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遊里跡の探訪録など。
ブログの日時は、行動日・撮影日に合わせております。

各務原 那加

2012年03月31日 17時00分00秒 | ◆東海
青線
昭和33年、業者数5、娼妓数10

那加の遊里については資料が乏しく(青線だからしかたない?)、場所もはっきりしない。
今回は、那加大東町と那加西野町の二つの町を歩いてみた。


まずは那加大東町。閑静な住宅街の一画に、スナックなどの入った建物が固まっている。
このあたりは昔、進駐軍の基地に隣接した地域。いろいろ想像はできるが、真相は不明。

 
[左]一風変わった外観に惹かれて撮影したものの、これは遺構ではないだろう。
[右]石材の使い方が大胆で、雰囲気もある。とはいえ、遺構と断定するには材料不足。


ここ那加には「那加楽天地」という地域がある。電柱にも「楽天地」のプレートを見つけた。
楽天地といえば、立川や亀有や横浜など、遊里ではポピュラーな通称。
気にはなったが、日没が迫っている。電柱だけ撮影し、那加西野町を目指す。

青線は「西野町」にあったらしい。現在の那加西野町と考えて間違いないだろう。
ほどなく那加西野町に到着。


現役の旅館。最初は娼家からの転業を想像したが、青線の転業にしては立派すぎるか。

 
青線ということを念頭におくと、該当しそうな物件は一軒も見あたらない。
あとは青線かどうかを気にしないで撮影するしかない。この写真は古そうな和風建築。

 
少し歩くと、さらに古そうな物件が現れた。玄関の屋根瓦に凝った装飾が見られる。
あたりは暗くなりはじめており、カメラも限界でピンぼけ気味。

 
右隣りの和風建築。二階の欄干のトンボのような透かし彫りがおもしろい。

多治見 西ヶ原

2012年03月31日 14時00分00秒 | ◆東海
遊廓→赤線
大正元年、業者数13、娼妓数86
大正10年、業者数11、娼妓数90
昭和5年ごろ、業者数11、娼妓数87
昭和33年、業者数9、娼妓数28
「西ヶ原」は昔の地名で、現在の広小路2丁目あたりが該当する。


たじみ広小路。かつては「遊廓通り」と呼ばれ、道沿いに妓楼が建ち並んでいたという。

 
残念ながら、旧遊廓通りにそれらしい建物は残っていない。
ちょっと横道に入ってみると、腰に豆タイルをあしらった和風建築が現れた。

 
一本南側の通りに、丸窓が目を引く和風建築が残っていた。花街的な風情がある。

 
レトロな玉突き場。妓楼と直接の関係はないものの、過日の栄華を物語る貴重な物件。
全体は和風の造りでありながら、入口まわりは洋風の装いになっている。


引き戸の多い和風建築。この通りは商店街だったそうだから、この建物もその一つだろう。


出格子の色が渋い。うっかり妓楼と断定してしまいそうだが、このあたりも商店街である。
奥はなぜか大和張り。板が比較的新しいところを見ると、改装後の意匠かもしれない。

 
旧遊廓通りの北側。まっすぐ伸びる路地に沿って、平屋建てが連なっている。
看板があったりと、かつては何かの店だったと思われる家が目につく。興味深い一画だ。

春日井 道風荘

2012年03月31日 12時00分00秒 | ◇愛知
赤線(戦前は不明)
業者4~5軒、娼妓10名程度の小規模な赤線だったらしい。

最近、雨天にぶつかることが多く、今日も朝から雨が降っている。
傘を差しながらの撮影には慣れてきたものの、時間がかかるのはなんともしがたい。


中央本線沿いの道路に古いアパートが三棟並ぶ。それぞれ気になる特徴がある。

 
右半分が奇妙な印象を受ける構造。右へ回りこむと、その奇妙さが際立つ。
板で覆われた部分はどうなっているのだろう。

 
この三棟に共通するのは、「入口が二つ」「玄関脇に不思議な小窓がある」の二点。
写真の物件には、唯一当時のままとおぼしき玄関も残っている。


独特な雰囲気がただよっているように感じるのは気のせいだろうか。

 
帯状に塗装された妖しげな赤色。赤という色の持つ力を実感させられる。
建物の側面を見ると、窓の手すりも赤く塗られている。風変わりな出窓もおもしろい。


裏手から撮影。二階にも出入り口が設けられている。
かつてはこちら側も、遊客用の入口として機能していたのだろうか。