今回は、音楽記事です。
このカテゴリーでは、1960年ごろに「3ひろし」あるいは「4ひろし」と呼ばれていたアーティストたちについて書いてきました。今回は、その最後の一人であるかまやつひろしについて書きましょう。
かまやつひろし――またの名を、ムッシュかまやつ。
4ひろしのなかで、もっとも息の長い活躍をした人といえるでしょう。彼だけは、21世紀になってもテレビでその姿を見ることがごく普通にありました。
2017年に亡くなった際には、その訃報がワイドショーなどでも大きく取り上げられ、スパイダースの仲間だった堺正章さんや井上堯之さんともども、いまでも人気健在であったことを知らしめたのです。
以前あるテレビ番組に出た際、スパイダース時代に空港で荷物番をしていたら、たまたまそこにいたフーのキース・ムーンに「お前、スパイダースだろ」と声をかけられたというエピソードを語っていました。キース・ムーンも知っている。そんなスパイダースは、たしかに60年代の日本においてもっともロックンロールな場所にいたといえるでしょう。
父親は、ティーブ釜萢というジャズミュージシャン。
そこからくる音楽的素養が、スパイダースの活動に寄与していました。当時のGSグループとしては珍しくスパイダースは自作曲をやっていましたが、ムッシュの作曲能力がそこでいかされているのです。
そして、その楽才をもって、その後も、陰に日向に日本の音楽業界で活躍してきたのでした。裏方としては、ユーミンさんのデビューをプロデュースしたことでよく知られますが、この一事だけをとっても、日本歌謡曲史においてムッシュがどれだけ大きな存在であったかがわかるでしょう。
その長いキャリアは、活動範囲の広さにもつながってきます。
以前の音楽記事で、ひろしたちはロカビリーを放棄したと書きましたが……これは、かまやつひろしについてもいえるでしょう。
アニソンやCMソングなども手がけていて、そのオールラウンダーぶりから「カメレオンアーティスト」とも呼ばれたそうです。
これはネガティブにもとれる表現ですが……ただ、ムッシュが自身の音楽性を変化させていったのは、本邦音楽界における歌謡曲の圧力に屈してというよりも、もう少しポジティブな側面があるようにも感じられます。旺盛な探求心でさまざまな音楽ジャンルに進出していったというような……
その一環が、たとえば吉田拓郎さんとの共同作業でしょう。
拓郎さんの手になる「我が良き友よ」は、フォーク方面へ進んでいくきっかけとなりました。
意地の悪い見方をすれば、フォークが流行っているからそこに便乗というふうにもとれますが……これは小説の世界でいえば、高木彬光が社会派小説や歴史モノのジャンルに進出していったことと重ね合わせられるんじゃないかと思います。
であればこそ、「我が良き友よ」がヒットしても、ムッシュはフォークにこだわりはしませんでした。
まだまだ自分は成長したいし、もっと新しい音楽を見たいし、クリエイトしたい、と死ぬまで思い続けていた――ムッシュをリスペクトするChar
さんは、彼の心境をそう評しています。
最後に動画をのせておきましょう。
Char
さんの名前が出てきたので、Char
さんとともに演奏している「ノー・ノー・ボーイ」です。
スパイダース時代にムッシュが作曲したもので、ソロでもセルフカバーしている曲。スパイダースバージョンや、ソロバージョン、そしてこのステージでやっているバージョンを聴き比べてみれば、いかにムッシュの音楽的守備範囲が広かったかがわかるでしょう。
Rock Free Concert - ノーノーボーイ(feat. ムッシュかまやつ)
「あの時君は若かった「」という曲がお気に入りでかまやつさんに興味持ちました。
中学になって「どうにかなるさ」のシングル盤買ったのが初購入。
ライブは故大口さんや故アランメリルと組んだウオッカコリンズを日比谷で観ました。
もっと評価されて良い方ですね。
たしかに、かまやつさんはその業績に比べて、過小評価されているかもしれませんね。
裏方の立場に回ることが多かったからでしょうか。なにか、知る人ぞ知る的な扱いになっている部分が大きいように感じられます。