むらぎものロココ

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ポール・デュカ

2007-02-11 02:10:50 | 音楽史
DukasDUKAS
PIANO WORKS
 
 
Margaret Fingerhut

ポール・デュカ(1865-1935)はパリに生まれた。母はピアニストであったが、デュカが5歳のときに死去。デュカは14歳頃から独学で音楽を勉強し、17歳でパリ音楽院に入学、ピアノや作曲を学んだ。1888年にはカンタータ「ヴェレダ」でローマ大賞の2等となった。エリック・サティによれば、19世紀にローマ大賞第二位を獲得した作曲家で突出した存在はサン=サーンスとラヴェル、そしてデュカなのだという。サティはデュカについて次のように書く。

「この音楽家は、パリ音楽院の卒業生のうち、その創造感覚が出身校の教育によって歪められなかった唯一の生徒であり、『ラ・ペリ』の作者は、これまでに存在したなかで最も高い評価に値する思想家のひとりであり、感嘆すべき技巧家である」

デュカはローマ大賞を獲得できなかったことで、一度は創作活動をやめようと決意したが、再び作曲を始め、1891年に序曲「ポリュクト」で注目されるようになった。翌1892年からは評論活動も始め、数々の雑誌に寄稿した。1895年からは「ラモー全集」の編纂をした。1910年にはパリ音楽院の管弦楽科の教授となり、1927年頃から作曲科の教授も務めた。また、パリ音楽院だけでなく、エコール・ノルマルでも教えるようになった。教師として多くの優れた音楽家を育てあげたが、そのなかにオリヴィエ・メシアンがいる。デュカはメシアンに鳥の声を聴くように助言した。

デュカはベートーヴェンを理想とし、フランクを精神的な師としていたため、ヴァーグナーにも、また、フランクの弟子であり、スコラ・カントルムの設立者でもあるヴァンサン・ダンディにも惹かれていた。デュカの音楽は、ベートーヴェンやヴァーグナーといったドイツ=オーストリアの音楽とラモーのようなフランス音楽との間に不断の均衡を打ち立てたとされる。

デュカは徹底した完全主義者として知られる。彼の厳しい批評性は自作にも向けられ、自分にとって不完全と判断した作品はすべて破棄してしまった。このため、現存する作品はわずか15作品しかないが、それゆえに残された作品はどれもが高い完成度を示している。

デュカとパリ音楽院時代に同門であり、親友であったドビュッシーは、デュカのピアノ・ソナタについて次のように書いている。

「デュカース氏にとって、音楽は、形式の無尽蔵な宝庫であり、想像力の支配がおよぶぎりぎりまで楽想を練りあげることを氏に許す記憶――あり得る限りの記憶の、汲みつくせない泉である。氏は、感動を意のままに御すことができ、それが騒々しい空さわぎにおちこむのを避けるにはどうすればよいか、知っている。だから氏は、非常に美しいものをやたらしょっちゅう台なしにしてしまうあの過剰な展開に、けっしてふけらない。このソナタの第三部をごらんいただきたい。きわめて絵画的な外見のおくに、或る力が見出されるだろう。その力は、鋼鉄の機械がもつ無言の確かさで、この曲のリズムの幻想をじぶんの自由にする。同じ力が終楽章をみちびく。そこでは、感動を配分する芸術が、能力のすべてをあげて立ちあらわれる。感動が<構成する力をもつ>とさえ言ってよい。なぜならそれが、建築の完璧な線――大気と空のあやなされた空間に和してきずかれ、全体のゆるぎない諧調にしたがってその空間に身をささげる線――にも似た美しさを、喚起するのだから」

→オルネラ・ヴォルタ編「エリック・サティ文集」(白水社)
→「ドビュッシー音楽論集」(岩波文庫)