時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

歴史の現場を巡る旅 旅のお供はいつも電脳写真機

福岡と博多 ツイン・シティーの栄枯盛衰 (福岡・博多シリーズ第1弾)

2010年08月11日 | 福岡/博多/太宰府/筑紫散策
 福岡と博多はそもそも別の街であったことをどれだけの人が知っているだろう。博多っ子ですらよくわかってない人がいるくらいだ。福岡市民もあんまり考えたことがない人が多い。知らなくても日常の生活に支障はないからどうでもいいのだろう。しかし,そこには栄光の歴史と皮肉な運命と、衰退からの復活と再生のシナリオが隠されている。いろいろ教えられることがいっぱい隠れている。いざ時空旅へ!

 博多は中世に繁栄した我が国随一の国際貿易都市である。さかのぼれば太宰府の外港、那の津に起源を発し、大陸との重要な交通の要衝として発展した。遣唐使船もここ那の津から出航し、那の津へ戻って来た。平清盛は太宰大弐の官位を自ら要求し、ここに袖の湊を開き宋との貿易を独占した。後に元寇で博多は戦火に焼き払われるも、謝国明などの華僑商人等によって復興し、大友氏、大内氏、島津氏の利権争いの場となる程の繁栄を極めた。さらに戦国時代の戦乱で一時衰退したが、豊臣秀吉によって復興された。神屋宗湛、島井宗室、大賀宗九などの豪商が活躍した時代となる。「博多の黄金の日々」である。このような1300年余の歴史を持った街である。

 今の博多の町割りはこの秀吉によってなされたもので、「流れ」という通りを南北に走らせた碁盤の目のような縄張りは「太閤割り」と呼ばれる(右の博多古地図参照[出典:福岡県立図書館])。秀吉のお膝元、大坂の船場の町割りと同じである。今でも博多祇園山笠の「流れ」はこの太閤割りに基づいている。Hsam1_4

 一方、福岡は関ヶ原の戦い以降、豊前中津から国替えで入国してきた黒田長政によって新たに開かれた城下町だ。400年余の歴史は長いが、博多に比べれば歴史の浅い町だと言えよう。

 黒田長政は筑前入国に際し、最初は博多、箱崎の東方に小早川隆景が築いた名島城に入った。しかし手狭で52万石の大藩の城下町としては拡張性に欠けるとして、新たな場所を探した。結局、那珂川を隔てた西の警固村福崎に城を構えることとなった。ここを黒田一族の出身地備前福岡にちなんで、福岡と名付けた。

 城は天守閣を設けず、石垣も一部にしか用いない平城で、一見無防備な城だ。しかし西は草香江の津を背に(その一部が今の大濠公園)、北は城下町を挟んで海に面し、東は那珂川を隔てて博多の街が。南は山、という攻めにくい城となっている。戦国の世の山城とは違った新しい時代に即した、いかにも城づくりの名手,如水、長政親子らしい合理的で優美な縄張りだ。

 ちなみに福岡城(舞鶴城と呼ばれている)は太宰府の筑紫館(ちくしのむろつみ。別名鴻臚館)があった所に築城されている。戦後、城内の旧平和台球場跡から当時の館跡が発見され、現在も発掘が続いている。ここは博多湾を見下ろす高台に位置していた。何時の時代にも権力者は高台に陣取るものらしい。

 城下には高級家臣団が住む大名町、下級武士が住む地行町、唐人町、新たに樋井川の西に開発された西新町などが形成され、さらに豊前中津や播州から商人や職人を集め、大工町、呉服町(博多の呉服町とは別)、簀子町など、博多とは異なる町人町を配している。Image001_5

 このように博多と福岡は全く性格の異なる都市であり、発生の時期も経緯も異なっている。那珂川の中洲を隔てて並存した日本では珍しい双子都市である。ちなみに、博多の東は石堂川を隔てて箱崎,千代の松原があり、ここは箱崎八幡宮を中心に形成される寺社町で、福岡とも博多とも一線を画した地域であった(左の福岡城下図参照[出典:九州大学文化史研究所])。

 江戸時代に入ると鎖国令により博多の国際貿易港としての役割は終わり、その役目は肥前長崎に移る。あれ程鼻息の荒かった自治都市博多も、徐々に黒田藩の城下町の一角をなすようになる。海外に雄飛した博多の豪商は姿を消してゆき,長崎をその活動の場とするか、新しい国主黒田氏の御用商人となった。徳川幕府は博多を天領とはせず,黒田の支配にまかせた。その黒田も隣の肥前佐賀藩の鍋島とともに幕府の命により長崎勤番の任務につき,博多より長崎の警備に多くの時間と費用をかけた。またそこで得られた海外の知識や技術や貿易利権を藩の権力機構に内包していった。

 明治になって、城下町福岡と商人町博多は合併し福岡市となる。議会で一票の差で新都市の名称は「福岡市」となったという。今は博多の名は区制移行後の「博多区」とJR「博多駅」に残すのみであるが、福岡出身者は外へ行くと「私は博多っ子だ」といっている。依然として博多と福岡はどちらでも通用する名称でどちらでも良いのである。ただ、うんちく話の好きなご仁に格好の題材を提供しているわけだ。このブログのように...

 しかし、今でも博多と福岡の違いは祭りにその痕跡を残している。博多祇園山笠は博多の祭りで那珂川を渡って福岡部にはつい最近まで入らなかった。博多総鎮守の櫛田神社の祭りだ。今でこそ新天町辺りに飾り山が並べられているが、世が世なればこれは有り得ないことだった。
もう一つの博多を代表する祭り「どんたく」も博多商人の祭りだ。そういえば博多松囃子もそうだ。祭りが多いのは博多の特色だ。今はお囃子のパレードは福岡市中央区の中心部天神、渡辺通をにぎやかに通るが、ここは博多ではない。城下町福岡の東の端っこだ。しかしここから西へは祭りの列は進んでゆかない。そういえば城下町福岡の祭りって聞いたことない。

 博多っ子はプライドが高く、福岡の人間が「博多は...」とか、「博多じゃあ...」と言うと、「ナンバ言いよおとか」「博多は山笠のあるけん博多たい」と、お定まりのセリフが返ってくる。県外へ行って「ご出身は?」と聞かれると、つい「博多です」と言ってしまう。何となく「福岡です」と言うと通りが悪い気がしてしまう。あるいは「福岡のどこですか?」と更問いが来るのがめんどくさい。しかし、那珂川と石堂川に挟まれた博多以外の「福岡市」で生まれ育った人はなんか「博多出身」と言うことに引け目を感じる。東京に住んでるからといって皆が「江戸っ子」という訳ではないのと同じ感覚だ。

 話は変わるが筑前福岡藩は明治維新に乗り遅れた藩である。明治新政府には福岡出身者からは重鎮も出ず、九州の中でも長崎や熊本、小倉、門司に比べて重要度の低い通過都市の悲哀を味わうことになる(福岡がこんなに発展するのは戦後のことである)。教育機関でも旧制高等学校ナンバースクールは第五高等学校は熊本。第七高等学校は鹿児島だ。ただ九州帝国大学の誘致に成功したのは当時の福岡としては快挙と言わざるを得まい。

 そもそも幕末には福岡藩には家老の加藤司書や平野国臣、月形洗蔵などの筑前勤王党の志士がキラ星のように活躍し、薩摩や長州に並んでいた。長州征伐では幕府軍の侵攻を停めさせ、薩摩と長州の仲を取り持つ役割を果たすなど、坂本龍馬の功績とされている薩長連合を画策するなど幕末激動の時代の主役の一翼を担っていた。しかし、これらの多くの志士達は明治維新を2年後に控えた年に、藩によって加藤司書はじめほぼ全員が粛正されてしまう。野村望東尼が姫島に流されたのもこの時だ。

 黒田は外様とはいえ、関ヶ原で徳川の東軍に組し、長政は東軍勝利に貢献したことで筑前52万石を与えられている。いわば徳川恩顧の大名である。薩摩の島津や長州の毛利が西軍の残党であったのとは異なる。この点は同じく外様であったが徳川に土佐一国を与えられた山内に似ている。山内容堂が最後まで佐幕か倒幕か迷いに迷っていたのと同じ状況だ。倒幕で活躍した武市半平太や坂本龍馬などの土佐勤王党はほとんどが徳川に滅ぼされた長宗我部の遺臣の子孫、山内レジームでの下士、郷士である。考えてみれば怨念とは恐ろしいものだ。関ヶ原の恨みを260年後に晴らした訳だ。

 黒田の最後の殿様、長ひろ(さんずいにはく)は薩摩島津からの養子で開明的な君主であったが、結局は倒幕には組しなかった。日本の近代化の必要性、勤王の志は理解したものの、いわば藩内の過激派、筑前勤王党一派を最後には粛正し、徳川幕府に忠誠を尽くした。最後の将軍徳川慶喜の大政奉還の数ヶ月前、明治維新の2年前のことである。激動の時代のリーダーのあり方、時代を見抜く見識、それによって的確な判断をすることの難しさを教えている。土佐の山内と対照的な結末だ。

 このように歴史をひもとくと、この川を隔てた二つの双子都市は、奇しくもともに苦渋を味わった。博多は鎖国政策により、かつての日の本随一の国際貿易都市としての黄金の日々を失い、福岡は明治維新に乗り遅れたため、地方通過都市への転落を余儀なくされ、福岡人は西南の雄藩出身者の後塵を拝することとなった。栄枯盛衰は歴史の必然とはいえ皮肉なものだ。

 しかし、戦後の福岡の発展には目を見張るものがある。今や名実共に九州随一の大都市に発展し、九州の盟主に躍り出た福岡市。特にアジアの時代、21世紀に入って、福岡/博多が再び東アジアの中核都市として世界に開かれたオープンマーケットプレースになる日が来るだろう。東京を向いた「支店文化の町」ではなくこの歴史的双子都市が今度はグローバルな舞台設定の中でどのように発展してゆくのか楽しみだ。