業旅館とおぼしき小旅館。屋号はくっきり残っているものの、現役には見えない。
[右]二階の欄干。こぢんまりとした透かし彫りがかわいらしい。

 
上記旅館の裏手。この狭い空間に入口が設けられていることに驚く。
勝手知ったる常連客は、こちらから出入りしていたのかもしれない、と想像がふくらむ。


ここ秋田町は、写真のような、比較的小さめの遺構が大半を占めている。
大楼といえるような規模の建物はなかったのだろうか。

徳島 西二軒屋町

2012年03月11日 06時00分00秒 | 風景・街
通称「涙町」。その語源については諸説ある。

この町が遊里と関係あるような記述をネットで見かけた。
個人的には違うような気がしたが、念のため、秋田町訪問の前に立ち寄ってみることに。


西二軒屋町を貫く道路。

 
おっぱしょ石。


道沿いに墓がひしめく。夜はちょっと不気味かもしれない。


古い木造建築が現れた。

 
何かの商店といった雰囲気。妓楼ではないだろう。


門が立派な邸宅。

 
一般住宅には見えない建物が点在している。かつては商店街だったのかもしれない。

善通寺西山と砂古荒魂神社

2012年03月10日 17時20分00秒 | ◆四国
昭和初期、善通寺の遊廓が置かれていた場所は、「砂古裏」という地名だった。
戦後に赤線があったとされる「西山」とのつながりは、この時点では不明。
「裏」というからには「砂古」という地名もあったのではないかと思い、地図を調べたところ、
この砂古荒魂神社を発見。現在、「砂古」の地名が残る唯一の物件らしい。
砂古荒魂神社の周辺地域を「砂古」と仮定すると、西山の位置はまさしく「裏」にあたる。
砂古裏の遊廓と西山の赤線――どうやら連続性があると考えて間違いなさそうだ。

遊里の話が長くなってしまったが、この神社自体は、遊里との関係はない様子だった。

 
入口は閉ざされている。参拝者は脇から入るということらしい。


建物は新しく、あまりおもしろいものではない。


裏のほうはやや古いか。

善通寺 西山

2012年03月10日 17時00分00秒 | ◆四国
遊廓→赤線
昭和5年ごろ、業者数11、娼妓数70

地図を見ると、西山のあたりは、町の中心地からやや離れた場所に位置している。
風紀上の理由から、遊廓の許可地を郊外に指定するのは、よくあるケースである。

現在の西山は、完全に住宅地になっており、決定的な遺構は見つけられなかった。


目抜き通りだったとおぼしき道路。
その広い道幅が、昔ここがそういう場所だったであろうことを想像させる。


戦前から残っていると思われる古い建物。妓楼ではなく、何かの商店といった風情。


気になった看板建築。カフェー風に見えないこともないが、先入観のせいかもしれない。

 
不思議な構造をしている。右が洋風で、左が和風。
右側に円柱のようなポールが写っているが、これは配管のようだ。


旅館のような外観。元は旅館だったのかもしれない。現在は会社の寮になっている模様。

 
西山でもっとも惹かれたのがこの一軒。
窓の造りが凝っていたり、裏手が出格子になっていたりと、気になる意匠が散見される。
ところが、客を招き入れるような入口がなく、娼楼としては疑問符がつく。


メイン通りに忘れ去られたように残っていた祠。
遊里と関係のある可能性は高そうに思えるものの、それを裏付ける材料は発見できず。