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国宝 阿修羅展

2009-04-14 22:40:55 | メディアから
東京国立博物館で開催中の、国宝阿修羅展へ言ってきた。興福寺の伝える、八部衆像と十大弟子像の現存する14体全てが出品されるとの事で大変話題になっている展覧会である・奈良にはここ数年毎年言っているが、一番の目的は薬師寺さんへの参拝であり、東大寺や、法隆寺がメインで、興福寺にはあまり立ち寄ったことがなかった。興福寺には周囲を囲むながい塀もなければ、人を威圧するような大きな門があるわけでもない。猿沢池のすぐ沸きにある五重塔が目立つくらいと、気にも掛けていなかった。知らないとは怖いことです。次に奈良に行く時には、数日を掛けてじっくりと拝観させていただきましょう。
展覧会に出品されているn天平時代の御仏は、どれも優しいお姿をした御仏が多いのですが、中でも阿修羅像の表情には心打たれるものがありました。阿修羅道といえば、ウイキペディアに「阿修羅とはアスラのことで、戦闘を好む鬼神だ。天界に住む帝釈天とつねに交戦している。要するに阿修羅道とは、絶え間ない闘争の世界だ。須弥山(しゅみせん)の北の大海の底と、四大州の山中の岩石の間が住処である。
 海上の雷鳴を聞いて、宿敵帝釈天の軍鼓と思い恐れおののき、また戦いに負傷し、若くして生命を落とす。絶えざる戦闘と殺戮、そして敵襲の不安にいっときも心休まらない世界だ。」と記載されているように仏法の守護神に転身したとは言え、戦いの神のイメージが強い。ところがこの阿修羅像はどうだろう。自分では表現できないので図録の阿修羅像の表現の項目を引用させていただく
阿修羅像は三つの顔に六本の腕を持つ異形の姿で表わされている。中略 異形ではあるが異様な感じが少しもしない。細い六本の腕は空間に自由に伸びて美しい。これほど空間の中にすっと軽やかに動くのは興福寺の阿修羅像だけといってよい。耳の表現も通常ではない。両耳のあるのは正面の顔だけで、両脇面は外側の耳しか表現していない。正面の正面の両耳は横幅が広く正面に向けられているが、これも人の耳とは異なっている。また、顔は三つであるが髻(もとどり)が一つであるのも不自然である。妙法院・三十三間堂の阿修羅像も三面六臂であるが、それぞれの顔は二つの耳と髻を持っている。しかしその不自然さは指摘されなければ気が付かないほどである 後略  
写真では感じ難いのだが、知らぬことを教えられたような、驚きと悔しさのような、少年だけが持つ感性を表現しているように感じたものでした
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