三輪山 |
奈良の三輪山は不思議な伝承を今に伝える山だ。その山容は見るからに恐れ多い神奈備型であり、悠然と大和国原を見守る聖山だ。三輪山山麓一体は箸墓古墳など巨大古墳が集中していおり、ヤマト王権発祥の地とされている。だがそこには「出雲」の大国主命の別神、和魂、大物主神が鎮座ましましている。なぜ出雲の神が大和に鎮座しているのか。それは何を意味するのだろうか。
古事記・日本書紀の伝承によれば大国主命が弟の少彦命が常世に旅立ったのち、この国(葦原中つ国)をどうやって治めようかと悩んでいた時、大物主神が現れ、大和の三輪山に自分を祀れば安泰であると告げたという。以来三輪山の神は葦原中津国を見守る守護神・祖霊神となる。しかし、その後大国主命(国つ神)は天照大神(天つ神)に国譲りを迫られ葦原中つ国の政権交代を許す。かわって「筑紫の日向の高千穂」に三種の神器とともに降臨してきたアマテラスの孫のニニギの子孫がこの葦原中つ国を治めることになる。その子孫が筑紫から東征して大和の橿原に即位する。すなわち神武天皇に始まるとされる天皇家がこの国の支配者となるわけである。これが古事記や日本書記に描かれた日本の始まりのストーリー(出雲神話、日向神話)だ。しかし、天皇家は祖霊神天照大神を大和の三輪山に祀らず、遠く離れた東国の伊勢に鎮座させた。
三輪山山麓に発生したヤマト王権(三輪王朝)とはどのような出自の王権だったのだろう?その大王とは誰なのか?祖霊神を大国主命・大物主神とする出雲から来た一族ということを暗示しているのだろうか? そしてのちに筑紫から入ってきた天孫一族に政権を奪われたということを暗示しているのだろうか。その政権交代の正当性を示すために、古事記は「国つ神」より上位の神「天つ神」天照大神を祖霊神とするストーリーを創出したのだろうか。
古事記に描かれた神話のなかの神観念を整理してみよう。
大和的神観念
天つ神:天照大神。高天原に存在する神(天神)
大王の祖霊神は三輪山の神、大物主神であった。しかしやがてより格の高い太陽神、天照大神を祖神とする。
天皇を中心とした支配体制を正当化するため地域の神/各氏族の神々の上位に太陽神、天上界の神を創出した。それが大王/すなわち天皇家の祖神だというストーリーを創出。神の体系化・序列化を行った(8世紀前半)
弥生的神概念:精霊信仰+祖霊神信仰が加わる
出雲的神観念
国つ神:大国主命・大物主命。葦原中津国に発生した神(地祇)
大国主命は、天つ神アマテラスの弟で高天原から葦原中津国に降臨したスサノヲの子孫である。しかし大国主は国つ神とされる。
もともとは多数の地域ごとの豪族/氏族支配の神の観念。神々は平等。序列はない。八百万(八十万)の神々が存在。大王家の初期の祖霊神は三輪山の神、すなわち大物主神(出雲的神)であった。これは大勢の神々のワンオブゼムであった。
縄文的神概念:自然神・精霊信仰(アニミズム)
そして出雲の「国つ神」から大和の「天つ神」への「国譲り」が行われたとする。
やがて天上界(高天原)から葦原中津国の「筑紫の日向の高千穂」(おそらくは架空の地)に天照大神の孫ニニギが三種の神器を携えて降臨する。その子孫が東征し、大和の橿原で即位して初代天皇、神武天皇となったとする。こうして天皇が支配の権威を有する国家「日本(ひのもと)」を確立した。実際にはそうした権威づけするために古事記神話が創出された。
古事記の神話に出てくる数多くの神々は、もともとはそれぞれの地域に存在していた自然神、氏族の神々(精霊・祖霊)であった。まさに八百万の神々であった。大王・天皇の優位性を示す最高神『皇祖神」を創出しようとする過程で、それらの神々が体系化、序列化されてゆく。すなわち、その神々はなんらかの形で最高神(天神、天つ神、天照大神)の下位に序列化されていることを記述する。一方、ヤマト王権に従おうとする氏族や豪族は最高神/天皇家となんらかの関係を有する神/氏族の子孫であることを記述してもらい、そうすることで権威を保とうとした。すなわち八百万の神々が先にあって、そのなかから最高神が生まれたのではなくて、最高神がいてその系列下に八百万の神々が序列化されている、という整理がなされた。本来は逆なのだが。
したがって出雲にいた地域の守護神、オオクニヌシもそうした体系化・序列化のなかで矛盾なく語られる必要があった。先述のように彼はスサノヲの子孫だと定義された。すなわち、天地が混沌としたカオスの状態だった時の神々、造化三神。その子孫の子孫がイザナギ/イザナミで、日本を生み出した(国生み神話)。そしてそのイザナギの禊から生まれた三貴子、太陽神(女神):アマテラス、月の神(女神):ツキヨミ、嵐の神(男神):スサノヲが生まれたとされる。このように昼と夜をそれぞれ司る二女神だけでなく、荒ぶる男神を設けたのには理由がある。すなわち出雲という強大な国の長である「オオクニヌシ」の位置付けを定義する必要があった。そこで次のようなストーリーを創出した。アマテラスはその弟であるスサノヲと対立する(天の岩戸伝承など)。スサノヲは高天原から追放され地上界(葦原中津国)へ(出雲ヤマタノオロチ伝承など)。やがてその子孫であるオオクニヌシが地上の国の支配者(国つ神)となる(因幡の素兎伝承など)が、その「国つ神」は高天原の「天つ神」へ「国譲り」をして従うこととなった。やがてアマテラスの孫のニニギが高天原から筑紫に降臨して葦原中つ国を支配する。すなわち出雲が大和に従うプロセスを神話的に解説したのがオオクニヌシの治世と国譲り、天孫降臨のストーリーなのだ。
この「天つ神」と「国つ神」という観念は、ちょうど5世紀に大陸から渡来した原始的儒教思想の「天神・地祇」「礼」にもとずく神々の序列化の思想によるものとされる。古事記や日本書記の編纂時にこの考えが建国神話の記述整理に役立った。律令制下の重要官職である神祇官の名称もここから来ている。しかし、古事記にはこうしたいわば弥生的祖霊神の観念と、それ以前からある縄文的精霊・アニミズムの観念とが神話に並存しているのが特色だ。
記紀神話の記述は、これまで述べたように、7世紀後半から8世紀初頭に創出された天皇の支配権のルーツを説明するストーリーであるが、特に「出雲神話」の部分は日本(このころはまだ倭国であったが)の支配権が出雲から大和へと移っていったことを暗示していると考える。あるいは出雲勢力が初期の大和を支配していたが(これが邪馬台国だ、とする研究者もいる)、やがて筑紫(天孫降臨神話)からやってきた勢力が大和に入り出雲勢力に変わって支配していったのかもしれない。出雲勢力の祖神たる三輪山(国つ神)はその後もヤマト王権、朝廷の重要な祭祀の場として存在し続ける。天照大神(伊勢大神)が皇祖神(天つ神)となり、東国伊勢に鎮座した後も、三輪山は「元伊勢」として皇室の崇敬を集める。確かにそのヤマトの地に聳える神奈備型の山容に畏敬の念を自ずと感じる三輪山が、縄文的アニミズム、弥生的祖霊信仰を問わず、時を超えて人々の心に響く存在であることは間違いないが。
ところで、ここからはいつもの私の疑問、すなわち、我が国の発祥に関わる倭国の中心の移動、筑紫から大和への変遷の問題に立ち返ってみよう。考古学的研究成果によれば出雲は強く筑紫の影響を受けていることから、倭国の中心が筑紫→出雲→大和と変遷していった歴史がうっすらと見えてくる。弥生的な稲作農耕社会であった倭国においては農耕器具にしろ武器にしろ鉄器生産能力の確保は不可欠だが、当時その鉄資源は朝鮮半島南部からしか入手できなかった。したがって倭国は半島南部の伽耶国や百済との通交を重視したし、そういう点で北部九州は大陸の鉄資源権益を握る倭国の中心であった。しかし、出雲で鉄生産の技術が盛んになり(たたら製鉄は今も盛んであるし多くの遺跡が見つかっている)、鉄資源の獲得が直接大陸から出雲へと行われるようになると、国内の勢力図が変わっていった可能性がある。筑紫から出雲へ鉄をめぐる勢力の変遷が起こった。歴史の一時期ではあったかもしれないが、出雲が倭国の中心になった可能性がある。
古事記の神話部分には、この後の出雲から大和への変遷部分だけが描かれている。「国つ神」から「天つ神」への支配権の移譲というメッセージこそが重要であって、出雲以前の話は、天皇中心の国家体制確立プロセスには関係ない、いや日本のルーツは筑紫(北部九州)ではない、との歴史観表明に違いない。すなわち「筑紫の神」「筑紫神話」は意図的に創出されなかった。これは天武・持統天皇時代の天皇支配、律令体制国家を宣言した8世紀の時代、自ら名乗ったわけでもない倭国という国号を捨て、日本(ひのもと)を新国号とした時代背景と大きな関係を持っている。すなわち日本は中華皇帝に朝貢/冊封された倭国王(中国の史書の出てくる奴国、伊都国、邪馬台国などの筑紫中心の冊封国家の長)をルーツに頂く国ではなく、天から降臨した天神の末裔が(独自に)建国した国である、という歴史観・国家観の創出である。古事記においては、我が国発祥の地、すなわち天孫降臨の地が「筑紫」(当時は九州全域を指した)であることは否定しないが、大陸に近い北部九州ではない「何処か」を暗示するに止めている。すなわち「筑紫の日向(ひむか)の高千穂」だとする。神武天皇(かむやまといわれひこのすめらみこと)の東征伝承も、その出発地点は日向美々津だとしている。この筑紫の「何処か」から東征した勢力が大和で出雲勢力を凌駕してヤマト王権を確立していった(これが「国譲り」「天孫降臨」「神武東征」「橿原即位」伝承の実態?)。
その「何処か」は「日向国」である、としたのは江戸時代の「古事記伝」を著した本居宣長である。しかし、記紀編纂時はまだ律令制が未完成の時期で、「日向国」は存在していない。それが記録に見えるのは奈良時代後期の8世紀後半。現に「日向」という地名は全国いたるところにあり、要するに太陽に向かう土地、という意味で、「高千穂」は神々しくて高い峰だから、ますます特定はできない(ゆえに西日本全域に天孫降臨伝承や高天原伝承がある)。まして記紀編纂時期の南九州「日向地方」は隼人がまだ大和王権に服属していない「夷狄」の地であった。むしろ弥生的神観念よりも縄文的神観念がまだ支配していた地域であった。我が国発祥の地が九州南部であることにはならない。この「筑紫」はやはり奴国や伊都国、さらには卑弥呼の邪馬台国が倭国の中心をなした弥生先進地域、北部九州にちがいない。しかし、上記の理由から、それを言いたくないのであえて「筑紫の日向の高千穂」という特定できない架空の地にした、というのが古事記の編者の意図であったろう。しかし、編者はニニギに「この地は朝日の直刺す地、韓国を望む地、夕日の火照る地...」と言わせている。直接的表現ではないが、この地が南九州の山の中でないことは明らかだろう。はるか海の向こうに大陸を望む我がルーツの地を暗示して見せたように思える。
古事記・日本書紀が創出された時代は、上述のように7~8世紀の天皇支配確立に向けた激動の時代(天武・持統天皇以降)であり、倭国大王から治天下大王、日本天皇という、中華世界(華夷思想)とは一線を画した独自世界(日本版華夷思想)を宣言したナショナリズムが横溢していた時代である。記紀の記述、特に建国神話部分のストーリー理解には、それらが編纂された時代背景、意図を理解する必要がある。日本の古代史に関しては文献資料が乏しく、比較的新しい時代である8世紀に編纂された古事記・日本書紀が数少ない資料であるが、こうした時代の時の権力者が選定した「公式定本」、それを記述通り正しいものとして受け入れた江戸後期の国学や、その影響を強く受けた尊王攘夷思想、そして戦前の皇国史観。逆に戦後はその反動として、記紀の文献資料としての意義の全否定のような主観的で極端な取り組みではなく、考古学成果と合わせて客観的かつ批判的に読みこんでゆくという取り組みが必要であることを改めて痛感する。