時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

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春爛漫奈良大和路散策 桜はまだだ(3)長谷寺、室生寺、大神神社

2017年04月18日 | 奈良大和路散策

 

 奈良市内を離れ、三輪山の麓から初瀬街道にそって長谷寺、室生寺へと歩を進める。ヤマト王権の発祥の地である三輪山山麓。奈良市内からは「山辺の道」が南に伸び、道に沿って大型古墳が並ぶ、いわゆる大ヤマト古墳群である。最近、纒向の地に東西軸で構築された3世紀のものと考えられる宮殿/神殿跡が発見された。これぞ邪馬台国女王卑弥呼の居館であると騒がれたが、まだ明確な証拠となる遺物は見つかっていない。むしろ初期ヤマト王権の拠点遺跡であろう。その三輪山から東に谷あいを進むと、初瀬街道、伊勢詣での伊勢街道へと続く。ここには観音様で有名な長谷寺、そして女人高野室生寺がある。山と谷に囲まれた隠国(こもりく)の初瀬だ。

 

(1)長谷寺

  真言宗豊山派の総本山。もとは天武天皇の病気平癒を願い、686年に初瀬山に開いた精舎(現在も本長谷寺として残されている)である。727年には聖武天皇の勅願により十一面観音菩薩を祀った。やがて西国三十三所観音霊場の根本道場となった。平安時代には長谷の観音様詣でがみやこ人の間で人気があり、初瀬街道や伊勢街道が参詣客で賑わった。いまでも初瀬街道沿いには宿屋や茶店、土産物屋が軒を連ねている。なかでも出雲人形という土人形が名物であった。京都の伏見人形とともに参詣の土産として売られていた。残念ながら現在では伝統を継ぐ職人もなく、唯一残っていた出雲人形の店も看板はあるが玄関は固く閉ざされている。代わって最近の土産物は、草餅。そして三輪そうめん。我らも、にゅうめんを食して初瀬もうでを締めくくった。

 長谷寺は「花のみ寺」と呼ばれ、四季折々の花に彩られる美しい寺だ。とくに春の桜、五月の牡丹、秋の紅葉は有名。その他にも四季折々に花が咲き乱れ、いつ訪れても目を楽しませてくれる美しい寺だ。桜は今回残念ながらまだ咲いていなかったが、梅やサンシュユ、花桃、雪柳が早春の名残に咲き誇っていた。全山満開の桜の季節になると、初瀬川対岸の愛宕神社境内から眺める桜花に埋もれる長谷寺の全景が素晴らしいのだが。今回は境内は季節の端境期で訪れる人も少なく静かな佇まいである。それはそれでまた良し。

 ちょうどご本尊の十一面観音菩薩のご開帳の時期にあたった。普段は入れない内陣に入れてもらい、御像の足元に触れさせていただくことができた。身の丈が三丈三尺(約10メートル)で、近江高島の楠の霊木を彫り上げた観音様。右手に錫杖を持ち、大磐石という大きな平らな石の上に立つ独特のお姿を足元から見上げる。はるか頭上に慈愛に満ちて微笑む観世音菩薩との結縁を結ぶことができた。私のような現実的で理屈優先な人間がなぜか心洗われ世俗の憂いや煩悩から解き放たれた心持になった。

 

参考:

2012年4月18日のブログ:初瀬のお山は花盛り〜長谷寺の桜〜

2015年12月18日のブログ:初冬の大和古寺巡礼(1)長谷寺〜冬紅葉を巡る旅〜

 

名残の梅が本堂舞台を彩る

 

与喜天満宮から初瀬街道を望む

 

西国三十三ヶ所巡りのお遍路さん

 

 

参道の梅

 

登廊

 

桃とサンシュユ

 

桃が盛りだ

 

さんしゅゆ

 

お遍路さんご一行さま

舞台

 

内陣から舞台を望む

 

善男善女の参拝が続く

 

桜が咲き始めた

 

サンシュユの大木がみごと!

 

 

(2)室生寺

 室生寺のあるここ室生の地は、太古の室生火山群が形成する深山幽谷の地、神々の坐す聖地として仏教伝来以前から仰がれていた。近くには龍神信仰の聖地龍穴神社がある。奈良時代の後期に勅命により創建されたのが室生寺。山林修行の道場にして法相/真言/天台各宗兼学の寺であった。女人禁制の高野山に対し、女性の参詣を許す真言道場であり「女人高野」と称された。大和路の寺のなかでも谷を越え山に分け入る地にある静かな聖地である。

 ここはシャクナゲで有名な寺で、金堂にいたる鎧坂の両側はその季節になると見事であるが、もちろんまだその季節ではない。里ではそろそろ蕾をつける頃だが、深山幽谷の室生寺ではまだまだだ。そしてやはり桜はまだであった。しかし、なんという静けさ。こんな春の陽光の中、鎧坂、金堂、五重塔、奥の院へ続く道、ほとんど独り占めできる嬉しさ。今回は奥の院までは行かなかったが、これから新緑の季節を迎えると、向かいの室生山の山肌が若葉で美しく輝く。いつ訪れても心洗われる聖なる場所だ。

 室生寺は大和路散策のなかでも人気の寺で、近鉄室生口大野駅から日に数本しかバス便が無いにもかかわらず、平日でも結構な数の参詣者がいる。しかし、この日はさすがにバスの客も少なくゆったりと20分のバス旅を楽しむことができた。駅近くの大野寺の枝垂れ桜が有名で、シーズンには大勢の花見客が押しかけるが、この比較的早咲きの桜さえ今年はまだ蕾であった。河岸の磨崖仏もこの日は寂しそうだ。

 こちらも、この時期、金堂の内陣が特別公開であった。普段は外の回廊から拝観するしかない。ところがちょうど諸仏のご尊顔あたりにハリが横たわっていて腰を低くして尊像を拝せざるを得ないのだが、この時は内陣ですぐ目の前に並ぶご本尊、薬師如来、土門拳の写真でも有名な十一面観音などの諸仏を拝観することができた。建物自体も平安期創建時の建物が貴重なことに残っていいて、時空を超えた曼荼羅世界に浸ることができた。

 

参考:

2016年1月21日のブログ:女人高野室生寺に雪が降った〜土門拳の世界に迫る?〜

鎧坂

 

鎧坂からみる金堂

平安時代初期(国宝)

 

今回は内陣の公開があったので

ご尊顔をゆっくり拝見できた

 

寺を守る神社

神仏習合のあらわれ

 

国宝五重塔

平安時代初期(国宝)

平成10年の台風で大きな損傷を被ったが平成12年に修復された。

 

同じく、横位置にして広がりを表現してみた

 

 

ここにも名残梅

 

 

(3)大神神社

 最後に、三輪山を御神体とする大神神社へ。神奈備型の美しく神聖な三輪山は大和の風景のシンボルであり、ヤマト王権発祥の地にふさわしい聖山である。そもそも大神神社の御祭神は大物主神。出雲の杵築大社(出雲大社)の御祭神、大国主命の別神とされており、「国譲り神話」という、ヤマトと出雲のつながりを暗示する記紀神話ストーリーの舞台である。また蛇が神の化身と言われ、大杉のウロに住み着いているという。参拝者は卵を御供物として献納する。記紀神話ではヤマトトトヒモモソヒメとの婚姻譚、其の死後に築造されたという箸墓古墳についての伝承が伝えられている。これが中国の史書、魏志倭人伝にいう邪馬台国女王卑弥呼であり、したがって箸墓古墳が卑弥呼の墓であると結びつける説がある。これを邪馬台国近畿説の「根拠」にしている学者もいる。もとより神話と考古学と中国の文献とを結ぶ証拠はもちろんない。日本側の公式な史書である記紀には邪馬台国や卑弥呼に関する記述、言及が一切ないのである。

 しかし、三輪山が、太陽神という自然神崇拝、やがては一族の祖霊神崇拝を旨とする、列島の原始宗教形態のシンボルになっていったことは間違いない。このような神奈備型の山を天上界の神が降臨する聖山として崇め、その麓で祭祀を執り行う形態は、列島の各地にあった。のちに(6世紀の仏教伝来以降、その外来の壮麗な宗教施設である寺院建築物に影響されて)拝殿、社を設け「神社」とするようになる。やがて列島内の首長・豪族といった勢力が緩やかな統合に向かい、大和三輪山の麓(やまと)に打ち立てられた「ヤマト王権」が列島を取りまとめる中心となってゆく(その遺構が纒向遺跡であり箸墓古墳である)。そして三輪山が、いわば「聖山の中の聖山」として王権のシンボル的なステータスになってゆく。そのなかで、やがて祖霊信仰が加わってくると、三輪山に一族の祖霊神を投影するようになる。それが大物主命であり、出雲大国主命の別神であると伝承され、出雲と大和の結びつきの記憶を想起させることとなる。

  三輪山の麓からヤマト世界を展望できる場所がある。ここからはとりわけ夕日に彩られる風景が美しい。大和三山、葛城・金剛山、そして二上山が見渡せる。日の出る山、三輪山、日の没する山、二上山。太陽信仰を基本とする東西軸の宇宙観を持った倭国ヤマト世界をここに立つと体感できる。南北軸の宮殿配置、都城配置は(藤原京・藤原宮、平城京・平城宮以降の)は後に中国から伝わった思想に基づくものである。さらに6世紀になると仏教が伝わり、西方浄土という考え方が徐々に人々に受け入れられる。やがて夕日の沈む彼方の極楽浄土を憧れるようになり、二上山が聖山として崇められるようになる。

 聖山三輪山の麓が3世紀ヤマト王権発祥の地である。しかし、そのこととここが邪馬台国の所在地であったか、ということは別問題である。同じく3世紀の倭国の姿として記述される魏志倭人伝世界の邪馬台国はやはり北部九州チクシ倭国連合の中心国であったという考えに変わりはない。3世紀当時の列島各地には、大小の違い、結びつきの強弱の違いはあれ、いくつかの地域連合があったであろう。筑紫、出雲、吉備、但馬、越、尾張などの地名がそれを表している。なかでもチクシ倭国連合はその、地政学的立ち位置、奴国、伊都国時代からの大陸との交流の歴史から、中国王朝(特に漢帝国)との結びつきが強く、列島内において文化的、経済的、政治的に優位なポジションにいたことは間違いない。しかし、大陸の漢王朝が衰退し、分裂して三国時代になると、チクシ王権の盟主である邪馬台国(卑弥呼)は朝鮮半島を通じて魏朝に朝貢するが、一方で、魏と対抗する呉(現在の上海付近)王朝と通交した列島内倭国の地域王権があったかもしれない。中国においても呉や蜀の史書は失われており、残念ながらこれらの通交を記録する文献資料は見当たらないが、当時の東アジア情勢は中華王朝、朝鮮半島、倭国を巻き込んで合従連衡の中にあったと考えるべきだろう。そうしたなかで魏志倭人伝には出てこない倭国内の(列島内の)有力な倭人勢力が幾つかあったとしても不思議ではない。その一つがヤマト倭国連合であった。この初期ヤマト王権の出自についても謎が多いが、先ほどの出雲勢力との関係や、その背後にある筑紫勢力(倭国争乱で邪馬台国に敗れて東遷したチクシ勢力と考える)と無縁ではないだろう。大和盆地に自生した土着勢力とは考えにくい。

 この辺りの話はし出すとキリがないのでこのあたりにしよう。さらに興味のある方は、下記のブログをご一読あれ。 ふと我にかえり目をあげると、眼下に広がるヤマト世界を夕日が茜色に染め上げている。

 

参考:

2016年1月17日のブログ:なぜ大和三輪山には出雲の神が鎮座しているのか?

2016年10月18日のブログ:「初期ヤマト王権」とはなにか

 

大神神社拝殿

御神体はこの後ろの三輪山

 

夕日に映える表参道

 

大和の夕景

まもなく二上山に夕日が落ちる

 

真西に夕日が沈みゆく

東の三輪山、西の二上山という

東西軸の宇宙観をここに立つと体験できる

 

大鳥居と耳成山

背景に葛城山、金剛山

ヤマト世界の夕景だ。

(撮影機材:SONYαR II + EF24-240Zoom. 長谷寺金堂と大神神社拝殿はLeicaM10 + Tri-Elmar 16-18-21/4 ASPH)

 

アクセス:

長谷寺:近鉄大阪線長谷寺駅下車。徒歩20分

室生寺:近鉄大阪線室生口大野駅下車。バス20分。

大神神社:JR桜井線(万葉まほろば線)三輪駅下車。徒歩15分。

 

 

 


春爛漫奈良大和路散策 桜はまだだ(2)高畑町、白毫寺、新薬師寺界隈

2017年04月18日 | 奈良大和路散策

 奈良市内にも昔からのお屋敷街がある。高畑町界隈だ。文人墨客や財界人の住まい、別邸が軒を連ねる閑静な邸宅街だ。この辺りは、春日大社の神域の南に位置しており、かつては春日大社の禰宜、権禰宜などの神職が住まう地域であった。ちょうど京都で言えば上賀茂神社あたりの社家町ようなところだ。春日若宮から鬱蒼たる春日の森を貫く小径に「禰宜の道」と名付けられているのはこうした由来からだ。さらに東にダラダラと坂を登ると、やがて柳生街道へと続く。

 今回は、破石町バス停から、旧志賀直哉邸、白毫寺、新薬師寺、そして最後に、大和路情景写真の聖地、入江泰吉写真美術館へ、という高畑町ルートを散策した。

 

(1)旧志賀直哉邸と高畑町界隈

 志賀直哉は家族とともに京都から奈良に移り住み、昭和4年に高畑町に自宅を建てた。数奇屋造りであるが、洋風の居室も設け、当時としては斬新な邸宅であった。昭和13年までここに住み、昭和12年には長編「暗夜行路」をこの邸宅で完成させた。終戦で米軍に接収されたが、接収解除後は厚生省の職員保養所として利用された。その後取り壊して建て直す話が出たが、地元では保存運動が起こる。結局、奈良学園の理事長が、保存を目指して厚生省から買い取り、再生/修景を行い現在に至っている。取り壊されなくてよかった。ここでも篤志家が文化財を守る良きパトロンとなった。最近の金融資本主義のなれの果てのような成金はこういう文化財に対する目線が乏しい。社会に富を還元するという志が薄くなっているようだ。残念なことだ。

 

 

志賀直哉邸玄関

 

 

 

 

 

馬酔木

 

 

(2)白毫寺と五色椿

  白毫寺の五色椿。東大寺良弁堂糊こぼし椿、伝香寺もののふ椿とともに「奈良三名椿」と称されている。一本の木に白、ピンク、赤、まだらなど様々な花をつける。天然記念物に指定されている。今年は花付きが悪いそうで花の数が少ないようだがその美しさは変わらない。秋には萩寺として有名な白毫寺だが、この椿の季節がまた一段と良い。ここからの奈良市内の展望が素晴らしい。春日山、高円山の山麓に位置し、山の辺の道の北端にあたる。一度、ここから山の辺の道の全行程を踏破してみたいものだが。入江泰吉師の白毫寺界隈の写真にはのどかな田舎の風景が写し出されている。今でもその面影は残されているものの、この辺りも開発が進み、白毫寺に至るのどかな参詣道ぞいにあった風情ある古民家が取り壊され、プレハブの民間アパートやマンションに建て替わってしまっている。あたりの景観にまったく配慮しない建物だ。なぜこのようなものが建築許可を得る事ができたのか理解に苦しむ。かつての鄙びた佇まいがどんどんなくなってゆくのが悲しい。奈良白毫寺町も鄙びたまま時を過ごすのは難しいのか。なんともやるせない気持ちになる。

 

2012年3月21日のブログ:奈良三名椿を巡る

  

五色椿

 



 

 

五色椿

  

落花の舞

奈良市内の展望が素晴らしい

  

椿

 

桜が開花した

 

 

サンシュユ

 

  

(3)新薬師寺

  御本尊薬師如来、十二神将で有名な華厳宗の古刹。聖武天皇の病気平癒を願って光明皇后が創建したと言われるが、正史に記載がなく正確な創建の由来、年次は不明と言われている。しかし、奈良時代には南都十大寺の一つとして広大な寺域を有していたことは確かであったようだ。やがて平安期に入ると徐々に衰退していった。現在は境内もこじんまりとし、金堂も本尊の薬師如来と十二神将が鎮座する小さなお堂でしかない。同じように寺域が後世縮小してしまった元興寺も、旧僧房の一つにこじんまりと本尊を祀る寺になってしまっているが、現在の奈良町が旧元興寺境内であったことが分かっており、広大な寺域を誇っていたことを確認することができる。新薬師寺は創建時の壮麗な大伽藍を彷彿とさせるものはあまり残っていない。しかし平成20年、創建時の威容を示す遺構が、近くの奈良教育大学構内で発見された。巨大な金堂を想起させる礎石列が地中から発見された。平城京東郭にあって東大寺、元興寺、興福寺に匹敵する大伽藍であった。ちなみに新薬師寺の名は、新しい薬師寺ではなく、霊験あらたかな薬師寺という意味。

 

 学生時代に新薬師寺を訪れた時、山門の前に素焼きの土器を製作する工房があった。ここで薬師如来の土面を買ったことを覚えている。なんとも心奪われる面立ちの面であった。いまでも実家に飾られており、経年変化でさらに味わい深いお顔になっている。大阪勤務時代にここを再び訪れた時にはその工房はなくなってお土産屋兼食堂になっていた。工房を継ぐ後継者がいなかったのだろうか。門柱がわりのハニワ像がその痕跡を残していた。そして今回行ってみたら閉店の看板。その横に「売り物件」の張り紙。時の移り変わりを感じざるを得ない。

 新薬師寺のすぐ隣が「入江泰吉写真美術館」である。この道すがらの田んぼも、無くなっていて、シニア向けマンションぽい施設が立っていた。ここを人生の終着点として住む人には良い立地だろうが、鄙びた「滅びの美」を探し求めてここへたどり着いた旅人にはどうだろうか。むしろ路傍に終の住みかを見つけて「旅に死す」ほうがロマンチックだと思うのはまだ若いからだろうか。

 

新薬師寺近金堂

 

レンギョウ

  

ハクモクレン

 

馬酔木

 

入江泰吉写真美術館

  

 締めくくりに、今回の散策で出会った椿をご披露したい。白毫寺参詣を終え、坂を下りると参道に一軒の植木屋さんがあった。そこには様々な種類の椿の鉢が並べられ、どれも美しくその華麗な姿を競っていた。そのなかで、パッと目に飛び込んでくる椿の花が一輪。華麗ではあるが可憐でもあるその姿。懸命に咲き誇りこちらに手招きをしているではないか。出会いとはこういうものだ。一目で気に入り、早速求めたいと思った。が、店の人が誰もいない。そもそも周りに誰もいない。散々「ごめんくださ〜い」「おねがいしま〜す」と声をかけるが誰も出てこない。やはり縁がなかったのかと思って立ち去りかけた頃、建物の裏から年季の入った温和な風貌のオトーさんがひょっこり現れた。やれやれだ。聞けば、この椿は「絵日傘」だとか。玉之浦や岩根絞りもあったが、オトーさんのイチオシはこれだという。都会ではなかなかお目にかからないはずだという。あまり大きな鉢に移し替えず、小ぶりな鉢で小ぶりに育てると、花が大きく色鮮やかに咲く、と教えてくれた。こうして、大和路散策の旅の締めくくりは、この「絵日傘」と二人旅となった。奈良白毫寺から京都経由で新幹線に乗って東京の自宅まで、「博多来るときゃ独りで来たが帰りゃあ人形と二人連れ」。筑前博多節の一節だが、今回は「大和来るときゃ独りで来たが帰りゃあ椿と二人連れ」と洒落込んだ。

 

白毫寺参道で出会った「絵日傘」

 

Googleフォトサイトへはこちらから:春爛漫大和路散策

(撮影機材:SONYαRII + FE24-240)