決してめでたくない状況で新年となりました
前回、追記でラデツキーさんに触れたことで、改めてラデツキーさんは、どんな人だったのかWikipediaを読んでみました。
1850年頃のラデツキー将軍の肖像画です。
以前は、イタリアの独立運動を弾圧した軍人ということで、あまり良いイメージは持っていなかったのです
但し当時のオーストリアでは「ラデツキーあるところにオーストリアあり」と熱狂的な支持を受けていたようです。
イタリアの側から見れば弾圧者ですが、ナポレオン戦争以降の民族主義台頭の中で、多くの民族から構成されるハプスブルク王朝の弱体化を危惧する人々からは救世主と迎えられたのです。
ラデツキーさんのフルネームはヨハン・ヨーゼフ・ヴェンツェル・アントン・フランツ・カール・グラーフ・ラデツキー・フォン・ラデツです。6才のとき両親と死別し、プラハの祖父のもとで育てられました。日本語Wikiだけは、ハンガリー貴族としていますが、他の言語ではボヘミアの貴族となっています。ブルノの騎兵アカデミーとウィーンのテレジアヌム(当時は士官学校)で学び、1813年のライプツィヒの戦いではオーストリア帝国軍司令官として戦略戦術作成に当たっています。
そして何と言ってもイタリアでの華々しい戦果によって不動の名声を得ました。戦勝したばかりでなく、1848年から1857年まではロンバルディア・ベネトの総督を務めています。1856年末、90才の老将軍はフランツ・ヨーゼフ皇帝に嘆願書を提出、漸く引退を認められました。18才の時から72年間、軍人・総督として皇帝に仕え、17の戦役に出陣しています。皇帝に捧げた生涯と言えるでしょう。
引退から2年後、肺炎で世を去りました。
詳しい経歴は英語、ドイツ語などのWikiでご覧ください。面白いことにイタリア語Wikiが一番詳しいのです。これはナポレオン戦争も含めリソルジメントへの歴史の一環として重要だからかも知れません。統一イタリア王国が誕生するのはラデツキー将軍没後2年目です。自分が苦労して守ってきた王朝の領地が消滅してイタリアとなる直前に世を去ったのは、むしろ幸運だったと言えるでしょう。
72年間どうもご苦労様と言いたいほどです。
しかし、こんな軍人の手本みたいな一生を送った人ですが、もしシュトラウス(父)の行進曲がなかったら完全に忘れ去られていたかも知れません。
これは名曲のもつ力と言えるでしょう。
昨年はSars-Cov-2のCovid-19パンデミックで全世界が大きな打撃を受けました。
ベートーヴェン生誕250周年も大規模な記念イベントが出来ず、いわば不発に終わりました。それで関係者は今から、2027年の没後200周年で挽回しようと意気込んでいるようです。
これは1802年に制作されたベートーヴェンのライフマスクです。
今年はSars-Cov-2のCovid-19パンデミックから抜け出す年となりますように
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