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クロード・ドビュッシー

2007-02-10 20:51:55 | 音楽史
ImagesCLAUDE DEBUSSY
Images 1 & 2 ・ Children's Corner
 
 
Arturo Benedetti Michelangeli

エリック・サティはドビュッシーとの長年にわたる交友を振り返りながら次のように書いた。

「はじめて会ったときから私は彼に惹かれるものを感じ、たえず彼のそばで生きたいと思った。幸福にも私は三十年間にわたってその願いを叶えることができた。私たちはおたがいに面倒な説明抜き、いわば言葉半分で理解しあうことができた。なぜなら私たちはおたがいによく知っていたからである。――はじめからずっとそうだったような気がする。
私は創造者としての彼の進化のすべてに立ち会った。『四重奏曲』『ビリティスの歌』『ペレアスとメリザンド』は私の目の前で生まれた。この音楽が私に与えた感動を、私は今なお忘れることができない。なぜなら私はそのとき、新しく得がたい「混沌性」を味わいながら、えもいわれぬ喜びを覚えたからである。
そしてみごとなピアノ曲の数々も、彼の指の下では夢幻劇を思わせるポーズをとり、ものうげにやさしいメランコリーをつぶやくのであった」

クロード・ドビュッシー(1862-1918)は、パリ近郊のサン・ジェルマン=アン=レに生まれた。10歳でパリ音楽院に入学し、ピアノや作曲、音楽理論を学んだ。ドビュッシーは音楽の和声的な側面に興味を持ち、不協和音の連続による即興演奏で、教授たちを驚かせたことがあったという。ドビュッシーは音楽院のアカデミズムを嫌悪していたが、それでもピアノや対位法、フーガの部門で賞を獲得し、22歳の時にはカンタータ「放蕩息子」でローマ大賞を受賞した。ドビュッシーは1885年からローマに留学した。1887年に帰国してからはパリで生活するようになり、この頃から象徴派の詩人たちや印象派の画家たちとの交流が始まった。直接的な描写ではなく暗示すること、対象それ自体の描写よりも対象によって喚起される印象を表わすという彼らの理想をドビュッシーも共有し、音楽においてその理想を実現するために、新たな一歩を踏み出すこととなった。絵画においては線や色彩の配列のあいだに存在する謎めいた関係を音の組み合わせの中に見出すこと。

ドビュッシーは彼の分身であるクロッシュ氏の口を借りて次のように言う。

「それはともかく、<印象>という言葉を心にとめて下さい。私の愛用の言葉ですが、というのもあらゆるしちめんどくさい美学から感動をまもる自由を、それが私にのこしてくれるんでね」

ドビュッシーはパリ音楽院在学中に、チャイコフスキーのパトロンとして知られるメック夫人のもとでピアノ伴奏者の仕事をするため、1881年と1882年にロシアに滞在した。このとき、ロシア五人組やチャイコフスキーの音楽に触れ、その様式やオーケストレーションに強い影響を受けた。また、1888年と1889年にはバイロイトに行き、ヴァーグナーの楽劇を体験した。ドビュッシーにもヴァーグナーに熱狂した時期があり、ヴァーグナーの音楽にある半音階や不協和音、あるいは官能的な音色をもったオーケストレーションに影響を受けたが、のちにヴァーグナーと対決することによって、独自の道を見出すこととなる。その契機となったものとして重要な体験のひとつに、1889年にパリで開催された万国博覧会でガムラン音楽を聴いたことが挙げられる。ヴァーグナーによって極限まで調性の可能性が使い尽くされ、西洋音楽の発展が限界に達したと思われた状況にあって、ガムランのような非西洋的な音楽が伝統的な西洋音楽の語法を拡張、あるいは解体するように作用することによって、西洋音楽に新たな要素が加えられ、活性化される。そして調性の限界は古い旋法の見直しを促すことにもなった。ドビュッシーはガムランの五音音階を用い、東洋的な幻想性を音楽に与えるとともに、中世のオルガヌムも活用した。その他、タンゴやハバネラといったスペインの舞曲や通俗的な音楽にもドビュッシーは影響を受けている。
ドビュッシーはこれらの影響を混ぜ合わせることで独自の音楽を生み出すに至ったが、繊細で抑制された音楽というフランスの伝統も忘れずに受け継いでいる。ドビュッシーの音楽は19世紀のロマン主義から20世紀のモダニズムへの橋渡しとなり、同時代の音楽家のみならず後の世代に深い影響を与えた。

エリック・サティはドビュッシーが独自の音楽を見つけるにあたって、自分の果たした功績をほのめかしながら次のように書く。

「そして私はドビュッシーに説明した。われわれフランス人はワーグナーという冒険から抜け出す必要があることを。その冒険は私の自然な願望に応えるものではなかった。ただ私が彼に強調したのは、私が反ワーグナー派では全然ないこと、しかし私たちは私たちの音楽をもたねばならぬということだった。――できればシュークルートなしで。
クロード・モネ、セザンヌ、トゥールーズ=ロートレック等々が私たちに見せてくれていた表現手段をなぜ使わないのか? その手段をなぜ音楽に置き換えて利用しないのか? これより簡単なことはない。それもまた表現ではないか?
ほぼ確実な――実り豊かなといってもいいほどの――実現をたっぷりもたらした実験への、有益な出発点はまさにそこにあった。彼にさまざまな例を見せることができたのは誰だろう? 新たな発見を彼に明かすことができたのは? 発掘場所を彼に指示することができたのは? 実感にもとづく所見を彼に述べることができたのは? 」

ドビュッシーの音楽の特徴は、五音音階、全音音階、旋法などの非西洋的な様式や、第3度音を欠いた5度や8度の空虚和音や9度の新しい和音を用いることで、支えを失い、どこにも帰属しない音によって、浮遊感と自由度を獲得したことにある。短く断片化された旋律は完結せず、和音は進行するというよりは継起する。非周期的なリズムや不規則な拍節パターンによって、規則的なリズムが音楽にもたらす推進力は回避される。広い音域を使って、ニュアンスに富んだ色彩と陰影を追求する。こうして、形式や輪郭は曖昧ながら、きわめて洗練された音楽は生み出された。
束の間に消えてしまう気分を形式化するのではなく、そのままとらえること。ドビュッシーの音楽では動機は発展する必要がないし、不協和音も解決される必要がない。解決がない代りに、次々と現れては消えていく音楽の瞬間を楽しむこと。音楽を理論の抑圧から解放し、喜びと感動に満ちたものにすること。

→オルネラ・ヴォルタ編「エリック・サティ文集」(白水社)
→「ドビュッシー音楽論集」(岩波文庫)
→岡田暁生「西洋音楽史」(中公新書)
→Burkholder/Grout/Palisca A HISTORY OF WESTERN MUSIC
 (W.W.Norton & Company)


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