seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

劇中歌

2020-08-16 | ノート
 昔の芝居には劇中歌がよく使われたものだ。今、思い返せば不思議なことだが、唐十郎にしろ、別役実、佐藤信など、当時よく見た大先輩世代の芝居にも必ず劇中歌が唱われていたものだ。
 その淵源を辿ることは私の手に余ることだし、このノートの目的はそこにはないのではしょるけれど、遡れば浅草歌劇やエノケン、ロッパの芝居にも歌はつきものだった。松井須磨子だって、「復活」の劇中で「カチューシャの唄」を唱って大スターの座を不動のものにしたのだ。
 そもそも、能楽、歌舞伎、文楽など芸能の源には歌舞音曲がその始まりから重要な要素としてあった、と思えば不思議でも何でもないのだろうが。

 前置きが長くなってしまったが、私が若い頃に出ていた舞台でも多くの歌が唄われた。そのほとんどは台本も手元になく、当然音源も手に入らない状態なのだが、今もって記憶に残って、折りにふれ歌詞とメロディーが頭に浮かぶ歌が一つある。
 それを記録しておきたいのだ。

 1974年頃だったろうか(何と大昔!)。当時、渋谷にあった天井桟敷館を借りて上演した舞台の劇中歌だ。私は、「企画集団逆光線」というところに旗揚げから所属していて、その歌詞は集団の主宰者で作・演出家の小和野清史さんが書いた。作曲は故・山田修司さん。 芝居のタイトルは「微睡みのコラージュ」だったか。
 いつもは作・演出の小和野さんが物語性とメッセージ性に富んだ戯曲を書き、それを上演するのが集団のスタイルだったのだが、その時の舞台は、俳優たちがやりたいシーンのアイデアや台詞の断片を持ち寄り、文字通りそれらをコラージュして創り上げるという方法を試してみたのだ。
 ただ、それだけではまとまりがないので、個々のシーンをつなぐサブストーリーを小和野さんが書き、そこに登場するのが以下の歌なのである。
 メロディーを聞かせられないのがとても残念なのだが、とっても良い歌です。
 タイトルはあったかなかったか、仮に『電話ボックス』としておきます。

♪♪
 どこの街に行っても 立っている
 一途な個室 電話ボックスよ
 どこの公園にもある ベンチのように
 もう わたしのことを忘れてくれるといい

 どこの街に行っても 待っている
 一途な個室 電話ボックスよ
 どこのホテルにもある ベッドのように
 もう わたしのことを忘れてくれるといい


poetry note No.9

2020-08-16 | ノート
朽ちかけた樹の根元にも生命はひそんでいる。
生きてさえいればどうにでもなるよ、と囁かれたような気がした。
明日のことばかり気にしたってしょうがないよ。
いま、この瞬間を一生懸命生きるんだ。

75年前の夏を思う。75年という時間を思う。
幾人ものひとが死に、幾人ものひとが生まれ、みな必死に生きた。
死は終わりを意味しない。
その生きた時間はこの蒼空に充満し、この地上に堆積し、
人々の心にとどまり、朽ちかけた樹の根元にもひそんで、
いまを生きるぼくたちを鼓舞する。




poetry note No.8

2020-08-16 | ノート
青い空を鋭角な線が区切り、くっきりと迷いのない輪郭を描く。
樹々の葉むらは風にあおられ、ゆらぎ、形は一向に定まらない。
そのどちらが好きだとか、正しいとか、自分に問いかけてみるのだけれど、それは仕方のないことだ。
そのあいだにたゆたう空気は夏の日射しに沸騰して屈折する。
そこに光は見えているのに、
めまいがしたのは、あんまり上を見すぎたせいだな。