むらぎものロココ

見たもの、聴いたもの、読んだものの記録

セザール・フランク

2007-01-02 20:41:49 | 音楽史
FranckFRANCK PIANO QUINTET
LISZT PIANO PIECES
 
SVIATOSLAV RICHTER
BORODIN QUARTET

セザール・フランク(1822-1890)はベルギーのリエージュで生まれた。フランクをリストのようなピアニストにしたいと考えていた父は、幼い頃からフランクにピアノを習わせた。彼も優れた才能を示し、12歳でリエージュの音楽院を卒業すると、その翌年には家族でパリに移り住み、1837年にパリ音楽院に入学した。フランクはそこで作曲とピアノ、そしてオルガンを学んだが、次第にピアニストになることよりも作曲に関心を持つようになっていった。それを知った父は音楽院から彼を強引に退学させてしまい、フランクは仕方なくピアニストとしていくつかの公演をしたが、あまり評判にはならなかった。
1844年、フランクは再びパリに行き、ピアノ教師や聖クロチルド教会のオルガン奏者としての生活を始めた。この頃からオラトリオなど宗教音楽を作曲し、一部の音楽家の間で知られるようにはなっていたが、一般的にはまったくの無名で、生活も決して楽ではなかった。
1871年、フランクはサン=サーンスやフォーレらとともにフランス国民音楽協会を設立した。設立の背景には普仏戦争におけるフランスの敗北があった。この協会は「Ars Galica(ガリア人の芸術)」をスローガンに、ドイツ音楽に対抗できるフランス独自の器楽音楽を創造することを目的とし、それまでグランド・オペラとサロン音楽ばかりだったフランスの音楽界に大きな変化をもたらした。この協会の設立以後、フランスでは学生に与えられる課題にすぎなくなっていた交響曲や室内楽が再び作曲されるようになり、数多くの名曲が生まれた。
1872年、フランクはパリ音楽院のオルガン科教授となり、ヴァンサン・ダンディ、ショーソン、デュパルク、ヴィエルネら数多くの弟子を持った。彼らはフランクの高潔な人柄を慕い、フランクのために献身的な努力を惜しまなかった。彼らはフランキストと呼ばれ、国民音楽協会内で次第に大きな勢力になっていくとともに、後に印象派と対立するようになる。
フランクは1885年にレジオン・ドヌール勲章を受け、その翌年にはパリ音楽院の院長になり、また、サン=サーンスにかわって国民音楽協会の主宰となった。

フランクの音楽はリストやヴァーグナーに影響を受け、半音階進行や循環形式(多楽章の曲を共通の主題を使って全体を一貫したものにまとめていく手法)に伝統的な対位法を合わせたもので、オルガン音楽やオラトリオ、室内楽や交響曲の分野ですぐれた作品を生み出した。1879年に「ピアノ五重奏曲」を完成させ、その形式美と高密度な音楽性が高い評価を得ると、1886年には有名なヴァイオリニストであったイザイの結婚記念日を祝うために「ヴァイオリン・ソナタ」を献呈した。このソナタは19世紀後半を代表する傑作とされている。1888年には弟子のデュパルクに献げた「交響曲ニ短調」を完成させた。これは初演当時には激しい批判を受けたものの、今では「新しいフランスの音楽の創造」という、国民音楽協会の悲願の達成として受け止められている。1890年には「弦楽四重奏曲」が高い評価を得たが、その直後に、フランクは馬車で事故に遭い、それが原因の腹膜炎で死去した。68歳であった。

ドビュッシーはフランクの音楽に対する高潔な態度について次のように言っている。

「フランクは、人生から借りうけるものを、ついには名をすてるまでにいたる謙遜な態度で、芸術にかえす」

「セザール・フランクにあっては、不断の信仰が音楽に献げられる。そしてすべてをとるかとらぬかだ。この世のどんな権力も、彼が正当で必要とみた楽節を中断するように命じることはできなかった」

また、次のように言うとき、ドビュッシーはフランクの音楽がその高潔さや律儀さによって、時に冗長なものになることも指摘している。

「彼がうまく<はじめた>ときは、聴くほうも安らかな気持でいられる。だが時として彼は、自分の言いたいことがなかなか見つけられなくなる。彼の天才は、極度に錯綜した奇妙なごたまぜのなかで息切れしてしまう。脆弱ゆえにではなく、劇的ないし、華麗な、だが長つづきしない躍動によって、遮断されてしまうのだ。というのも、彼の律儀な単純さが、しかじかの手法に嫌悪をもよおすからである」

→「ドビュッシー音楽論集」(岩波文庫)
→岡田暁生「西洋音楽史」(中公新書)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿