Pの世界  沖縄・浜松・東京・バリ

もの書き、ガムランたたき、人形遣いPの日記

収納された「記憶」、呼び出された「記憶」

2010年05月19日 | 家・わたくしごと
 大学生はふつう四年経過すると卒業していく。カレらが卒業してしまった後、しばらくの間、ぼくには、物理的にも精神的にもなんだか嵐がさったようにポッカリ隙間が出来るのだけれど、しばらくすると次の1年生を迎えて、そんな「過去」のことはある日を境に急速な勢いで忘れてしまう。記憶を何でも貯めてはだめなんだ。記憶容量は銀行の口座と違うもの。そうして新たな記憶が新しい記憶に変換されていく。消去!一回か二回のボタンを押して、それでフィニッシュ。そんな記憶はもうゴミ箱に捨てたまま、二度と戻らないと思っていた。冷たいようだけれど、それでいいと思っていた。

 でもね、そんな捨ててしまったはずの「記憶」は、体のどこかにある別の「ディスク」の中に無意識にコピーされていて、そこに納まっていたんだ。日常生活の中では、そんな存在には全く気づかないまま、ぼくらはそんな「記憶」をかかえ続けている。しかし、その「記憶」を意識的に呼び出すコマンドをぼくらは知らない。

 久しぶりに七年前に卒業した学生達に会った。卒業後、仕事がらみで何人かと会ったことはあったけれど、こうして同窓会のように(同窓会ではないけれど)向かい合って食事をしたことはなかった。七年の月日の中で卒業生たちは成長して、なんだかぼくと同じ(ぼく以上の)「背丈」になってしまっている。ぼくは停滞してまま、周りは大きくなっていった。なんだかヨーロッパの古城のように大きな城壁に囲まれてしまったようだ。

 容量が不足するためにやむをえずに抹消したはずの「記憶」が、どこからともかく引き出されてくる。こんな大量な記憶がどこかの「ディスク」に眠っていたなんて!ぼくには今、さまざまな記憶が目に見えるようだ。さっきまで話していた店のからっぽの机の前には、今しがた話をしていた彼女たちの姿ではなく、無邪気な学生だった(少なくてもぼくには当時そんな風に見えていたのだ)頃の姿が目に浮かぶ。しばらくこのまま引き出しが自由な記憶容量の中に入れておこうと思った。なぜだかわからないけれど、しばらくもう一つの「ディスク」に収納してしまわないでこのままにしておこうと……。