むらぎものロココ

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エリック・サティ

2007-02-13 00:07:47 | 音楽史
Satieサティ・ピアノ作品集2
諧謔の時代より
 
 
高橋悠治(Pf)、水野佳子(Vn)

エリック・サティ(1866-1925)はオンフルールに生まれた。4歳のとき家族はパリに移るが、母の死後、サティは再びオンフルールに戻り、祖父母のもとに預けられた。8歳になるとサティはオンフルールにある聖レオナール教会で音楽の手ほどきを受け、1879年にはパリ音楽院に入学したが、成績は悪く、教授たちからは才能がないとみなされた。サティも音楽院に馴染めず、1886年にパリ音楽院を退学した。その後、軍隊に入隊するが、すぐに嫌気がさし、わざと病気に罹ってやめてしまう。1888年にはカフェ「黒猫」のピアニストとなり、モンマルトルで暮らすようになった。1889年にはパリの万国博覧会でルーマニア、ハンガリーの音楽を聴き、影響を受けた。1890年にはペラダンと出会い、翌年に「神殿と聖杯の美的薔薇十字宗団」の楽長職を引き受けたが、ペラダンの弟子とみなされたことに腹を立て、袂を分った。1891年にはドビュッシーと出会い親交を深めた。1893年には「メトロポリタン芸術教会」を設立したが、この組織はサティ自身のためのものでしかなかった。1898年からサティはパリ郊外のアルクイユに移った。この頃から、昼はアルクイユ急進社会党委員会や子供に音楽を教えるなどの仕事をし、夜はモンマルトルのカフェで、ヴァンサン・イスパの伴奏をしながら数多くのシャンソンを作曲した。1905年にはスコラ・カントルムに入学して対位法を学び、1908年に優秀な成績で卒業した。1909年には「宗教に属さない信徒救済会」の創立に参加したが、翌年に退会。1911年には独立音楽協会のコンサートでサティの作品が演奏され、次第に名が知られるようになった。1917年にはバレエ「パラード」が初演された。コクトーが台本を書き、サティが音楽、ピカソによる舞台装置、そしてディアギレフのロシア・バレエ団による興行はスキャンダルを巻き起こした。このことをきっかけにサティはヴィユ=コロンビエ座の演奏会企画者となり、のちに「六人組」と呼ばれる若い音楽家たちと交流を持った。1921年頃にはダダイストたちとの交流があり、1923年にはサティを慕う若い音楽家たちがアルクイユ派を結成、1924年にコクトーや六人組と絶交、この年、サティは二幕物のバレエ「本日休演」とルネ・クレールの映画「幕間」の音楽を担当、「幕間」には出演もした。「本日休演」と「幕間」はどちらもピカビアが原案を担当した。「幕間」にはマン・レイやデュシャン、オーリックなど当時の前衛芸術家が勢ぞろいした。この映画はラクダに先導された葬列から棺桶が飛び出し、パリの街路を滑っていくというもので、棺桶は次第に加速していき、映画は断続するイメージがめまぐるしく展開するものとなる。最後は魔法の杖によってすべての事物(FINという文字さえも)が消されていく。ピカビアはこの映画について「『幕間』は大したことを考えてはいない。せいぜい生きるよろこびくらいのことだ。この映画は発明するよろこびを信じている。哄笑する欲望以外のものは何一つ尊敬していない……」と書いた。アド・キルーは「幕間」を「よろこびと生命の映画である。心臓の鼓動の確認であり、死への嘲笑である」と言っている。
そして1925年、サティは腹膜炎で死去した。

ジャン・コクトーはサティを「ぼくの学校の先生だった」と言い、サティと出会い彼に従ったことを、ラディゲとの出会いとともに「他人に誇れる唯一の栄光」と言っている。コクトーはサティについて次のように言っている。

「自己中心的で残酷で偏執狂的な彼は、自分の主義に光彩を添えるものの他には一切耳を傾けなかったし、それを混乱させるものには凄まじい怒りを浴せかけた。自己中心的、彼は自分の音楽のことしか考えなかったからだ。残酷、彼は自分の音楽を敵から守っていたからだった。偏執狂的、彼は自分の音楽を磨いていたからだった。そして彼の音楽は繊細優美だった。つまり彼は彼なりの流儀で繊細だったのだ」

ジョン・ケージはサティのユーモアを愛した。彼にとってサティの音楽は「茸のように汲み尽くしがたい」ものであり、ケージはサティから「自分を新たにしつづける必要」を学んだ。サティの経歴をたどってみれば、彼がいくつもの組織に加わりながらも、すぐにそこから離れていったことがわかる。「かれはひとりで生きた。あたらしい道へ出発するとき、かれのふるい活動に協力したともだちはおきざりにしていった」と高橋悠治は言う。

サティのユーモアについてはジャンケレヴィッチが次のように書いている。

「ときに音楽は、《逆》ではなく、《別のこと》を表現する。サティでは、ユーモアとひとを戸惑わせる見せかけがその役を演ずる。ユーモアは、耐える力をもっている。ユーモアはアリバイであり、重大なことをたわむれながら言うことを可能とする口実だ。ユーモアは、要は、真剣である風をしないで真剣であるひとつの仕方だ」

ケージは「サティのユーモアは音楽の中にではなく、言葉の中にある」という。確かにサティは自分の作品に奇妙な題名をつけたり、ナンセンスな詩や謎めいた指示を楽譜に書き込んでいる。高橋悠治は「音楽は音だけではない。それは題や、説明や、行間のことばをふくむこともできる」として、これらの言葉がある態度を要求しているとして次のように言う。

「ひびきをみしらぬものとして、ムジャキなおどろきをもって、おずおずとためしてみること。なれた手つきで感情をもてあそび、音に酔わせ、みずからも酔う名人芸ではない。アマチュアの態度だ」

それでは、サティの音楽とはどのようなものなのか、高橋悠治は次のように言う。

「かれのは、まずしいものの芸術だ。手近な最小限の材料でできている。あるいは、ありあわせの材料から不必要な身ぶりをはぎとることでなりたっている。それがもつものからでなく、そこにないものによって定義される音楽」

そしてサティの「天の英雄的門の前奏曲」を例にとりながら、次のように言う。

「これは白の音楽だ。つめたく、なにもかたりかけてこないかわりに、わずかな変化が、きくものの自発的な意識をさそいだすようにしくまれている。退屈のおもいがけないふかみのなかに、めいめいが自分の顔をみつける」

「3拍や4拍のながさの細胞のつながりによってできているこの音楽は、対位法、メロディーの一貫性、和声法をもたないモザイクだ」

ジョン・ケージは1948年にサティを擁護する講演をおこなった。この講演のなかでケージは、音楽作品における構造とフォルム、そして方法と素材をめぐって議論を展開しているのだが、ケージによれば、音楽作品の持つ機能は「本来矛盾する様々な要素を共存させていくこと、原則的な要素と自由な要素をひとつに融合させること」であり、原則的な要素を構造に、自由な要素をフォルムに対応させているが、サティ(そしてウェーベルン)を、従来の和声構造にかわって時間の長さ、つまりリズム構造を発見した作曲家ととらえ、次のように言う。

「構造の領域、部分と全体との関係を決めるというこの領域では、ベートーヴェン以来、たったひとつだけ新しい考え方がうみだされたにすぎない。その新しい考え方は、アントン・ウェーベルンとエリック・サティの作品のなかにみいだすことができる。
ベートーヴェンはひとつの曲の部分を和声という手段で決めた。サティとウェーベルンは時間の長さによってその部分というものを決定していった」

ケージによれば、音は音高(ピッチ)、強弱、音色、持続といった4つの要素によって性格づけられるが、さらに、これらの対極にありながら音にとって必要な同伴者である沈黙が加えられる。沈黙は音の高さやハーモニーといったもので聴くことはできず、時間の長さというものによってのみ聴くことができる。このように、沈黙はその持続によってのみ性格づけられるため、音の素材である4つの要素のうちで持続が、つまり時間の長さが最も基本的なものとなる。サティとウェーベルンは、時間の長さという、音楽の真実を再発見したとケージは言うのである。19世紀末にそれまで音楽を支えてきた調性と和声構造が崩壊し、新たな構造が必要とされたとき、シェーンベルクは十二音技法を生み出したが、それは注意深く和声と調性を回避しなければならないと言う意味において、逆説的に和声と調性に縛られることになった。サティやウェーベルンは、音楽から調性的な関係をとりのぞいたときに残るものは時間の長さであり、それが「音と沈黙のおおもとからうみだされる構造」であることを見出した。
そしてケージは、サティとウェーベルンが「簡潔でもったいぶらない表現」ということにおいて共通していると指摘している。
ここでケージは、パウル・クレーを引用している。

「最も小さなものから始めること。このことはたいへんむつかしいが、また大いに必要なことだ。私はヨーロッパについて、まったく何にも知らない生まれたての赤ん坊のようでありたいし、詩でありたい。
その状態で、きわめて謙虚な試みをおこないたい。微々たる造形的なモティーフをどのような技巧ももちいずに、鉛筆でとらえたい。それは、ほんの一瞬間で充分である。小さなものは容易に、そして簡潔に、描くことができる、たちまちにできる。
それは小さいが、しかし、真実の仕事なのだ。そして、このような小さいけれども独創的な仕事を繰り返してやることによって、いつかは、私の仕事のほんとうの基礎となるだろうようなひとつの作品ができ上がることもあろう」

「音楽はつつましいものでなければならない」とサティは言った。
「つつましい音楽」とは、高橋悠治によれば、「それに注意することなく、存在さえしていないようなもの、平凡なものから、さらに特長をぬきとり、いつまでもくりかえすことによって、白い壁のように引き下がってゆく」ようなものである。

サティは「家具の音楽」を提唱したことで知られていて、次のように書いている。

「『家具の音楽』は本質的に工業的なものである。音楽がなんの役にも立たないような機会に音楽を演奏するのが習慣――慣習――になっている。そんなときには、他の目的のために書かれた「ワルツ」やオペラの「奇想曲」や、なにかそれに似たようなものが演奏される。
われわれが望んでいるのは、「有用な」必要を満たすために創られた音楽の樹立である。芸術はそのような必要には入らない。『家具の音楽』は揺らめきを産み出す。それ以外の目的はない。それは、光、熱、あらゆる形態の「安楽さ」と同じ役割を果たす。

『家具の音楽』は、行進曲、ポルカ、タンゴ、ガヴォット等々と取り替えるのがお得。
『家具の音楽』をリクエストしてください。
『家具の音楽』なしには会合も集会もありえない。
公証人、銀行等々のための『家具の音楽』
『家具の音楽』にはファースト・ネームがありません。
『家具の音楽』抜きの結婚式はありえない。
『家具の音楽』を使わぬ家に入るなかれ。
『家具の音楽』を聞かなかったものは、幸福のなんたるかを知らない。
『家具の音楽』の一曲を聞くことなく寝に就いてはいけませぬ。さもないとよく眠れませぬぞ」

→オルネラ・ヴォルタ編「エリック・サティ文集」(白水社)
→アド・キルー「映画とシュルレアリスム」(美術出版社)
→中条省平「フランス映画史の誘惑」(集英社新書)
→ジャン・コクトー「ぼく自身あるいは困難な存在」(ちくま学芸文庫)
→ジャンケレヴィッチ「音楽と筆舌に尽くせないもの」(国文社)
→ジョン・ケージ「小鳥たちのために」(青土社)
→ジョン・ケージ「サティ擁護」(ユリイカ特集=現代音楽1978年8月号)
→高橋悠治「音楽のおしえ」(晶文社)