時空トラベラー THE TIME TRAVELER'S PHOTO ESSAY

歴史の現場を巡る旅 旅のお供はいつも電脳写真機

日帰り邪馬台国ツアー

2009年07月07日 | 日本古代史散策

P7040077 時空トラベラーにとって、日本における行ってみたい場所ナンバーワンは、なんと言っても邪馬台国だ。
そもそもどこにあるのか未だに不明で、始めからミステリーツアーになる事がはっきりしている。

そのワンダーランド行きの列車が出るプラットフォームは、残念ながらロンドン/キングスクロス駅プラットフォーム9と3/4番線ではなく、近鉄大阪上本町駅プラットフォーム7番線だ。もう一つは(九州に邪馬台国があると考える場合には)西鉄福岡天神駅のプラットフォーム2番線。今回は上本町から出発する事としよう。しかし直通の列車はなく、大和八木経由で畝傍御陵前で下車。そこからは、とある著名な考古学研究所で、時空列車に乗り換える事になる。畝傍山の麓にある写真の建物がそれだ。

この研究所には幾多の考古学的発掘の成果が展示されており、ヤマトの歴史旅に必要な「どこでもドア」がいたるところに用意されている。まずホールにある大和盆地のジオラマがあり、その案内板のボタンを押すと邪馬台国方面への路線図が現れる。薄暗い展示ホールへと移動すると、三輪山の山麓に広がる纏向遺跡と箸墓古墳のコーナーがあり、そこが邪馬台国への乗換駅に通じるドアが隠れている。ここから先は時刻表も停車駅もない旅となる。

まずは箸墓古墳に向かうとしよう。卑弥呼の墓ではないかと言われている古墳だ。ここは宮内庁の参考陵墓に指定されている為、多くの発掘調査は期待出来ない。しかし国立民俗学博物館が進めている放射性炭素年代測定法により、その古墳周辺部から出土した土器の炭素測定を行った結果、箸墓古墳が西暦240年から260年、すなわち邪馬台国の女王卑弥呼の時代に築造された古墳である事が証明された、という報告が考古学界に衝撃を与えている。7月4日の日本経済新聞の文化欄にその内容が解説されているが、中国の魏志倭人伝よれば卑弥呼がなくなったのは247年であるから、これらを突き合わせると、やはり箸墓古墳は卑弥呼の墓であった可能性が高い、と。これが事実であれば長く論争されてきた邪馬台国位置論争は決着を見、三輪山山麓に広がる大和古墳群や纏向遺跡は邪馬台国の遺構である事がほぼ確定する事になる。

しかし、この研究には、少ない試料での結論付けは疑問、などの批判も寄せられている。専門家ではないので詳細に立ち入るすべもないが、少なくともここ大和地方、とりわけ、古代より神聖な地域とされてきた三輪山の麓一帯に弥生後期から古墳時代初期に強力な王権を伴って成立した都市(国家)が存在していた事は事実だろう。その王権は必ずしも武力的な権威によるものではなく、宗教的、呪術的権威をもとに周辺の国々との連合により共立されたものだったのかもしれない。そこを邪馬台国と呼ぶか否かは別として。

さらに歩を進めると眼前に纏向遺跡が広がる。とうとう邪馬台国に足を踏み入れる? まだほんの一部しか発掘されていないが、その広大で人工的に開発されたまた都市域がただの古代集落ではない事を予感させる。三輪山という神聖な地域、その神域を避けるように散在する大和古墳群。巨大な初期前方後円墳である箸墓古墳。古代の国の有様が目の前に現れる。佐賀の吉野ヶ里遺跡のように、もともと工業団地誘致目的に開発が始まり、あたりに住宅も少なかったため、発掘により環濠集落の全容が明らかにされたのとは異なる。この地域は一つには都市化が進み、一方では宮内庁所管の参考陵墓が散在する地域である為、一気に発掘が進みにくい。しかし、この古代の都市跡には邪馬台国を中心とした当時の倭国の全容解明の大きな可能性が感じられる。

一世紀には今の福岡市にあった奴国が倭国を代表する国として、その国王が後漢の光武帝から金印を得ている(漢委奴国王印)。後漢書東夷伝という当時の史書にその記述があり、実際にその金印が奴国近くの志賀島で発見される。これなどは史書の記述が具体的な考古学的発掘物により証明された稀有な例だろう。従って当時の倭国の中心は北部九州にあったのだろう。しかし200年ほどの間に北部九州文化圏を凌駕する文化圏が近畿圏に出現したとも考えられる。倭国の中心が九州から近畿へ移ったのだろう。邪馬台国が九州にあって、何らかの理由で近畿に遷移したのかもしれない。あるいは、そもそも近畿圏に出現した国が北部九州を優越する国に発展し、それが邪馬台国であったのかもしれない。

一方、日本書紀や古事記などの8世紀初頭に編纂された我が国の官製の史書によれば、神代に日向の高千穂に天孫が降臨してきて我が国を創造した事。神武天皇が日向から東征し大和を平定した事が語られている。これらが歴史上の事実ではないにしても、日本の文明は、何らかの理由で西から東へと発展していった事実をうかがわせるものなのだろうか。一方、天孫降臨神話は記紀編纂当時、大和朝廷の権威が九州の南部熊襲の地域にまで及ぶ事となったことから、皇統の神秘性を演出する為に、わざわざ九州に起源を求めて脚色された神話であるする説。また神武天皇の東征神話も、7世紀に起こった壬申の乱で後の天武天皇、すなわち大海人皇子が近江を攻め、大和を平定したルート、史実に沿って時代を1000年以上さかのぼって脚色したものだ等、様々な解釈があり、どれを信じるべきか。とにかく謎は謎を呼ぶ。

日本の建国の歴史にはまだまだ明らかにされていない事実が山ほどあるであろう。歴史学者は文献による考証を試みるが、現存する当時の文献はほぼ中国の史書しかなく、我が国の歴史書である日本書紀や古事記は、先に述べたようにようやく8世紀になって、大和朝廷が天皇を中心に政権基盤を確立した時代の(また、その正統性を裏付ける為の)史書であり、その内容にはかなりの解釈が必要である。一方、考古学的成果は、文献研究を主とした歴史研究の不足部分を補い、証明する事を試みるが、必ずしも大きな時間的空白をうめるだけの証拠は上がっていない。いまだ決定的なものは見つかっておらず、邪馬台国の位置や卑弥呼の墓についても状況証拠の積み上げで説明しようとしているにすぎない。先ほどの倭の奴国の金印に匹敵する魏の印が発掘されれば話は別だが。

私は歴史学者でもなければ考古学者でもない。ただのカメラぶら下げた時空トラベラーである。新しい事実を知る事に心は踊るが、解き明かせない謎が多い方が楽しい。幸いな事に一気に謎が氷解する事は当面なさそうだ。であればまた不思議なプラットフォームから出る列車で、未知のデスティネーションに向けて出発するロマンと興奮という楽しみを失う事はないだろう。P7040066