ロック探偵のMY GENERATION

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表現規制をめぐって

2021-10-24 17:18:01 | 時事


いよいよ、衆院選の投開票まで一週間となりました。


各党がそれぞれに政策を訴えていますが、ここにきて、共産党の“表現規制”が議論の的になっています。

そこに話がいったか……というところです。

ポルノ的なものに対する規制というのは、リベラル陣営のアキレス腱というようなところがあって、リベラルを謳う人たちの間で意見が割れることが多いイッシューで、リベラルを分断するくさびになりかねないわけです。
まあ、一応法的な規制はしないという話になってるそうで、ひとまずは、それで呑み込んでおいていい話なんじゃないでしょうか。


表現規制に関する私自身の考えを書いておくと、まず基本的には反対です。
表現規制には慎重でなければならない。ただし、表現の自由はすべてに優先する価値というわけではない。場合によっては規制があってしかるべきときもありうる。しかし、それは法によるべきではない……といったところでしょうか。
きわめて常識的な認識だと思ってます。
しかし、表現規制をめぐる議論は実にレンジが広く複雑です。本格的に論じるのは私の手に余るところでもありますが……以下、二つの点について書いてみます。


まずは、ロック関連から。

ロック史上には、児童ポルノ的な意味合いで物議をかもすアルバムアートワークがいくつか存在しています。

たとえば、ブラインド・フェイスの『スーパー・ジャイアンツ』。
このアルバムジャケットの現行バージョンはこんな感じですが、本来は、下半分の帯のような部分はなく、少女の胸があらわになっていました。
 
そして、この手の話でなんといっても有名なのは、スコーピオンズの Virgin Killer でしょう。
もともとは少女の裸身で、股間部分だけが隠されているというアートワークでした。これはその当時から物議をかもし、アメリカでは発売当初から別のジャケットに差し替えられていたそうです。日本でも、現在はジャケットを差し替えて販売されています。

先日は、Nirvana の Nevermind ですらそのアートワーク児童ポルノとして訴えられているという話がありました。これに関しては、訴訟に至るまでの経緯も含めて、さすがにそれはおかしくないかという反応が大勢のようですが……この問題を受けてデイヴ・グロールは今後ジャケットを差し替える可能性にも言及しています。

なにが言いたいかというと……こうした動きに示されているのは、セクシャルな表現、とりわけ児童ポルノ的なものに対する表現規制は世界的なすう勢であり、とりわけこの十数年ぐらいで急速に厳しくなりつつあるということです。それが、ロックアルバムの世界にも反映されているわけです。
そしてその波は、日本にも確実に及んできています。
今回は共産党というところから出てきたわけですが、そういう視点でみれば、主要な政党はみな、程度の差はあれ表現規制を検討しているともいいます。自民党のなかにも、表現規制派は多くいます。というか、表現規制に関してはむしろ保守系が本家でしょう。そして、意見がわかれるリベラル側でも、世界的な潮流を受けて表現規制派の発言力が高まっている――今回の件が示しているのは、そういうことだと思われます。共産党が表現規制を主張している、これは危険だ、というような単純な話ではないのです。


二点目は、小説という観点から。

昭和初期には、乱歩作品の多くが発禁、あるいは、少なくともそのまま発表することはできなくなっていた……という話をだいぶ前にこのブログで書きました。
それは必ずしも性的表現が理由ではなく、当該記事でとりあげた「芋虫」なんかは、反戦的とみられたことが背景にあるわけです。

しかし、この時期の表現規制においては、乱歩のような作品ばかりが対象となったわけではありません。

たとえば、山本有三の『路傍の石』なんかはどうでしょう。

この小説の主人公・愛川吾一は、当時の基準で考えれば非の打ちどころのない健全な青少年です。作中で労働運動に関与しているらしい人物が登場しますが、吾一は、みずからも貧しい労働者でありながら、彼の主張にくみしません。なにしろ健全な青少年なので、共産主義などには同調しないのです。
ところが……『路傍の石』は当局の検閲で内容の変更をせまられ、山本有三は断筆に追い込まれました。
主人公の態度がどうあれ、労働運動について書いたこと自体がよろしくないということらしいです。
『路傍の石』という作品をどう評価するかは人それぞれでしょうが、この話は示唆に富みます。つまり、「自分は体制を批判するようなことはいわないから問題ない」というわけではない、ということです。表現規制が暴走すると、際限ない拡大解釈で、なんでこれがというようなものを見境なく規制していくおそれがあります。
もう一度音楽の話に戻ると、戦後にヒットした二葉あき子の「夜のプラットホーム」という歌があります。
あの服部良一が作曲したこの歌は、本来は淡谷のり子が戦前にレコーディングしていたものですが、戦中には発禁処分となっていました。
その歌詞は、次のようなものです。

  星はまたたく 夜ふかく
  なりわたる なりわたる
  プラットホーム 別れのベルよ
  さよなら さよなら 君いつ帰る

  ひとは ちりはて ただひとり
  いつまでも いつまでも
  柱に寄りそい たたずむわたし
  さよなら さよなら 君いつ帰る

  窓に残した あの言葉
  泣かないで 泣かないで
  瞼にやきつく さみしい笑顔
  さよなら さよなら 君いつ帰る

なぜこれが発禁処分になるのか、という歌です。出征する兵士の士気を低下させるから――という理由のようですが、そんなアホなという感想しか出てきません。
近代国家でそこまでばかげた規制がなされることはないと思うかもしれませんが、この国の奥底に根付いているカルト気質がひとたび目を覚まして表現規制と結びつけば、とんでもない暴走をしでかす危険は決して否定できないと私は思っています。
そういう意味で、今回の衆院選のこととはまた別に、表現規制に関しては慎重な姿勢が必要でしょう。




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