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流野精四郎&東澤昭が綴る読書と散歩、演劇、映画、アートに関する日々の雑記帳

さえずりに満ちた世界

2010-03-01 | 日記
 2月最後の日曜日、午後4時半から座・高円寺の2階カフェ「アンリ・ファーブル」で開かれた流山児★事務所の「紀伊国屋演劇賞受賞お披露目パーティー」に顔を出す。
 昨年の成果である「ユーリンタウン」「ハイライフ」「田園に死す」の活動はもとより、40年にわたる「アングラ劇団」としての運営が評価されたものだ。
 確かに時代は変わった。隔世の感がある。かつて、前身の「演劇団」は紀伊国屋ホールに「殴りこんだ」集団だった。それがいまやその相手から評価されるのだ。
 それについて何も言うことはない。ただ素直に心から快哉を叫びたい。
 ただ愚直に身体を張って「集団」としての「劇」を創り続けてきた、そのことが何より素晴らしい。

 それにしても「パーティー」というものが私は本当に苦手だ。オメデトウの気持ちだけを伝えて早々に失礼する。
 「集団」であることがうらやましい。芝居は「集団」で創るものだ。私はついに自分の「集団」を作れなかったし、関わることができなかった。独りぼっちの俳優ほどさびしいものはない。
 この数年関わってきたプロジェクトの「仲間」がいるのだが、仲間と思っていたのは私の一方的な片思いで、彼らは所詮私を「交渉の相手」としか見なしていなかったようだ。これもまた事実として受け止めるしかない。
 気持ちが落ち込んでいると、何もかもマイナスにしか考えられなくなる。
 彼らのなかの一人がツイッターで呟く言葉にもこちらをあてこすったような棘があり、些細なことに傷ついてしまう。

 それにしてもこの世界はなんと多くの呟きやさえずる声に満ちていることか。そのすべてに耳を傾けるのは徒労でしかないだろう。

 新聞の書評欄に「高峰秀子の流儀」についての記事がある。この稀有な女優の流儀はずばり「求めない」「期待しない」「媚びない」である。
 老子の思想に通じるようなその考えはつまり、「自分を評価しようとするあらゆることから解き放たれ興味を持たない」ことに拠っている。
 所詮、私のつまらぬ繰り言は、自分自身が他人から評価されないことの苛立ちに起因しているのだ。そう思って、何も求めず、期待せず、媚びもしなければ、楽になる。私はただ、自然にここに居る、だけだ。

 亡くなったKさんのことを考える。魂などとは言うまい。ただ、彼の声は今もこの世界にあってたくさんのつぶやき声やさえずりと呼応しているだろう。そこから彼の声を聞き分けたい、と思うのだ。

  「私の個人的な経歴など存在しない。
   そこには中心がない。
   道もなければ、線もない。
   広漠とした空間があり、そこに誰かがいたような
   気がしたけれど、本当をいうと
   誰もいなかったのだ。」     
                 マルグリット・デュラス


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