十代の頃から願っていた書斎を、30歳で運よく実現した。とにかく嬉しかったし、満足していた。
ところが今や、膨大な量の蔵書が並んだその書斎をどう畳もうかと頭を悩ませている老境の自分がいる。
二人の子供たちには全く興味のないジャンルの書籍ばかりで、残されても困ることは目に見えている。
かと言って、食べるものを削ってまでして買い求めた本を捨てるなど、僕には到底できない。
売るにしても、アマゾンが出現して以来、探し物は飛躍的に入手しやすくなったものの、その分、専門書の価値・価格は暴落と言っていいほど下がっている(註:高く売りたいということではない)。
さてどうする。
先日、ジョン・フォード一座総出演の「果てなき船路」(1940年)について触れた際に、確認のため関連書をいくつか書斎から取り出した。
「オニール一幕物集」昭和31年、新潮文庫刊
「seven plays of the sea」1972年、ヴィンテージブックス社刊(ペーパーバック)
「現代演劇№10 特集ユージン・オニール」1989年、英潮社刊
それに、映画の市販ビデオ(現在はDVDが出ている)。
この古色蒼然たる4アイテムを並べると、幅は7.5センチ。
この、わずか7.5センチを処分するかどうか考えるだけで、額に嫌な汗がにじんでくる。
愛書家とは、かくも業が深いものなのだ。
「これまで建設した中で最大の施設の開所式を終え、来賓や応援の職員を送り出すと、急に静寂が訪れた。
開所はゴールではなく、スタートだ、明日からしっかり施設運営を頑張ろう。
そう自分を鼓舞しながら、ふと後ろを振り返ると、グループホーム虔十のY管理者が一人立っていた。
大変な盛況でしたね、おつかれさまでした。
親身なねぎらいの言葉をもらってやや感傷的な気分になった僕は、彼女を促がし、改めて施設内をくまなく案内した。
新しい工夫や既存の施設から持ち込んだノウハウを簡潔に説明するたび、勝手を知る相手からは的確な感想や質問が返ってきた。
歩きながら、あるいは立ち止まって、そんなやり取りを重ねているうちに、妙な既視感に襲われた。
これはいったいなんだったろう。
思い出せないまま、Y管理者を見送った。」
「その夜、思い当たった。
20年以上前に観た、NHKのドキュメンタリーシリーズ「ルーブル美術館」(1985年放映、全13回)だ。
日英仏の有名俳優の男女一組が各回の案内役を務めるという、バブル期の入口に作られただけある豪華な内容だった。
とりわけ第3回(と第10回)は大問題作「愛の嵐」(1977年)で共演した名優ダーク・ボガードと名花シャーロット・ランプリングが出演しており、よくこの企画が通ったものだとめまいがした。
この二人がサモトラケのニケ像やミロのビーナスについて対話しながらルーブルの館内を巡る。
本当に素敵だった。」
「愛の嵐」より
ビートルズのカバー曲はそれこそ星の数ほどあるけれど、中でもとりわけ気に入ってよく聴いたのが、モンスーンの「トゥモロー・ネバー・ノウズ」だ。
インド系イギリス人の歌手、シーラ・チャンドラが1982年にモンスーン(バンド)名義で発表したバージョン。
アルバム「リボルバー」(1966年)収録の、ジョン・レノンが東洋思想の影響下で書いたサイケデリックな曲を、インド系のバンドがカバーするというアイディアと静謐な歌声に、エスニック音楽が流行していた当時でもひどく驚いた。
これを流しながらヨガをやれたらな、と思ったものだった。
トゥモロー・ネバー・ノウズ
(明日はわからない)
心のスイッチを切り
リラックスして流れに漂え
それは死ぬことではない、それは死ぬことではない
あらゆる考えを打ち捨て
虚空に身を任せよ
それが輝くこと、それが輝くことだ
しかれば内なるものの意味がわかるかもしれない
それが存在すること、それが存在することだ
愛はすべてで、愛はすべてのひとびと
それが知ること、それが知ることだ
無知や性急が死者を悼むことがあったとしても
それが信じること、それが信じることだ
けれども、夢の色に耳を傾けよ
それは失われない、それは失われない
この実在というゲームを演じよ
はじまりの終わりまで、はじまりの、
はじまりの、はじまりの、
はじまりの、はじまりの
高橋幸宏によるカバー(1988年)
栄養士兼調理担当のYさんのご結婚が決まると、NPO法人なごやか理事長は転居による退職の日まで法人本部へ異動して、これまでの献立データ等をまとめるよう命じた。
ところが、彼女の後任が突然仕事を放り出し、責任感の強いYさんはみなが困っているだろうから以前の職場に戻してほしい、と理事長に願い出た。
理事長は彼女の話をひと通り聞いてから、口を開いた。
「きみ、NPO法人なごやかの花嫁を、赤い手で嫁がせるわけには行かないじゃない。」
居合わせた私も、Yさんも、押し黙ってしまったのにあわてたのか、彼は顔を赤らめながら続けた。
「こんな名セリフ、『ゴッドファーザー』にもないと思うな。ここは僕の言い分を通させてくれない?」
彼女はコクリと頷いた。
「フレドー、あんたは兄貴で大好きだ。だがな、二度とファミリーに敵対する者の肩を持つな、絶対にだ。」
『ゴッドファーザーPARTⅡ』より
全米で人気を博したテレビドラマシリーズ「ザ・ホワイトハウス」(1999年~2006年)の中で、再選を果たした大統領へ就任演説の作成を依頼された新任のスピーチライターが言う。
「大統領、スピーチライターと雇い主の間にはパートナーシップが芽生えるんです。
好みがわかってくる。
どこで句読点を打つのが好きか、どの言葉が嫌いで、どの言葉が好きか、なぜ『手段』という言葉が嫌いで、『困惑』という言葉が好きか、まるでジャズ・ミュージシャンのように―」
「名前を思い出せないが、きみは私をデートに誘っているのか?(笑)」
「いいえ、いずれお誘いします。」
「わかった。」
「では失礼します。」
*
NPO法人なごやか理事長の執務室へ入って行くと、理事長が妙な表情を浮かべているので、どうしたのですか、と尋ねた。
彼は机の上にある二つの可愛らしい紙袋を指し示した。
「午前中にグループホームジョバンニ一関の運営推進会議に出席して、帰り際に管理者と事務主任から少し早いのですが、とバレンタインデーの義理チョコをもらったんだ。
それがね、こちらの(と手に取って見せて)お菓子は、昨日出張帰りに娘へお土産にと買ってきたものと同じシリーズだし、もう一つの方も、いつも期間限定の商品が出るたび買ってくるもので、心底驚いたというか、よくよく観察されているなあ、と(笑)」
「介護福祉には様子観察や気づきはなくてはならないものだけど、それが優れているあのホームの入居者様は幸せだなと思う。そして、やっぱり僕はあちらの10人目の利用者のようだ。」
私は後ろを向いて、笑いをこらえた。
実は私もすでにプレゼントを準備していた。
理事長が愛してやまない「星の王子様」のチョコレートだ。
虔十デイサービスのH管理者はビートルズのマグカップを買ったと言っていた。
理事長、あなたの好みはもはや私たち職員にすべて把握されていますよ!