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アルマ・マーラー

2007-02-06 02:37:09 | 音楽史
0761203945528Mahler-Werfel/Zemlinsky
Lieder
Cord Garben(pf)
Ruth Ziesak(s), Iris Vermillion(ms)
Christian Eisner(t)

アルマ・マーラー=ヴェルフェル(1879-1964)は、ウィーンに生まれた。有名な風景画家のエミール・ヤーコプ・シントラーの娘であったアルマは、幼い頃から画家や音楽家、文学者たちに囲まれ、芸術的な環境で育った。アルマは父を慕っていたが、彼女が13歳のときに腹膜炎で亡くなってしまう。その後、アルマの母は、シントラーの弟子で「ウィーン分離派」の創設者の一人であるカール・モルと再婚したが、アルマは母と継父を嫌い、心を閉ざすようになってしまった。この頃から膨大なスコアを熱心に読むようになり、真剣に作曲の勉強に取り組み始めた。アルマは幼少の頃からピアノを習い、9歳で初めて作曲するなど、優れた音楽的才能を持っていたが、加えて明晰な頭脳を持ち、様々な芸術にも関心を抱いていた。
アルマはカール・モルのサロンに集まる文化人たちと親交を持つようになり、様々な影響を受けたが、文化人たちの方では、彼女の美しさに魅了されていた。ブルク劇場の舞台監督であったマックス・ブルクハルトや画家のグスタフ・クリムト、作曲家のアレクサンダー・ツェムリンスキーらは指導者としてアルマに様々な影響を与え、アルマは彼らとの間に恋愛関係を持った。
アルマは1895年にヨーゼフ・ラボールに作曲を師事し、1900年からはツェムリンスキーに作曲を学ぶようになった。ツェムリンスキーとは結婚を考えたほどであったが、マーラーと出会ったことで彼女の人生は大きく変わり、1902年、アルマはマーラーと結婚した。結婚の直前に、アルマはマーラーから「私の音楽をあなたの音楽と考えることは不可能でしょうか」と言われた。二人のうち作曲家の役割を担うのはあくまでもマーラーであり、アルマはマーラーから作曲を禁じられてしまう。アルマはこの要求を受け入れはしたが、決して許しはしなかった。
二人の結婚生活はうまくはいかなかった。アルマはしばしば情緒不安定になり、飲酒癖がひどくなっていった。1910年にアルマは神経症の治療のため療養に出かけるが、そこでバウハウスの主宰となる建築家ヴァルター・グロピウスと出会い、関係を持つようになった。このことはマーラーの知ることとなり、彼はフロイトの精神分析を受けるなどして、夫婦間の関係の修復を図った。アルマに禁止していた作曲を許し、彼女の作った歌曲を賞賛し、歌曲集の出版もした。しかし、二人の関係は修復されることなく、マーラーは自筆譜に悲痛な言葉を書き連ねることとなる。
マーラーの死後、アルマはグロピウスと結婚することとなったが、画家のオスカー・ココシュカや作家のフランツ・ヴェルフェルとも関係を持ち、グロピウスとは1920年に離婚、その後しばらくしてヴェルフェルと結婚するが、ナチの台頭により、アメリカに移住した。アルマはヴェルフェルの死後もそのままアメリカで暮らし、有名な芸術家たちと愛の遍歴を重ねた伝説的な女性として生き、その生涯を閉じた。
アルマ・マーラーの歌曲は17曲が現存している。そのうちの14曲はすでに1910年、1915年、1924年に出版され、2曲は2000年に公開された。残りの1曲はまだ非公開のままである。彼女の歌曲はツェムリンスキーの影響を強く受け、半音階的でめまぐるしい転調を特徴としている。また、表現主義的で強い表出力を持ち、濃厚なロマンチシズムと官能性に満ちている。

→H-L・ド・ラ・グランジュ「グスタフ・マーラー失われた無限を求めて」(草思社)


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