むらぎものロココ

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カミーユ・サン=サーンス

2007-01-03 16:57:09 | 音楽史
Saint_no3SAINT-SAENS
SYMPHONY NO.3 "ORGAN"
 
CHARLES DUTOIT
ORCHESTRE SYMPHONIQUE DE MONTREAL

カミーユ・サン=サーンス(1835-1921)はパリに生まれた。2歳半からピアノを弾き始め、4歳の頃には作曲するなど、モーツァルトに匹敵する神童ぶりを発揮し、10歳の頃には公の場で演奏するようになっていた。13歳でパリ音楽院に入学し、オルガンと作曲を学ぶ。優秀な生徒ではあったが、ローマ賞には縁がなく2回落選した。
1853年にパリのサン=メリ教会のオルガニストになり、1858年からはマドレーヌ聖堂のオルガニストを20年間つとめ、最高のオルガニストとしての名声を得た。
また、サン=サーンスは1861年から65年までニーデルメイエールの宗教音楽学校のピアノ教師をつとめたが、そこではピアノだけでなく、リストやヴァーグナーのような新しい音楽を紹介したり、作曲も教えたりした。彼の生徒の一人にフォーレがいて、フォーレとは長年にわたって交友関係を持ち続けた。
サン=サーンスは音楽のほか、ラテン語、数学、天文学、考古学、詩などにも多面的な才能を示し、また世界中を旅行したことでも知られている。
1921年、療養のために訪れていたアルジェで死去。

サン=サーンスは1850年代から器楽の分野で作曲活動を始めたが、彼の室内楽作品に対する聴衆の反応はよいものではなかった。サン=サーンスのように16世紀のフランス音楽がそうだったような器楽の伝統を復興しようという考え方はなかなか受け入れられなかった。1871年にフランス国民音楽協会を設立してからも、サン=サーンスは批判の矢面に立たされ、リストから影響を受けて作曲した一連の交響詩は野次やブーイングに迎えられた。しかし、リストの支持や広範囲で精力的な演奏旅行の結果、フランス以外の国でサン=サーンスの名声が高まっていったことで、次第にフランスでも受け入れられるようになっていった。そしてサン=サーンスは1886年に自己の集大成的な作品である「交響曲第3番」を完成させた。

サン=サーンスの音楽は、感情表現よりも音楽の形式を重視し、優美な輪郭を持ち、調和の取れた、かつてのフランス音楽の伝統に回帰することを目指した。その古典的な作風は、節度を保ち、明晰で繊細であった。
マルセル・プルーストは1895年にパリ音楽院でおこなわれたサン=サーンスの演奏会について、それが多くの聴衆を失望させたとしながら次のように書いている。

「真の美しさというものはロマネスクな想像力の期待に応え得ない唯一のものである」

プルーストは聴衆の失望の原因が、サン=サーンスの見事な演奏にあったとし、「美は真実と結びついているので、巧妙、卑俗、官能、気取りといった魅力を自分勝手に用いることができない」からだとした。また、プルーストはサン=サーンスの演奏ぶりについて、ピアニッシモやフォルテシモの極端なコントラストもなければ、身体の動きもなかったとして、それがリスト的な魅せる演奏とは正反対であった様子を記しているが、それゆえに王者の演奏であるとして絶賛した。また別の文章では、サン=サーンスの音楽について次のように書いているが、サン=サーンスの音楽の特徴を的確に表わしている。

「音楽の手段ではなく、音楽的言語の手段だけに甘んじて、神か悪魔がするように世界を音楽のなかに収め、音楽を和声のなかに収め、パイプオルガンの全音域をピアノの狭い音域に収めて興じる」

「かれは伝統、模倣、知識の限られた領域と思われていたもののなかで絶えず創意と天才を爆発させる」

1861年にはヴァーグナーを拒否したフランスの聴衆も、1885年以降はヴァーグナーを熱狂的に受け入れるようになり、サン=サーンスの古典主義的な音楽は時代遅れの保守的なものとみなされるようになった。サン=サーンス自身も晩年にはドビュッシーやストラヴィンスキーの音楽を認めなかったため、保守派の長老として若い世代の音楽家から批判を受けるようになっていった。

ヨーロッパのみならず、アフリカ、アジア、ラテン・アメリカまで旅行したサン=サーンスをドビュッシーは次のように揶揄している。

「誰かサン=サーンスに、おまえはもう十分に音楽は書いてしまったんだし、おくればせながら探検家の使命をまっとうしたほうがよくはないか、と言ってやるくらい彼を愛している人が、いないものですかね?」

エリック・サティもまた、次のようにサン=サーンスをからかっている。

「いや、サン=サーンスはドイツ人ではない…… ただちょっと頭が《硬い》だけ…… そしてなにもかも誤って理解する、それだけのことだ…… 
ただ彼は本気なのだ、呆れたことに…… 彼の年齢になれば、言いたいことを言うものだ……
だからといってどうだというんだろう?」

「あの偉大な愛国者であるサン=サーンス氏にも《進歩派》の時代があった。その《進歩派》時代が昨日とかおとといとかでないのは確かだ。サン=サーンス氏があらゆる範疇の音楽家たちのためになにをしたかはわれわれも知っている。いや、まったく!あのサン=サーンスのおっさんは《いいやつ》じゃない。《やらずぶったくり》というやさしい金言を、彼はどんなに実行するすべをこころえていることか。なんてチャーミングな人なんだろう!社会主義者を嫌う人がここにひとりいる。もっとも、そのほうがいい。そう思わない?」

1908年サン=サーンスは「ギーズ公の暗殺」という映画のために曲を書き下ろしたことから、世界最初の映画音楽の作曲家としても知られている。
この映画は1908年にパリで設立されたフィルム・ダール社が製作したもので、シャルル・ル・バルジとアンドレ・カルメットが共同で監督した。16世紀の宗教戦争を背景に、新教徒とカトリック派の勢力均衡を図るアンリ三世が、熱烈なカトリック派であるギーズ公を暗殺した事件を映画化したものであるが、このような、歴史的に有名な主題にもとづいて作られた演劇的な芸術性を持つ映画は総称して「フィルム・ダール」と呼ばれるようになった。「フィルム・ダール」にはアナトール・フランスのようなアカデミーの作家たちがシナリオを作り、サラ・ベルナールをはじめとするコメディ=フランセーズの舞台俳優たちが出演し、サン=サーンスらが音楽を担当するという、今見れば、舞台をそのまま撮影しただけの退屈なものであるが、その当時は、映画を見世物から芸術へ高めようとする、文化国家フランスの威信をかけた試みであった。

→「プルースト評論選2芸術篇」(ちくま文庫)
→「ドビュッシー音楽論集」(岩波文庫)
→オルネラ・ヴォルタ編「エリック・サティ文集」(白水社)
→中条省平「フランス映画史の誘惑」(集英社新書)


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