1979年春、頭の悪い男子高生だった僕は、シングル発売されたザ・クラッシュの「アイ・フォート・ザ・ロウ」に夢中になり、百万回聴いた。
彼らのアルバム「白い暴動」や「動乱」はすでに聴いていたが、このシングルは格段に聴きやすく、耳になじんだ。
それもそのはず、この原曲は、バディ・ホリーと別れ、新しいメンバーを加えて活動を再開したザ・クリケッツの曲(1959年)で、その後ボビー・フラー・フォーがカバーしてスマッシュ・ヒット(1965年)させた、アメリカのオールディーズだった。
あとから知ったのだが、セカンドアルバム「動乱」のミキシングのためアメリカに渡ったジョー・ストラマーとミック・ジョーンズがサンフランシスコのスタジオにあったジュークボックスでたまたまこの曲を聴き、レパートリーに加えたのだそうだ。クラッシュのカバーはいわゆる「孫引き」にあたっていた。
映像は1978年末のライブで、80年に公開されたクラッシュのセミドキュメンタリー映画「ルードボーイ」に組み込まれている。
約20年後の2000年、日産エクストレイルのCMにこの「アイ・フォート・ザ・ロウ」が使用され、話題を呼んだ。約3年間も使われたのは、人気があったからだろう。もう中年に差し掛かり、キャデラックを乗り回していた僕も、観るたび心躍ったものだ。
ほかにも沢山のカバーが生まれているが、2曲だけ取り上げておく。
ストレイ・キャッツのロカビリー・バージョン(1989年)と、パブ・ロックの雄ダックス・デラックスのシングル(1975年)だ。
日本独自のシングル・カットだった。
NPO法人なごやか理事長は県国保連から振り込まれた介護職員慰労金を事務員さんに全額、銀行から下ろしてきてもらうと、居合わせた私も加えた3人で仕分けして封筒に入れ、のりで封をした。では事業所ごとに届けましょうか、と私が申し出ると、少し前からなにか思案顔だった彼が思いもよらないことを言い出した。
「せっかく渡すのなら、感謝の言葉を添えたいと思うんだ。」
私は聞き返した。
「宮城分は90名、全員にですか?」
「そう、全員に。」
とんでもないことを言い出したものだ、と私の顔に書かれていたのだろう、理事長は重ねて言った。
「大丈夫、一言ずつなのですぐに終わるから。雑誌でも読んでいてくれるといい。」
お金の入った封筒の山をとんと机に置くと、彼は早くも書き始めた。
『慰労金』ボールペンで、筆圧強めに、封筒の左上に大きく横書きした。
『高梨管理者様』
私からか。
理事長はサラサラと書き上げると、封筒を私に差し出した。「まず、きみにだ。」
『きみのおかげでなめとこデイサービスは市内有数の繁盛店になりました。あらためて感謝の念を伝えます。ありがとう。』
理事長は猛烈なスピードで書き続けた。
『きみの笑顔は行く先々をぱあっと明るくする。その誠実な笑顔こそ、利用者様の求めるものです。』
『気づいていないようだけど、きみは最高の管理者です。』
『この理事長にだまされたと思いながらついてきたら、民間のトップをとりましたね。ヘンゼルとグレーテルより不思議な物語でしょ?』
『まさか「三景島居宅の次ちゃん」と一緒に仕事をすることになるとは思ってもいませんでした。きみの元上司には絶対負けません!』
『きみに一目ぼれして何年が経ったろう?きみのやさしさ、丁寧さは全職員の手本です。』
これは私が入職する以前に、理事長が珍しく他法人から引き抜きを行なったという男性CMへだった。
『とうとうここまで来ましたね。よく頑張りました。きみが初めてホームへ来た日のことは今でも憶えています。』
これは最近、管理者に就任した方へ。なごやかへいらした時はまだなんの資格も持っていない、介護未経験者だったそうだ。
『きみは特別な職員です。一つ難があるとすれば、面食いなところかな。』
それ、セクハラじゃありませんか?
あっという間に、理事長は90枚を書き上げた。
一枚の書き損じもなかった。
私は怖れを感じた。
今年4月、新型コロナウイルスの感染拡大に伴う緊急事態宣言を受けて新潟県の燕市は、帰省を自粛している学生を支援しようと、地元産のコシヒカリ5キロや布製マスク等の詰め合わせセットの送付を始めた。いい取り組みだと感心した。
そして、このけせもい市は何をしているのか、と思った。
地元出身の学生は、たとえUターンしようがしまいが、少子高齢化の中で、いわばみなの宝物だ。
昔から観光に力を入れている本市は、来る方には優しいが、一方で、出て行く方々にはひどく冷淡に思える。
ご結婚などで本市を出た方々に、暑中見舞いの一枚も出してもよかろうに。
慣れない土地でご苦労されながらもひるまず、そこに根ざし、やがて明るいヒマワリのように大輪の花を咲かせて、ふるさとである本市のことをいつまでも誇らしく語り継いでくださる、大切な方々に対して。
それがやっと本市でも同様の取り組みが始まった。
市の広報紙を読んだ帰省中の娘が声を上げた。
「市外に出ている学生って、私もお兄ちゃんも対象じゃない!
どれどれ、何がもらえるのかな。5種類のセットから選べるのか。
あれ、パパの大好物の、横田屋本店さんの海苔佃煮も入ってるよ。あ、私のTKG(卵かけご飯)のお供の、大菊さんのふりかけも。これさ、届いたらパパに佃煮あげるから。」
いや、いいよ、自分で買うから。でも、その申し出はありがたく受け取っておくね。
コロナ禍で日本での公開が延期になっていたローランド・エメリッヒ監督の新作「ミッドウェイ」が9月11日にロードショー公開される。
先日「赤城」の項でも書いたが、ミッドウェイ海戦は、日本海軍の花形であった第一機動部隊の航空母艦赤城、加賀、飛龍、蒼龍の計4隻が、暗号を解読して待ち構えていたアメリカ軍によって撃沈され、以後太平洋戦争の主導権がアメリカに移った、大敗北である。
赤城、加賀、蒼龍が爆撃・雷撃により被弾炎上した後、残った飛龍は第二航空戦隊司令官山口多聞少将の指揮により積載機の攻撃で敵空母ヨークタウンを大破(のちに沈没)させたものの、空母エンタープライズからの攻撃で炎上、山口少将と加来艦長は総員を退艦させ、二人は艦と運命を共にする。飛龍は駆逐艦巻雲によって雷撃処分された。
「ミッドウェイ」で山口少将を演じているのは、浅野忠信。
2004年、小津安二郎生誕100年を記念して製作された台湾映画に主演した際のインタビューで、彼は小津映画をそれまで観たことがなかったと発言していて愕然とさせられたが、この「ミッドウェイ」では美しい日本人を凛と演じている。
下は古いアニメーション(1971年)。開始後7分から9分までが同一のエピソード。さすがに皇居の方角への遥拝と万歳三唱は「ミッドウェイ」では割愛されている。山口少将が渡した形見の戦闘帽は、江田島の海上自衛隊の敷地内で展示されているという。
NHKを観ていると、時々「あの日、何をしていましたか?」というキャンペーン動画が流れる。少し考えているうちに、決まって涙が流れてくる。完全に、PTSDだ。
のんちゃんの、透明なまなざしで問われては。
あの時一緒にいたO管理者、そのあと僕のすることを近くで見ていたミス・エイスワンダーやざしき童子、復旧と再建にやっきになり放ったらかしにした子供たち。
彼らはどう感じていただろう。
きっと、軽蔑の満点カードをもらっているに違いない。
でもね、僕はその時その時でいつも一生懸命だった。
ジブンをカンジョウに入れたことは誓って一度もないよ。
ああ、これも言い訳か。