seishiroめもらんど

流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

邦楽/漫画/写真/書

2013-01-08 | 日記
 1月6日(日)の日記の続き……
 世田谷美術館からその足で豊島区東池袋の劇場「あうるすぽっと」で行われている邦楽演奏会に向かった。
 豊島区邦楽連盟のS先生からは、毎年この時期の演奏会にご案内をいただいているのだ。
 もとより邦楽の素養はまったくないのだけれど、そろそろお暇しようかなというタイミングで耳にした、第二部の山田流筝曲「春の曲」(吉沢検校作曲/松阪検校手事増補)、生田流筝曲「桜川」(光崎検校作曲)を聴きながら、ああ来てよかったと思い、最後の長唄「連獅子」(河竹黙阿弥作詞/二代目杵屋勝三郎作曲)を聴いて心底感動してしまった。

 言語は人間に特有のものであり、言語に付随して、音楽、数学、アートといったものも人間に特有のものであるらしいのだが、日本人と西欧の人々ではリズム感に違いがあるのだろうか、といったことを劇場の暗がりで考え込んだ。
 「連獅子」の笛、小鼓、大鼓、太鼓の創り出す独特のリズムは実にスリリングで心楽しく浸り切ってしまったのだけれど、西洋や中東、アフリカなど、異なる文化圏の人々にとってこうした音はどのように聞こえるのだろう。
 虫の音、特に蝉の声をフランス人は聞き分けることができないといった類の俗説があるように、文化の違いによって、音楽の受容にも差異があるのかどうなのか。
 日本人にしか理解できない音階やリズムがあるとしたら、逆に、クラシック音楽を東洋人が真に理解することは可能なのか、あるいは教育や生育の環境によってそれらは習得可能なものなのか。すでに確定した理論があるのかも知れないのだが、そんなことを誰かと話したくて仕方がなかった。

 さて、同じ「あうるすぽっと」のホワイエでは、漫画家の桐木憲一さんらによる「東京シャッターガール 原画&写真展」が開催されていた。

 「東京シャッターガール」は、桐木さんの連載漫画で、カメラ片手に都内を街歩きする写真部の女子高校生・夢路歩が、行く先々で人情に触れながら、隠れた名所や文化を見つけていくというストーリーだが、この連載はカメラ雑誌に取り上げられ、漫画ファンだけでなく写真愛好家の間でも話題となった。
 昨秋、町田市にあるギャラリーが、漫画に登場する街をテーマに写真の公募展を企画したところ、初心者からセミプロまでたくさんの応募があったという。
 今回の「原画&写真展」は、都内の街歩きを題材にした漫画の原画と、漫画に登場する街を28人の写真家が撮影した写真を一緒に展示するもので、漫画表現と、写真家の視点の両方を楽しめる……と紹介されている。
 
 その桐木憲一さんだが、本作の第8話で、椎名町の「トキワ荘」を題材としたことがきっかけで、地元の商店主や町会、ボランティアの人々による地域文化活動「トキワ荘通り協働プロジェクト」に参加することになった。そればかりか、トキワ荘跡近くのアパートで、赤塚不二夫さんが仕事場兼住居とした「紫雲荘」に住み込みながら創作活動を続けている。加えて、公募で選ばれて同じアパートに住むこととなった漫画家の卵たちのデビューを後押しするというプロジェクトにも関わっている。
 私もほんの少しだが、このプロジェクトのお手伝いをしたことがあり桐木さんとは面識があるのだ。会場には、桐木さんと「紫雲荘」オーナーのOさんや写真出品者のカメラマンの方たちがいてしばし歓談。ちょうど、邦楽演奏会に来ていた豊島区の高野区長と一緒に作品を見て回った。
 会場には、写真約50点と、原画約20点が展示されていたが、漫画と写真が刺激し合って独特の世界を創り上げている。中には、主人公の女子高生になり切った自身をモデルにした写真作品もあって実に面白い。
 桐木さんの丁寧な絵作りと原画の美しさは一見の価値あり。14日(月・祝)まで。

 夜、TBSテレビの「情熱大陸」を見る。書家の紫舟を特集。
 彼女は、単に紙に書いた作品のみならず、書いた文字を鉄の彫刻にして光と影により立体化した作品や、メディアアートとのコラボにも積極的に取り組んでいる。
 番組では、シンガポールでの個展に挑戦する彼女に密着。その言葉が記憶に残った。
 「文化の壁をアートで超える……」

美術にふるえる!?

2013-01-08 | 日記
 新しい年が明けてすでに1週間が過ぎた。1年の52分の1が終わったと考えると何だかソラオソロシイが、こうやって時間は無駄に過ぎていくものだ。
 元旦には殊勝にも今年の目標やら何とか叶えたい夢の実現やらを思い描いたものだが、今書店での売り上げナンバー1となっているケリー・マクゴニガル著「スタンフォードの自分を変える教室」によれば、人間というものは、何か善きことを考えたり、克服すべき課題を書きだしたりという作業をしただけで、実際には何も手についていないにも関わらず、すでにその目標を成し遂げたような心理状態になるものらしい。それだけならまだしも、善いことを自分はしたのだからとそのご褒美に怠惰や悪癖に染まる自分を許してしまうというのだ。
 ToDoリストを手帳に詳細に書いたまま、何にもしないのにもう仕事のほとんどは終わったような気になって、結局手つかずのまま時間ばかりが過ぎていくという経験は誰にもあるのではないだろうか。
 書店で本を買いあさったはいいが、部屋に持ち帰り机に積み上げただけでもう読み終わったような錯覚に陥るなどということもよくある話だ。
 そう考えると、計画的な人生設計なんてものには意味などないのではないかとさえ思えてくる。ま、これは何にもしようとしないグータラな人間の言い訳なのだけれど。

 さて、今年に入ってからのことを少し冬休みの最後にまとめて書く日記風に記しておこう。まずは、2つの展覧会に行ったのだった。
 一つは、1月3日(木)に出かけた東京国立近代美術館の60周年記念特別展「美術にぶるっ! ~ベストセレクション日本近代美術の100年」である。
 1階から4階までの展示室を使い、「MOMATコレクションスペシャル」と題した収蔵する重要文化財を核とした明治以来の近代美術の流れを展覧する展示と、「実験場1950s」と題した、この美術館が開館した1952年当時からの時代状況、政治状況を反映しながら社会を変革しようとした作品群を紹介する展示の2部構成となっている。
 500点を超すそれら作品群は実に壮観だが、改めて人間というものの営為の生々しさ、力強さ、素晴らしさを感じずにはいられない。
 中村彝の「エロシェンコ像」や長谷川利行、松本竣介、靉光らの作品とも再会し、感動を新たにしたが、今回、私が「ぶるっ!」ときたのは、川端龍子の「草炎」であった。
 黒字の屏風に浮かび上がる名もない雑草の葉群が生きる力や様々な感情を漲らせながら観る者にぐいぐいと迫ってくる。

 1月6日(日)には、世田谷美術館での「松本竣介展」に行った。
 1912年生まれで、昨年、生誕100年を迎えた松本竣介の36年の生涯を作品とともに振り返るもので、油彩約120点、素描約120点、スケッチ帖や書簡等の資料約180点という膨大な展示でこの稀有な画家の仕事を展望することができる。
 これまでも機会あるごとに松本竣介の絵を見てきたけれど、このように時代順にその成長の過程や変貌を俯瞰するように見たのは初めてのことだ。
 もう一つのささやかな発見は、年譜に記されていた、彼が戦争末期に理研科学映画の第三製作部描画課員として勤めていたのが東京・豊島区西巣鴨であったということだ。
 その住所が書いていないのでどのあたりにあった会社なのかが分からないのだが、俄然、いまの「にしすがも創造舎」のあった場所に戦前の一時期光芒を放った「大都映画撮影所」との関係はないのかと胸が躍ってしまった。
 ただの空想に過ぎないのだが、松本竣介と大都映画のハヤフサヒデトをはじめとするキネマ俳優たちが西巣鴨の路上ですれ違っていたかもしれない、と思うと何だかワクワクする。
 もっとも、松本竣介が理研科学映画にいたという昭和19年にはすでに撮影所は閉鎖されていたのだけれど……。


磁場とコラボレーション

2010-10-16 | 日記
 今日、明日と2日間にわたって池袋にある「みらい館大明」ではお祭りが繰り広げられている。
 旧大明小学校の跡地を活用し、地域の人々の生涯学習の場、多くの劇団の稽古場、あるいはアートセンターとしての色合いも最近では強くなっているこの場所なのだが、今日はまるで懐かしい学校の「文化祭」のノリで賑わい、華やいでいる。

 私はそこで午前11時からのトークショーに顔を出させていただき、池袋西口地域を中心とした豊島区の過去100年の文化事象をめぐる歴史について、さらにはこれからの展望について話をさせてもらった。
 演出家の西村長子さんのリードで話を引き出していただきながら勝手なことを申し上げたのだが、聞いている皆さんにうまく伝わったかどうかは分からない。
 西村さんとは初対面なのだけれど、まだまだ色々なことを話したかったなあと思う。
 時間が限定されていたので、最後は少し急ぎ足になってしまった。西村さんの進行プランをこわしてしまったかもしれない。反省材料だ。

 「演劇」あるいはアート全般を使った地域活性化の取り組みは私の一つの宿願であり、仕事でもある。
 もちろん、何々のため、ではなく、アートや演劇はそれ自体に価値があるわけなのだが、その波及効果を活用しない理由はないだろう。アートには人間を活性化する力がたしかにあるのだ。
 私個人が何かを思ったからといって実現するわけではなく、自分一人では何もできないのだけれど、同じ志を少しでも共有できる人が集まれば前に歩みを進めることはできる。まずは小さな一歩を踏み出すことが大切だ。
 西村さんとはそうしたことをもっともっと話したかったなあ。きっと共有できる部分がたくさんあるはずだと感じた。

 さて、私が今回話したかったのは、過去100年の文化的事象を振り返った時、いかに人がつながっているということであり、何かを創りだすためにコラボレーションやネットワークがいかに重要かということだ。
 以前にもキース・ソーヤーの著作から同じ文章を引用したけれど、
 「シグムント・フロイトは精神分析学の創始者とされているが、その数々のアイデアは、同僚たちの幅広いネットワークから誕生したものだ。クロード・モネやオーギュスト・ルノワールの名が浮かぶフランス印象派の理論は、パリの画家たちの深い結びつきから生まれた。近代物理学に対するアルバート・アインシュタインの貢献は、多くの研究所や学者チームの国際的なコラボレーションが母体となった。精神分析学、印象派、量子物理学は、多年にわたる人間的交流、試行錯誤、数々の失敗を経て生まれたもので、決して一度かぎりの劇的な洞察によるものではない」と、つまりはそういうことだ。

 同じことが、豊島区にかつてあった「長崎アトリエ村」、「池袋モンパルナス」、「トキワ荘」等々にも言うことができるのではないか。
 志を同じくする芸術家や漫画家たちが同じ地域・場所に集積し、刺激し合い、議論し、切磋琢磨し、コラボレーションすることで新しいものが生まれてくる。そうでなければ、これだけ多くの画家や漫画家、小説家や詩人、演劇人がこの狭い地域から生まれるはずがない。

 「創造的都市」という概念を提唱したイギリスの都市計画課チャールズ・ランドリーは「創造性は、新しいものの継続的な発明ではなく、いかにふさわしく過去を扱うかである」と言っている。
 過去をふさわしく扱う、とはどういうことだろう。それは単に過去を慈しみ、思い出にふけることではないはずだ。いうならば、その精神をこそ引き継げということではないのか。
 その精神・志を継承する、そんな場所に「みらい館大明」や「にしすがも創造舎」にはなってほしい。
 そうした磁力を、すでにこの2つの場所は持ち始めている。


子どもの幸せ

2010-08-29 | 日記
 阿波踊りといえば、都内でも数多くの場所で祭が開催されているが、私にとっては何と言っても「大塚」である。
 25日にはその前夜祭が、そして26日には今年で38回目を迎えた「大塚阿波踊り」が開催され、私も恥ずかしながら踊り手としてとある「連」に参加してきた。スッピンでそれも人様の前で踊るなど恥ずかしい限りなのだが、そこはそれ、とにかく「踊らにゃソンソン」なのである。

 大塚阿波踊りの良さは「何か」と一言では言い難いのだが、大塚というこの町に特有の地域性や親和性が色濃く出ているところだろうか。
 かつて戦前には三業地として池袋を凌ぐ賑わいをみせたにもかかわらず、いまやその池袋と巣鴨にはさまれて何となく存在感が希薄になっているという危機感から商業祭として始まったこの阿波踊りだが、そのリズムがこの町に実によく似合っていたということだろう。
 前夜祭の行われた南大塚ホールでは地元商店会を中心とする5つほどの連がステージ踊りを披露したが、それこそ就学前の幼児から中学・高校生まで実に多くの子どもたちが同じステージで踊り、またそれを観るために多世代の観客が会場にぎっしりと詰めかけている様子を観ていると、何年にもわたって地域の人々がこの阿波踊りを通じて結びついているということが実感として伝わってくる。
 多くの子どもたちが阿波踊りのリズムとともに育っているといっても良いのかも知れない。
 けれど一方で、その練習場所の確保が年々難しくなっているという話も聞く。その鳴り物の音がうるさいと苦情をいってくる人が最近は増えているのだそうである。
 世知辛いといってしまえばそれまでだが、なかなか難しい問題なのだ。

 話は変わるけれど、関東大震災後に建てられた復興小学校の一つ、中央区立明石小学校の改築を巡って、日本建築学会が同小校舎は「重要文化財に相当」との見解を出し、同会や卒業生らが保存要望書を提出していた問題で、中央区は、「歴史的、文化的な価値も重要だが、子どもの幸せを第一に考えなければならない」として、解体工事を進める考えを示したという記事が27日付の新聞で報じられている。
 つまり、リノベーションによる保存活用も、「安全性の面で万全とは言い切れず、バリアフリー化や教室不足に対応するのは困難」という区側の主張である。
 これについてはどちらの立場も理解できないわけではないだけに判断はより難しい。
 ただ、その解体を進める理由づけに「子どもの幸せが第一」という言葉を持ち出すことには違和感が残る。「子どもの幸せ」の考え方にもさまざまな見方、考え方があるだろう。

 双方が歩み寄るような第3の選択肢はないのだろうか。

論語とダンス

2010-08-24 | 日記
 22日、王子の飛鳥山公園内にある「渋沢史料館」に行った。
 近所に住んでいながらこれまで一度も足を向けたことがなかったのだが、猛暑の夏、家に籠ってばかりいるよりはと思い立ったのだ。
 それに、渋沢栄一の生まれ故郷、埼玉県深谷市血洗島は、私が小学校の中途から高校卒業までを過ごした町のすぐ近くでもある。
 それにしても江戸末期から明治にかけて活躍した人々のスケールの大きさは、昨今の政治家や実業家とは比較にならない。これはどうしたことか。
 加えて、そうした素晴らしい先人たちのことを学校教育ではなかなか教えてもらえない。これもどうしたことか。
 リーマンショック以降、行き過ぎた市場経済の弊害が叫ばれるようになって、渋沢栄一の書いた「論語と算盤」など、道徳と経済の合一説が見直されるようになっている。
 彼が関わった企業や金融機関、社会活動など、その質量を改めて見つめてみると、その業績の巨大さにはまさに瞠目せざるを得ない。

 実は、仏文学者で作家の渋澤龍彦が戦時中に血洗島に疎開していたというのを聞いたことがあって、渋沢栄一との縁故が以前から気になって仕方がなかったのだが、史料館の受付でそのことを聞くと学芸員の方を呼び出してくれた。
 結論としては、直接のつながりはないとのことだった。ただ、あの血洗島(それにしてもすごい地名だ)近辺には、渋沢姓が多く、何代か遡れば血縁関係があるかも知れないとのこと。

 史料館の隣にある飛鳥山博物館のカフェで昼食をとり、王子駅から都電で早稲田に出た。
 「高田馬場ラビネスト」という小さなスタジオで行われた「温森NUKUMORI×MENU」のダンス公演を観に行ったのだ。
 以前、といってももう10年以上も前に芝居の振り付けでお世話になった小粥真佐代さんが出演・振付をしている。
 1時間の間に12曲のナンバーが繰り広げられる。その熱くカッコ良い踊りと時たま挟まれる笑いに心をほぐされ、心地よい刺激を受けた。
 メンバーの全員が相当のレベルにあることは間違いないけれど、小粥さんは小柄な身体ながらダントツに素晴らしい。手足、指の先までの神経の張り巡らせかた、身体のひねりのセンスにおいて群を抜いている。

 改めて思ったのだが、彼らのダンス形態と、いわゆるアートに分類される舞踏=ダンスとの本質的な違いは何なのだろう。
 高いレベルに到達した彼らの身体能力や手足の動き、振りにそれほどの差異はないようにも思える。おそらくは、一つの動作や振りに至る発想やアプローチの違いということなのだろうが、それを言葉にしようとすると途端にむなしくなってしまう。
 そんなことを思い巡らせながら、またいつか小粥真佐代さんとは一緒に仕事がしたいなと思ったのだった。
 そんな機会がいつか訪れるだろうか。

世論と娯楽

2010-07-13 | 日記
 選挙が終わって、またぞろ責任論やら首のすげかえやらこの何年かすっかり見馴れたどたばたの議論が沸き起こりつつある。
 マスコミが面白おかしくまき散らす世論調査や支持率などという訳の分からない数字に人々は引き摺り回される。政権は一向に安定せず、それがどれほど本当に国民のためなのか分からない足の引っ張り合いを人々は胡乱な目つきでただ眺めるだけである。

 「世論はつねに私刑である。私刑はつねに娯楽である。」(芥川龍之介「侏儒の言葉」)という言葉を最近何度か目にした。
 たしかに昨今の政治ショーはそんな様相を呈している。
 私たちもそんな娯楽から一時も早く目をそむけ、まともな議論を始めなければならない。 必要なのはそのための真実の情報である。

 そんな選挙騒動のなか、劇作家・演出家のつかこうへい氏逝去の報が流れた。まだまだ若い62歳である。間違いなく一つの時代を創った才能がまた消えた。
 実に多くの俳優を育て、後に続くあまたの劇作家や演出家に影響を与えた人だから、新聞各紙にも著名人のコメントがたくさん掲載されている。

 私がようやく20歳で自分たちの劇団を作った頃、つかさんは若干25歳で「熱海殺人事件」により岸田戯曲賞を受賞して時の人となっていた。
 その影響力は実に大きくて、その頃雨後のタケノコのように生まれた劇団の役者たちの演技がみなどれも平田満や三浦洋一の演技の物真似のようだったのに辟易した覚えがある。
 それでも青山のVAN99ホールで観た「ストリッパー物語」や紀伊国屋ホールで観た加藤健一が入団後の「熱海殺人事件」には新しい時代の熱気や息吹を感じたものだ。
 それも今は昔の話である。

 つかさんの芝居づくりには、役者を育てる機能がたしかにあると感じる。小手先の器用さを求めるのではなく、その人間の生きざまなどといういささか時代錯誤的な言葉を背景にした感情表白を否応なく強いる部分がそれであり、役者というものは成長の過程で一度はそこを通り抜ける必要があると今でも私は思っている。
 もっとも、そこから次のステップに進んでいけるかどうかはその役者自身の努力や天分が答えを出す領域なのでもある。

 つかこうへいの芝居が今の時代にどういう意味を持つのか、その評価は難しい。
 その言葉や俳優の身体から放射される熱が今も昔のように観客の心に響くとは限らないからだ。
 時代はあまりに変わってしまった。
 

今日もあちらこちら

2010-07-11 | 日記
 ミュージカル「ひめゆり」を観た話は前回書いたばかりだが、上演会場の劇場「シアター1010」にはその建築途中に見学をさせていただいた思い出があり、なつかしく感じた。
 あれはもう5年以上も前になるのか。当時、ある劇場の建設にスタッフの一人として関わっていたことから、再開発手法による建築のあり方やら他のテナントとの合築による方法やら勉強する必要があったのだ。
 オープニングセレモニーにも顔を出させていただいたのだが、あれからいろいろなことがあったのだなあと改めて感じてしまった。
 劇場の床の傷にもすでに歴史が刻まれているのを見て、過ぎ行く時の酷薄さを感じたものだ。

 さて、昨日、7月10日は選挙戦の最終日。
 池袋東口駅頭でどこやらの党首が大演説をぶちあげているのを横目に、ノンフィクション作家で地域雑誌「谷中・根津・千駄木」の編集人である森まゆみさんの話を聞く少人数の会に参加した。
 あしかけ27年続いたという「谷中・根津・千駄木」は昨秋終刊となったが、「終わったのではなく、違った形で進んでいく」のだとのこと。
 文庫にもなっている著書「谷根千の冒険」を読むと、地域雑誌というフィールドや仲間とのコラボレーションが一人の女性を作家として鍛え上げていく基盤となっていたことがよく分かる。
 プライド・オブ・プレイス(町の誇り)を取り戻すための戦いの記録でもあるこの著作は、町おこしや文化政策をめざすあらゆる人々にとって必読の教科書になり得るものだと思う。

 さて、投票日となった今日のこと、その谷根千の根津とは無関係ながら、南青山の根津美術館に「いのりのかたち~八十一尊曼荼羅と仏教美術の名品」展を観に行った。
 美術館の持つ公共的役割については改めていうまでもないことなのだけれど、こうした私的コレクションの厚みや建築物としての美術館の素晴らしさをまざまざと見るにつけ、「公」の担い手のあり方について深く考えざるを得ない。
 事業仕分けに伴う一連の騒動や、政権が不安定になることによる文化政策の方向性への影響等を考えると、いっそ国や自治体は文化行政から潔く手を引くべきなのではないだろうかとさえ思えるのだ。
 もともとそこには、明確な方向性などなかったのかも知れないのだが。

つれづれのこと

2010-06-27 | 日記
 先日、ある会の事務局をやっている人たち数人の集まりに参加した。特定の名前を出すと差し障りがあるかもしれないので、ある町の「歴史と文化を語る会」とでもしておこう。
 その会が設立から10年が経とうとしていて、その記念の本を作ろうということで盛り上がっているのだ。ホントウを言うと、盛り上がっているのは事務局をやっているMさんだけなのかも知れず、その危なっかしさに手伝おうと手を上げた奇特な方たちが集まって編集会議を催しているのである。
 私もなんとなく声をかけられ、その会に参加する事になったのだ。

 2時間ほど素面のまま真面目な会議をやり、煮詰まったところで飲みに出た。
 南池袋にある劇場シアターグリーンが数年前にリニューアルオープンし、さらに最近になってその1階部分がなかなかおしゃれなカフェになっている。そこで我々数人が陣取りワインを片手に話しに花が咲いた。

 その中で話題になったのが、先日BSテレビで放映された番組のことで、画家ゴッホの他殺説を扱ったものだ。
 私は観ていないのでなんともいえないけれど、メンバーの何人かは観ていて、かなり信憑性があると感じたようだ。
 もう一つ話題になったのが、リコーダー演奏家で音楽文化史研究家の古山和男という人が書いた「秘密諜報員ベートーヴェン」という本のことだ。
 ベートーヴェンが「不滅の恋人」に宛てて3通の手紙を残したのは有名な話。だが、恋文にしては不自然な点が多く、実は暗号密書だったのではないかというのが、その本の提示した仮説なのだという。

 この手の話は専門外の人間にとっても無責任にいろいろなことが言える反面、論拠となる資料や物証を見てもいなければ知識もないので何とも捉えどころがない。
 所詮は酒の肴と思いつつ、我が家にあった芸術新潮の1990年8月号「ゴッホ最後の70日」を取り出して読んだりしている。ゴッホ没後100年記念の特集号である。そういえば今年は没後120年ということになるのか・・・・・・。

 さて、昨日はザ・スズナリで流山児★事務所の「お岩幽霊 ぶえのすあいれす」(作:坂口瑞穂、演出:流山児祥)を観た。
 1時間40分に凝縮された骨太のドラマである。これは素材となった「四谷怪談」を書いた鶴屋南北の功績なのか。これについては、坂口瑞穂氏がパンフレットに書いているが、台本が出来上がるまでの演出家・流山児祥からの何稿にも及ぶダメ出しの執念深さがすべてを物語っているように思われる。何かを成し遂げるにはやはり何かにトリツカレル必要があるのだ。
 それにしても流山児さん、少し目立ちすぎではないかなあ。叱られることを承知でいえば、ドラマの本筋でないところでやんちゃぶりがイヤでも目だってしまうので全体の芝居がゆるんでしまうのだ。
 それともそれは計算づくなのか、座長芝居にありがちなアソビなのか。でも本編の舞台は本当に素晴らしかったですよ。
 

眼鏡デビューのこと

2010-05-10 | 日記
 しばらくブログから遠ざかってしまったが、なかなかパソコン画面に向かうという気分になれない状態だったのだ。
 すでに2週間以上も前のことになるが、左側の白目の部分の血管が切れ、出血するという事態となった。当の本人にはまるで自覚がなく、下まぶたのあたりに少しばかり異物感があるなというくらいの感覚しかなかったのだが、ちょうどそばにいた人から「ちょっと、目がすごいことになってるよ!」と注意されて気がついた。

 もともと充血しやすいタチではあるのだが、それどころの話ではなく、鏡を見ると、左の眼球を中心に目頭から下まぶたの部分にかけて白目がどす黒く血に滲んでいる。
 あわてて眼科医に駆け込んだのだが、いろいろ検査した結果、要は目の酷使による疲労ということらしい。
 乱視が相当程度に進行し、それに老眼が加わったうえ本来の近視も進んでいる、その状態で本を読んだり書類を見たりするのだが、そのピント合わせの調整を力ずくでやろうとするものだから目に負担がかかるのだ。
 手許の書類を見ながら、少し離れた場所に置いたパソコンの画面を眺めつつ作業をするという状態が最も疲れる。どうりで最近肩こりが甚だしく疲れがちだったわけだ。
 「よくこんな状態でいられましたね」と医者には言われた。「メガネをつくるべきですね」

 数日経ってようやく決心がつき、眼鏡屋に行ったのだが、そこでも「2年前にはつくっておくべきでしたね」と言われてしまった。
 つくったメガネは中近両用というやつで、室内での作業用だから、それをかけて屋外を出歩くと目がかすんで危険なことになる。
 それにしても読書は格段に楽である。肩こりも気持ちのせいか薄らいだようだ。
 それはそうなのだが、屈折の入り混じったレンズの調整を自分で加減するのにまだ慣れていないのと、近くにあるものがより大きく見えるレンズの特性なのか、手許に大きな原稿を置いて書いている時など、角度によってその用紙がひし形に歪んで見えてしまうのはどうしたものか。
 まだ操作に慣れないオモチャをあてがわれたようで戸惑ったままである。

 ただ、メガネのフレーム越しに世界を見る、という体験は新鮮なものだ。もちろん役のうえでメガネをかけて演技するという体験はあるのだが、実生活でメガネをかけるのは初体験なだけにそれで人前に出るのが気恥ずかしくもあり、何だか妙に誇らしくもある。それこそ新しいオモチャをもらった子どものような気持ちなのだ。
 サングラスは人格を変えるというけれど、こうした普通のメガネも顔の一部となれば、ある種の化粧のようなものだから、それをかけた人間の気持ちも変わり、ものの見方も変わるような気がする。
 これから自分の前にどんな世界が現れるのか、不思議な期待感でわくわくとしている。

盤上の舞台

2010-04-12 | 日記
 この土曜日から日曜にかけて、秩父に出かけてきた。民宿に泊りがけで仕事仲間と囲碁に耽ろうというのである。
 上はもう80歳に手の届こうという高段者から、昨日今日碁のルールを覚えたばかりで、まだ石の生き死にもよく理解していないような初心者まで、酔狂な13人が食事の時間も惜しむように、折角桜の美しい秩父まで行きながら、暗い部屋に閉じこもって盤の前に座り込み、何時間もの間、総当りでこの古来からのゲームにいそしんだのだ。
 かくいう自分は30年ほど前にルールを覚えたけれど、熱心に実戦経験を積むこともなく、石を握るのは今回が20年ぶりというところである。したがって当然ながら棋力の方は推して知るべしというレベルだ。

 まあ勝ち負けはともあれ、利害関係を抜きにこうして多様な世代の人々が集まって試合が終われば和気藹々と酒を飲み交わし、また一年後の再会を約して去っていく、というのも何とも言えずさっぱりとして気持ちが良い。
 ゲームの合間の語らいで、70歳に手の届く年齢ながら気力活力ともに旺盛な尊敬する先輩の話に耳を傾けるのも楽しい時間である。

 さて、それはそうと、盤上のゲームが描かれた映画や文学にどんなものがあったかと行き帰りの電車の中で考えていた。
 そもそも私が将棋を覚えたのは、ボルヘスの小説を読んでチェスを覚えたいと思ったのがきっかけなのだが、なかなかチェスの相手を探すのが難しかったのと、その直後映画の「田園に死す」の中で主人公が子ども時代の自分自身と将棋を指すシーンが印象に残ったからだった。
 将棋熱が高じて、当時在籍した劇団の話し合いの最中にも小さな盤で将棋を指していて主宰の演出家にこっぴどく叱られたのを思い出す。
 当時は中原誠名人の全盛期で、剃髪した森九段との名人戦が話題となっていた。
 
 チェスが出てくる映画といえば、まず岩波ホールで観たサタジット・レイ監督の「チェスをする人」(1977年)を忘れることが出来ないし、「ボビー・フィッシャーを探して」(1993年)も私は好きだった。そういえば、トビー・マグワイアがボビー・フィッシャーを演じる映画が作られるとのニュースが最近流れていたっけ。
 フィリップ・マーロウ物の映画にチェスは欠かせない小道具だし、ハリー・ポッターでもチェスは重要な要素となる。
 小説ではなんと言っても小川洋子氏の「猫を抱いて象と泳ぐ」が最近の収穫だが、当然、レイモンド・チャンドラーやウラジーミル・ナボコフの小説、ルイス・キャロルの「鏡の国のアリス」も忘れてはならない。

 一方、囲碁はどうかと考えると、一時ブームになった「ヒカルの碁」以外に何かあるだろうか。
 源氏物語には宮廷の女官が碁を打ち交わす場面が出てくるし、川端康成の「名人」は必読だ。
 近年の映画では数年前に日中合作で天才棋士・呉清源の半生を描いた作品があるし、ラッセル・クロウが天才数学者ジョン・ナッシュを演じた「ビューティフル・マインド」の中にナッシュが同僚の数学者仲間と大学のキャンパスのベンチで囲碁を打つシーンがあって印象深かった。

 芝居では将棋の坂田三吉を描いた「王将」は誰もが知っているが、囲碁が主役級の位置づけとなる舞台はなかなか思い浮かばない。
 以前観た芝居では、登場人物の老人が一人盤に向かって石を並べながら詰碁をやっているという設定なのに、それがただの五目並べの石の並べ方で、この役者は碁を知らないんだなといっぺんに興醒めだったのを記憶している。
 つまらないことだが、役者というものは何でもそれらしく見えるように勉強しておくものだと思い知らされたひとコマだ。

言葉と風景

2010-03-30 | 日記
 今日(すでに昨日のことだが)は、何とも気鬱な一日だった。やることなすこと何もかもが裏目に出てしまう。こんな日は、じっと蹲って嵐の過ぎ去るのを待つしかないのだろう。あるいはその風圧をものともせず雄々しく立ち向かうべきなのか。
 言葉というものは恐ろしいもので、少し気を許したり、隙を見せたばかりに返す刀で骨の髄まで傷つくこともある。
 心を許しあえると思っていた相手からの毒のある言葉はこちらを立ち直れないばかりに打ちのめす。もう生きている甲斐などないと思えるほどに。
 そういうこちらも相手を知らぬうちに傷つけているのだろう。
 言葉は恐ろしいものだ。

 そんなちっぽけな人間どものあれやこれやをすっぽりと呑み込んで、街は知らん顔で喧騒の音楽を奏で続ける。

 新聞では、東京・墨田区押上に建設中の東京スカイツリーが29日、東京タワーを超える338メートルの高さになったと伝えている。
 この巨大な建築物もまた街の新たな風景となって、新しい物語を紡いでいく。
 テレビニュースでは、このタワーを取り巻く商店街や地元花柳界の様々な動きを取り上げていた。街の変化は経済と直結している。

 「おばあちゃんの原宿」として知られる「巣鴨地蔵通り商店街」や「とげぬき地蔵尊」のある巣鴨がにぎわうと株価が上がるという都市伝説があるそうだ。
 「高齢者の経済環境が巣鴨駅の利用状況に表れる」との分析が新聞に載っている。
 反面、JR新橋駅の利用人数が増えると東証株価指数が下落するとの話もある。サラリーマン向けの気軽な飲食店が多い新橋では、不景気になるとストレス発散のために立ち寄る人の出入りが増えるのだとか。

 池袋東口で戦後60年以上にわたって親しまれてきた布地や手芸用品の店「キンカ堂」が自己破産を申請して閉店してから1ヶ月ほどが経つ。
 いま、その「キンカ堂」のシャッターには、閉店直後から様々な思い出や感謝の言葉を綴ったメモが貼られはじめ、その数およそ300枚以上となって増え続け、これもまた新たな街の風景となりつつある。

 街の風景は経済や人々の記憶と密接に結びつき、変化しながら別の音楽を奏で始める。
 人々にその音楽は聞こえるだろうか。私の言葉は届くのだろうか。

さえずりに満ちた世界

2010-03-01 | 日記
 2月最後の日曜日、午後4時半から座・高円寺の2階カフェ「アンリ・ファーブル」で開かれた流山児★事務所の「紀伊国屋演劇賞受賞お披露目パーティー」に顔を出す。
 昨年の成果である「ユーリンタウン」「ハイライフ」「田園に死す」の活動はもとより、40年にわたる「アングラ劇団」としての運営が評価されたものだ。
 確かに時代は変わった。隔世の感がある。かつて、前身の「演劇団」は紀伊国屋ホールに「殴りこんだ」集団だった。それがいまやその相手から評価されるのだ。
 それについて何も言うことはない。ただ素直に心から快哉を叫びたい。
 ただ愚直に身体を張って「集団」としての「劇」を創り続けてきた、そのことが何より素晴らしい。

 それにしても「パーティー」というものが私は本当に苦手だ。オメデトウの気持ちだけを伝えて早々に失礼する。
 「集団」であることがうらやましい。芝居は「集団」で創るものだ。私はついに自分の「集団」を作れなかったし、関わることができなかった。独りぼっちの俳優ほどさびしいものはない。
 この数年関わってきたプロジェクトの「仲間」がいるのだが、仲間と思っていたのは私の一方的な片思いで、彼らは所詮私を「交渉の相手」としか見なしていなかったようだ。これもまた事実として受け止めるしかない。
 気持ちが落ち込んでいると、何もかもマイナスにしか考えられなくなる。
 彼らのなかの一人がツイッターで呟く言葉にもこちらをあてこすったような棘があり、些細なことに傷ついてしまう。

 それにしてもこの世界はなんと多くの呟きやさえずる声に満ちていることか。そのすべてに耳を傾けるのは徒労でしかないだろう。

 新聞の書評欄に「高峰秀子の流儀」についての記事がある。この稀有な女優の流儀はずばり「求めない」「期待しない」「媚びない」である。
 老子の思想に通じるようなその考えはつまり、「自分を評価しようとするあらゆることから解き放たれ興味を持たない」ことに拠っている。
 所詮、私のつまらぬ繰り言は、自分自身が他人から評価されないことの苛立ちに起因しているのだ。そう思って、何も求めず、期待せず、媚びもしなければ、楽になる。私はただ、自然にここに居る、だけだ。

 亡くなったKさんのことを考える。魂などとは言うまい。ただ、彼の声は今もこの世界にあってたくさんのつぶやき声やさえずりと呼応しているだろう。そこから彼の声を聞き分けたい、と思うのだ。

  「私の個人的な経歴など存在しない。
   そこには中心がない。
   道もなければ、線もない。
   広漠とした空間があり、そこに誰かがいたような
   気がしたけれど、本当をいうと
   誰もいなかったのだ。」     
                 マルグリット・デュラス

ありし世に

2010-02-27 | 日記
 私の仕事仲間のKさんが亡くなった。私と同い年である。急逝としか言いようがない死なのだが、いまだにどうにも信じることができないでいる。
 今週の火曜、大事な仕事の場に姿を見せなかった。職場の部下たちが携帯電話で何度連絡をとっても応答がない。これまでそんなことはなかった。心配した彼らが自宅に駆け付けて異変を発見した。
 どうして・・・という思いは尽きないが、皆の話を総合するとここに至るシグナルはたくさんあったような気がしてならない。残念でならないのはそんな状態でも彼が病院に行くのをかたくなに避けていたことだ。

 一見、取っ付きが悪く、頑固な彼だったが、その彼を多くの人が慕っていた。クマさんのような風貌と懐の深い温かさで若い女性たちにもファンが多かった。私の下で働いていた女性があることで心ない連中から非難された時も何かと庇ってくれていたのを思い出す。

 山登りが好きだった彼は、仲間たちと出かける時も入念な下調べを怠らなかった。さまざまな資料を駆使して事細かにコースを下検分し、アクシデントの際の対応策まで考えていたという。
 その彼が、自分自身の健康には無頓着だったのは何故なのか・・・。

 ごく限られた近親者の方々と一緒にその最後の姿を目にとどめた私には、彼のことをいつまでも忘れないでいる義務があるような気がしている。
 私自身がいつまでこの世にいるかは分からないのだけれど。合掌。

  あはれとも心に思ふほどばかりいはれぬべくは問ひこそはせめ    西行法師

  ありし世にしばしも見ではなかりしをあはれとばかりいひてやみぬる  藤原兼房朝臣

  あるはなくなきは数添ふ世の中にあはれいづれの日まで歎かむ    小野小町

次の初日

2010-02-09 | 日記
 私の舞台を観にきてくれた知人のお母様が逝去され、そのお通夜に参列するため関越道を通ってI市まで行くことになった。帰り、練馬インターから目白通りを経て環七に入ったのだが、その辺りでなぜか急に胸がいっぱいになってしまった。
 なんのことはない、その付近は先月の舞台で共演したH君やSちゃんと稽古帰りによく車で通った場所なのだった。あの楽しかった日々を思い出して懐かしくなったという訳だ。
 いい年をしてセンチメンタルになったのは恥ずかしい限りだが、毎度のことながら、一つの舞台を創るために四六時中ずっと一緒だった仲間が、公演の終了とともにピタッと会わなくなるというのは実に不思議なものである。

 そんなことを考えていたら、当のSちゃんをはじめ、この間の舞台に出ていた女優たち3人が今週から新しく始まる公演にそろって出演するという案内が舞い込んだ。
 千秋楽からその初日までは10日ほどしかない、皆の稽古スケジュールは一体どうなっているのか、などと考えるのも莫迦らしいほど彼らのそのバイタリティは爽快である。過ぎた時間を懐かしんで胸をいっぱいにするなどというのはおそらく老人の仕事なのだろう。
 私も次の里程標をめがけて歩きださなければいけない時期なのだと肝に銘じよう。
 多分、私の次の初日は舞台の上ではないのかも知れないけれど・・・。

 別の話を書いておく。世の中はせまいというよくある話だ。
 特に芝居の世界はとりわけ狭いから、誰それが誰それの知りあいなんてことはしょっちゅうである。
 それにしても、今回、共演したSちゃんが、私の30年来の友人夫妻のそのまた友人の娘さんだったのは驚きだった。
 そんなことはまったく知らず、楽屋では私のヘアメイクをSちゃんにお願いしていて、よもやま話に彼女のお母さんが歌舞伎界でも活躍されている胡弓や箏の奏者であるといった話を伺いながら、友人との関係には気づきもしなかった。
 千秋楽の打ち上げで最終電車に間に合うよう急ぎ先に帰る私に「今度、この演奏会に出ます」といってもらったチラシを帰りの電車の中で開いてみて、ようやくその演奏会の主宰が友人だと気づいたのだった。
 その友人夫妻は二人ともアングラ時代の同じ劇団で、ともに私と共演した仲だった。

 慌ててSちゃんには携帯電話で話をした。翌日には友人夫妻とも話をしたのだが、Sちゃんのお母様は私も出席した友人の結婚式で箏の演奏をされていたらしい。お互いの子どもの年齢が近いので家族でのお付き合いも深いとのこと。そんな話を聞いていたら、急にSちゃんが親戚のうちの子どものように思えてきてしまった。

 あるプロジェクトのためにたまたま集まった俳優である私と彼女だが、その舞台を創るまでに長い長い時間をかけてそれぞれの時代を通り抜けてようやく出会った、それも気づきもせずに、なんてことが妙な実感とともに感得されるようで得難い感慨にひととき浸ったものだった。

 こんなプロセスも含めておそらくは「演劇」なのだといってよいのだろう。多分。

正月愚なり テレビ三昧

2010-01-03 | 日記
 「大三十日(おおみそか)愚なり元日猶愚なり」という正岡子規の句は明治34年、自身の肖像写真に題したものだそうだ。自嘲というほど深刻ではなく、むしろ興ずる心、と山本健吉編著の歳時記にはある。

 私も正月愚なり、とばかりこの数日は思い切りのんべんだらりと興じながらテレビばかり観ている。
 これは年末のことだが、マイケル・ジャクソンの特集番組を立て続けに観た。
 最後の10年はスキャンダルにまみれた観があり、音楽的にも「デンジャラス以降はまるでマンガ」などという酷評に代表されるように評価されることのなかったMJだが、死後、それがまるで一変したようであるのには、何とも言葉がない。

 番組では、1997年のミュンヘンでのライブが見ごたえがあった。時にあざといほどの演出も垣間見えるけれど、エンターテインメントとしての完成度は群を抜いている。
 同じ日、紅白歌合戦でスマップの面々がMJ追悼ということで歌とダンスを披露していたが、彼我のレベルの違いという以上に、何とも言葉がない。

 夜半過ぎ、元日になってのBS民放で小林克也の「ベストヒットUSA」を観た。やはりマイケル・ジャクソンの特集であるが、こちらは小林克也の薀蓄が至るところに入って私のような素人には勉強になる。
 子ども時代からスターとなったマイケルだが、「ビリージーン」以前はMTVで黒人のミュージックビデオが放映されたことがなかったという事実や、ミュージックマガジンの編集者が面と向かって「黒人が表紙では雑誌が売れない」と高言した話など、日本人にはにわかに実感として信じがたい話だが、彼はそうした社会の差別に対し、ある種の憎悪を内心に秘めながら戦ってきたのである。
 日本人のエンターテインメントには社会性や文化的背景を抜きに輸入したものが多いように思えてならないことがある。だから薄っぺらに見えてしまうのだ。

 同じく元日、やはりテレビで、野村芳太郎監督、橋本忍・山田洋次共同脚本の映画「砂の器」を観る。ああ、やってるんだと何となく観始めたのだが、例の親子の道行きの場面ではやっぱり泣かされてしまった。
 よく知られているようにこれらの場面には台詞がない。まさに映像の力というしかないのだが、よく観ていると、チャップリンの「キッド」をはじめ、涙腺を刺激する映画の公式が多く引用されているようにも思える。
 映画評論家の淀川長治氏だったか、この場面を、丹波哲郎演じる刑事の「語り」を太夫として、この親子の場を文楽人形が演じる道行になぞらえていたが、今回あらためてそうした構造がよく感得されたように思う。

 周知のようにこれはまさに脚本家・橋本忍の功績である。
 そんなことを思い出して、村井淳志著「脚本家・橋本忍の世界」(集英社新書)のその部分を再読した。
 橋本忍はもちろん松本清張の原作に忠実に脚色したわけではまったくない。
 村井氏は次のように書いている。
 「なにせ、映画に感動して松本清張の原作を読んでみると、あまりのつまらなさに愕然とするのだ。(中略)とにかく話がゴチャゴチャで、殺人方法はSFじみていて嘘臭いし、人物描写が類型的で押しつけがましい。ところが橋本忍の脚本は、そうした原作の問題点をすべて殺ぎ落とし、原作のよい点だけを、極限まで拡大したのだ。」

 橋本忍は、原作にあるわずか2行ほどの記述「福井県の田舎を去ってからどうやってこの親子二人が島根県までたどり着いたかは、この親子二人にしかわからない」を拡大してあの名シーンを書き上げたのだが、詳しくはこの本を読んでいただくとして、小説と映画のシナリオの違いについて知り尽くしていたということだろう。

 さて、この本を読んでいるうちに、ふと思い立って、橋本忍の師匠であった伊丹万作に関連した佐藤忠男の著作「伊丹万作『演技指導論草案』精読」(岩波現代文庫)を本棚から取り出して拾い読みした。
 これは映画監督・伊丹万作が1940年に書いた草案をもとにその背景や解説を加えたものだが、この演技指導論は今でも映画監督と俳優との相互の関わり方について書かれた最高度に実践的な優れた文章である。
 その内容は映画にとどまらず演劇や一般の社会生活においても援用可能な示唆に満ちている。
 演出家はもちろん、俳優にとっても必読の一冊だろうと思う。