生活基盤を東京に戻してしまうと、やはり関西にいるときのように気軽に古代史への時空旅が出来なくなってしまった。特に週末の時間を有意義に使えない。これが一番のフラストレーションだ。関東には「鎌倉があるではないか」と人は薦める。確かに首都圏で一番歴史を感じるところと言えば鎌倉。鎌倉は若き日には彼女とのデートコースであったし、今は親戚縁者の住む町なので時々訪れる町だが、あまり「時空旅」と言う視点で散策したことがなかった気がする。意外に知らないところが多い。「そうだ,鎌倉行こう」しばらくは鎌倉を探検することにしよう。
で、先日の源氏山、扇が谷、鶴岡八幡に続き、この連休、鎌倉初心者コース第二弾として高徳院の鎌倉大仏と長谷寺を訪ねた。しかし、時期を選ばないと鎌倉が静かな雰囲気の中で歴史を振り返り、思索を巡らすのにふさわしくない場所であることを、たちまち思い知らされる結果となった。
その混雑ぶりである。まず、普段なら余裕で座れる横須賀線の電車は、休日の今日は品川から既に満員。鎌倉駅に到着すると、一本しかないホームは下車した人々の群れで身動きが取れない。上りの電車を待つ人とぶつかりながら改札へ出るのに押すな押すなの渋滞。ようやく江の電ホームにたどり着くと、今度は電車待ちの列がホーム下まで並んでる。なんと車両の乗降口を示すラインに沿って人が何重にもとぐろを巻いて待っている。一本目の電車には満員で乗れず。15分待って次の電車にようやく乗れたが、最近珍しいほどのぎゅうぎゅう詰め。長谷寺駅でなんとか人をかき分け降りると、これまた出口に向かって渋滞。改札を出るのに5~6分ほどかかる。駅からの道は狭くてそこに車と歩行者が充満していてこれまた大渋滞。歩道など人がようやくすれ違い出来るほどしかない。当然車道を歩く人もでてくる。通りの両側は土産物屋がぎっしり...もうこれ以上記述したくないほどの大混雑。カオスとはこのことだ。長谷寺も高徳院ももちろん観光客でいっぱいだ。帰りはちょうどバスが来たので飛び乗り、一目散に鎌倉駅まで、と思ったが、甘かった。乗ったは良いが渋滞の中で立ち往生。動かない。鎌倉時空旅に最初から高いハードルが立ちはだかり、前途に暗雲が垂れ込め始めた。
鎌倉という町は、三方を山と谷に囲まれ、海に面した狭い町だ。守るに容易、攻めるの難しい、そのような土地だからこそ武家政権が幕府を開設、統治の拠点に選んだ訳だから。しかし、首都圏3000万人の人々にとって、手軽に出かけられる「歴史の町」として人気があり、休日ともなればこの狭い町に電車や車でどっと押し掛ける。明治以降は、静かな郊外の住宅地、別荘地であった町だけに、町中は交通機関もそれなりのトラフィックしか想定していない。切り通しと狭い道が特色の町だし、人気の江の電がいい例だ。こののどかな海岸線を走る単線のローカル電車に、怒濤のように押し掛ける観光客を許容できるキャパはない。狭い土地で拡張の余地もない。元々そういう風に出来てないのだ。
つくづく東京生活は、どこへ行っても大勢の人の波との戦いだ。移動も居住も食事も観光も休息も... 新幹線や高速道路が出来て郊外や地方の観光地へも簡単に行ける。それだけに軽井沢や富士山のようなリゾート地へ行っても人出だけは都心並みだ。シーズン中の京都の混雑も新幹線で2時間の首都圏からの人の流入が大きい。「心の休日」なんてキャッチコピーが心に響かない。鎌倉が世界遺産に選ばれなかった理由の一つに、この大渋滞問題があったとも聞く。鎌倉の住人にとっては迷惑な話だろう。
という訳で、いきなり愚痴の方が先立ってしまい、長谷寺の十一面観音も高徳院の阿弥陀如来(大仏)も、その混雑ぶりの印象が強すぎる分、参拝のご利益が薄れてしまったような気もする。いや、雑踏くらいでめげていてはいけない。ただ、よくよく世俗の欲望と煩悩の沼に足を取られた私のような凡人には、仏の道は遠い。
(1)長谷寺の十一面観音立像(長谷の観音様)
長谷寺の観音様は大和の長谷寺の観音様によく似た立ち姿で美しい。言い伝えではこの十一面観音像は奈良時代723年に二体造られ、一体を大和の長谷寺に、もう一体は海に流した。それが15年後に鎌倉に流れ着いてまつられたのが鎌倉長谷寺の観音様だと。しかし仏像の制作年代を測定してみてもこの伝承の真実性は疑わしいが、その由来、創建の歴史があまり解明されていない寺、仏像であるが故に、このような言い伝えが後世になって語られたのだろう。寺伝によれば長谷寺の開基は藤原房前、開山は徳道とされ、奈良時代の738年の創建とされているが、鎌倉時代から室町時代、江戸時代の建物や仏像が多く、中世以前の歴史は謎である。
大和の長谷寺は、平安時代に入ると観音信仰の霊場として、都の貴族たちの人気スポットとなり、長谷参りが盛んになった。一方、鎌倉時代に開かれた武家の町鎌倉に何時頃から観音信仰が盛んになり、誰がそのブームを支えたのか興味深い。武家の町らしく臨済禅の寺が多い土地柄だし、また日蓮宗発祥の地で日蓮宗寺院も多い。鎌倉はあまり商業地や町人の住む地域の少ない政治都市であったので、庶民による観音信仰が盛んになったとしても鎌倉幕府滅亡以降、室町時代のことであろうか。ちなみに大和長谷寺は現在は真言宗豊山派の総本山。鎌倉長谷寺はどの宗派にも属さない単立寺院である。長谷寺からは由比ケ浜が展望出来る。海の見える古刹というのも鎌倉ならではだ。
(2)高徳院の阿弥陀如来座像(鎌倉の大仏様)
一方、奈良東大寺の大仏様に並ぶ有名観光地である鎌倉の大仏様の方も、その創建の起源は謎に包まれている。創建時は真言宗、今は浄土宗である高徳院は、その開基、開山、時期を含めて不明である。大仏建立の由来についてもあまり多くの記録が残ってないと。吾妻鏡などいくつかの記録を寄せ集めてみると、創建当初は木造仏であったが、大風で仏殿もろとも倒壊し、再建したのが金銅仏である現在の大仏だとされている。やはり同時期に再建された大仏殿は、明応7年1498年の明応地震、津波で倒壊し、金銅仏のみが残った。以来500余年のあいだ露座のままとなったと言われている。
大仏鋳造にあたっては、当時日本で産出量が少なかった銅の確保が課題であったと言う。結局、中国の宋から多くの銅銭を輸入し、これを鋳潰して鉛を混ぜて使ったと言われている。一説に一人の僧が勧進元となり民衆の喜捨による再建であったと言われているが、これだけの金銅仏を鋳造する技術、宋からの銅銭の大量輸入、やはり時の権力者、すなわち鎌倉幕府のイニシアティブとコミットメントがなければ出来まい。しかし、それらに関する記述は残されていない。いったい何のために誰が建立したのか謎なのだ。ちなみに、鎌倉の大仏様は阿弥陀如来だ。奈良東大寺は盧遮那仏を本尊とする華厳宗で、鎮護国家思想の下にいわば国家事業として聖武天皇により創建された官寺である。鎌倉の大仏様は、浄土信仰、阿弥陀信仰の盛んになった平安時代の以降の創建なのだろうか。
ところで明応地震では、このように長谷が津波に見舞われ、大仏殿が流され倒壊している訳だから、今でも鎌倉の町は津波の警戒を怠ってはいけないということだろう。
長谷寺も大仏様もこのように大勢の人が、大混雑をものともせずに押し掛ける有名観光地なのに、その由来、歴史的背景がこれほど解明されていないことも珍しいのではないか。長谷観音様は奈良時代、平安時代にさかのぼる「大和由来」に思える節があるものの、それを示すきちんとした記録が見つかっていない。東国の武家の都に、上方の都の歴史に起源を求め、その文化との繋がりと信仰を移植しようとした痕跡なのだろうか? 週末に鎌倉に押し掛ける群衆にとっては、きっとそんな曰く因縁などどうでもいいのだろうが。
(鎌倉長谷寺の十一面観音立像:寺のHPから引用)
(大和長谷寺の十一面観音立像:寺のHPから引用)
(鎌倉の大仏様。高徳院阿弥陀如来座像。この正面からのアングルが一番見慣れた姿だ)
(鎌倉の大仏様。この角度から見ると末広がりの安定したフォルムに見える)
(大仏様の後ろ姿は少し猫背。なにか人間の苦悩を背負う姿に見える...)
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(撮影機材:Nikon D800E+AF Nikkor 24-120mm f.4)
で、先日の源氏山、扇が谷、鶴岡八幡に続き、この連休、鎌倉初心者コース第二弾として高徳院の鎌倉大仏と長谷寺を訪ねた。しかし、時期を選ばないと鎌倉が静かな雰囲気の中で歴史を振り返り、思索を巡らすのにふさわしくない場所であることを、たちまち思い知らされる結果となった。
その混雑ぶりである。まず、普段なら余裕で座れる横須賀線の電車は、休日の今日は品川から既に満員。鎌倉駅に到着すると、一本しかないホームは下車した人々の群れで身動きが取れない。上りの電車を待つ人とぶつかりながら改札へ出るのに押すな押すなの渋滞。ようやく江の電ホームにたどり着くと、今度は電車待ちの列がホーム下まで並んでる。なんと車両の乗降口を示すラインに沿って人が何重にもとぐろを巻いて待っている。一本目の電車には満員で乗れず。15分待って次の電車にようやく乗れたが、最近珍しいほどのぎゅうぎゅう詰め。長谷寺駅でなんとか人をかき分け降りると、これまた出口に向かって渋滞。改札を出るのに5~6分ほどかかる。駅からの道は狭くてそこに車と歩行者が充満していてこれまた大渋滞。歩道など人がようやくすれ違い出来るほどしかない。当然車道を歩く人もでてくる。通りの両側は土産物屋がぎっしり...もうこれ以上記述したくないほどの大混雑。カオスとはこのことだ。長谷寺も高徳院ももちろん観光客でいっぱいだ。帰りはちょうどバスが来たので飛び乗り、一目散に鎌倉駅まで、と思ったが、甘かった。乗ったは良いが渋滞の中で立ち往生。動かない。鎌倉時空旅に最初から高いハードルが立ちはだかり、前途に暗雲が垂れ込め始めた。
鎌倉という町は、三方を山と谷に囲まれ、海に面した狭い町だ。守るに容易、攻めるの難しい、そのような土地だからこそ武家政権が幕府を開設、統治の拠点に選んだ訳だから。しかし、首都圏3000万人の人々にとって、手軽に出かけられる「歴史の町」として人気があり、休日ともなればこの狭い町に電車や車でどっと押し掛ける。明治以降は、静かな郊外の住宅地、別荘地であった町だけに、町中は交通機関もそれなりのトラフィックしか想定していない。切り通しと狭い道が特色の町だし、人気の江の電がいい例だ。こののどかな海岸線を走る単線のローカル電車に、怒濤のように押し掛ける観光客を許容できるキャパはない。狭い土地で拡張の余地もない。元々そういう風に出来てないのだ。
つくづく東京生活は、どこへ行っても大勢の人の波との戦いだ。移動も居住も食事も観光も休息も... 新幹線や高速道路が出来て郊外や地方の観光地へも簡単に行ける。それだけに軽井沢や富士山のようなリゾート地へ行っても人出だけは都心並みだ。シーズン中の京都の混雑も新幹線で2時間の首都圏からの人の流入が大きい。「心の休日」なんてキャッチコピーが心に響かない。鎌倉が世界遺産に選ばれなかった理由の一つに、この大渋滞問題があったとも聞く。鎌倉の住人にとっては迷惑な話だろう。
という訳で、いきなり愚痴の方が先立ってしまい、長谷寺の十一面観音も高徳院の阿弥陀如来(大仏)も、その混雑ぶりの印象が強すぎる分、参拝のご利益が薄れてしまったような気もする。いや、雑踏くらいでめげていてはいけない。ただ、よくよく世俗の欲望と煩悩の沼に足を取られた私のような凡人には、仏の道は遠い。
(1)長谷寺の十一面観音立像(長谷の観音様)
長谷寺の観音様は大和の長谷寺の観音様によく似た立ち姿で美しい。言い伝えではこの十一面観音像は奈良時代723年に二体造られ、一体を大和の長谷寺に、もう一体は海に流した。それが15年後に鎌倉に流れ着いてまつられたのが鎌倉長谷寺の観音様だと。しかし仏像の制作年代を測定してみてもこの伝承の真実性は疑わしいが、その由来、創建の歴史があまり解明されていない寺、仏像であるが故に、このような言い伝えが後世になって語られたのだろう。寺伝によれば長谷寺の開基は藤原房前、開山は徳道とされ、奈良時代の738年の創建とされているが、鎌倉時代から室町時代、江戸時代の建物や仏像が多く、中世以前の歴史は謎である。
大和の長谷寺は、平安時代に入ると観音信仰の霊場として、都の貴族たちの人気スポットとなり、長谷参りが盛んになった。一方、鎌倉時代に開かれた武家の町鎌倉に何時頃から観音信仰が盛んになり、誰がそのブームを支えたのか興味深い。武家の町らしく臨済禅の寺が多い土地柄だし、また日蓮宗発祥の地で日蓮宗寺院も多い。鎌倉はあまり商業地や町人の住む地域の少ない政治都市であったので、庶民による観音信仰が盛んになったとしても鎌倉幕府滅亡以降、室町時代のことであろうか。ちなみに大和長谷寺は現在は真言宗豊山派の総本山。鎌倉長谷寺はどの宗派にも属さない単立寺院である。長谷寺からは由比ケ浜が展望出来る。海の見える古刹というのも鎌倉ならではだ。
(2)高徳院の阿弥陀如来座像(鎌倉の大仏様)
一方、奈良東大寺の大仏様に並ぶ有名観光地である鎌倉の大仏様の方も、その創建の起源は謎に包まれている。創建時は真言宗、今は浄土宗である高徳院は、その開基、開山、時期を含めて不明である。大仏建立の由来についてもあまり多くの記録が残ってないと。吾妻鏡などいくつかの記録を寄せ集めてみると、創建当初は木造仏であったが、大風で仏殿もろとも倒壊し、再建したのが金銅仏である現在の大仏だとされている。やはり同時期に再建された大仏殿は、明応7年1498年の明応地震、津波で倒壊し、金銅仏のみが残った。以来500余年のあいだ露座のままとなったと言われている。
大仏鋳造にあたっては、当時日本で産出量が少なかった銅の確保が課題であったと言う。結局、中国の宋から多くの銅銭を輸入し、これを鋳潰して鉛を混ぜて使ったと言われている。一説に一人の僧が勧進元となり民衆の喜捨による再建であったと言われているが、これだけの金銅仏を鋳造する技術、宋からの銅銭の大量輸入、やはり時の権力者、すなわち鎌倉幕府のイニシアティブとコミットメントがなければ出来まい。しかし、それらに関する記述は残されていない。いったい何のために誰が建立したのか謎なのだ。ちなみに、鎌倉の大仏様は阿弥陀如来だ。奈良東大寺は盧遮那仏を本尊とする華厳宗で、鎮護国家思想の下にいわば国家事業として聖武天皇により創建された官寺である。鎌倉の大仏様は、浄土信仰、阿弥陀信仰の盛んになった平安時代の以降の創建なのだろうか。
ところで明応地震では、このように長谷が津波に見舞われ、大仏殿が流され倒壊している訳だから、今でも鎌倉の町は津波の警戒を怠ってはいけないということだろう。
長谷寺も大仏様もこのように大勢の人が、大混雑をものともせずに押し掛ける有名観光地なのに、その由来、歴史的背景がこれほど解明されていないことも珍しいのではないか。長谷観音様は奈良時代、平安時代にさかのぼる「大和由来」に思える節があるものの、それを示すきちんとした記録が見つかっていない。東国の武家の都に、上方の都の歴史に起源を求め、その文化との繋がりと信仰を移植しようとした痕跡なのだろうか? 週末に鎌倉に押し掛ける群衆にとっては、きっとそんな曰く因縁などどうでもいいのだろうが。
(鎌倉長谷寺の十一面観音立像:寺のHPから引用)
(大和長谷寺の十一面観音立像:寺のHPから引用)
(鎌倉の大仏様。高徳院阿弥陀如来座像。この正面からのアングルが一番見慣れた姿だ)
(鎌倉の大仏様。この角度から見ると末広がりの安定したフォルムに見える)
(大仏様の後ろ姿は少し猫背。なにか人間の苦悩を背負う姿に見える...)
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(撮影機材:Nikon D800E+AF Nikkor 24-120mm f.4)