遊廓→集娼黙認地
明治33年12月、業者数10、娼妓数27
昭和5年ごろ、業者数10、娼妓数30
昭和33年2月、業者数12、従業婦数39
メイン通り。突然幅広になる道路は遊廓ではおなじみ。
この界隈で一番の規模。現存しない建物を含めても、きっと大店の部類だったであろう。
あちこち改築の手が加わっているとはいえ、往時の面影をよく残している。
その名も開盛楼。「楼」とつくとどうしても妓楼を想像しがちだが、はたして。
もっとも遊里の風情を感じられる和風建築。丸窓や桟の細工が目を引く。
松皮菱の装飾窓が二階に。撮影中はアングルに四苦八苦していて気づかなかった。
全体が見えなくて残念だが、偶然写っていただけでも幸運と考えるべきだろう。
廓入口あたりの水子地蔵尊。場所が場所だけに、娼婦の堕胎を連想してしまう。
明治33年12月、業者数10、娼妓数27
昭和5年ごろ、業者数10、娼妓数30
昭和33年2月、業者数12、従業婦数39
メイン通り。突然幅広になる道路は遊廓ではおなじみ。
この界隈で一番の規模。現存しない建物を含めても、きっと大店の部類だったであろう。
あちこち改築の手が加わっているとはいえ、往時の面影をよく残している。
その名も開盛楼。「楼」とつくとどうしても妓楼を想像しがちだが、はたして。
もっとも遊里の風情を感じられる和風建築。丸窓や桟の細工が目を引く。
松皮菱の装飾窓が二階に。撮影中はアングルに四苦八苦していて気づかなかった。
全体が見えなくて残念だが、偶然写っていただけでも幸運と考えるべきだろう。
廓入口あたりの水子地蔵尊。場所が場所だけに、娼婦の堕胎を連想してしまう。
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