むらぎものロココ

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リヒャルト・シュトラウス

2007-01-22 01:22:26 | 音楽史
Photo_2Richard Strauss
Don Juan/Metamorphosen/Tod Und Verklarung
 
Christoph von Dohnanyi
Wiener Philharmoniker

リヒャルト・シュトラウス(1864-1948)はミュンヘンに生まれた。彼はミュンヘン宮廷歌劇場のホルン奏者であった父親から音楽教育を受け、6歳で初めて作曲するなど、優れた音楽的才能を示した。少年時代からミュンヘン宮廷歌劇場のリハーサルに加わり、音楽理論やオーケストレーションを歌劇場の副指揮者から学んだ。10歳の頃、シュトラウスはヴァーグナーの「ローエングリン」や「タンホイザー」を聴き、強く影響されるが、保守的な父親からヴァーグナーを研究することを禁じられた。1882年にミュンヘン大学に入学し、哲学と美術史を学ぶとともに、ベルリンでハンス・フォン・ビューローの副指揮者となり、1885年にはビューローの後を継いだ。この頃までのシュトラウスは、父親から学んだシューマンやメンデルスゾーンのような音楽をつくっていて、保守的な作風であったが、アレクサンデル・リッターと出会ったことで作風が変化した。シュトラウスはリッターの影響でヴァーグナーやショーペンハウアーの著作を読むようになり、今までの作風を変え、交響詩を作曲するようになった。彼はベルリオーズ(シュトラウスはベルリオーズの「管弦楽法」の改訂版を出版した)とリストをモデルとし、色彩豊かな管弦楽と主題変容を用い、標題はシェイクスピア(「マクベス」)やセルバンテス(「ドン・キホーテ」)、あるいはニーチェ(「ツァラトゥストラかく語りき」)など、文学を題材にしたものが多いが、「死と変容」や「英雄の生涯」のように、自己の体験に基いたものもある。シュトラウスの交響詩は大規模なオーケストラを自由に支配し、それが放つ大音響で聴衆を圧倒するものであり、クライマックスを最初に持ってくることで聴き手を一気に音楽の世界へ引き込むが、音楽が進むにつれて次第に力を失い、諦念に満ちた虚無を示して終わる。

リスト以降の交響詩の代表的な作曲家としての地位を確立したシュトラウスではあったが、彼は1900年頃から交響詩ではなく、オペラの作曲に転じた。モーツァルトの歌劇とヴァーグナーの楽劇を受け継ぐべく、交響詩の作曲で得たものをオペラに導入した。最初の作品こそ失敗に終わったが、1905年の「サロメ」で成功を収め、「エレクトラ」以降、詩人で劇作家のホフマンスタールと共同で次々とオペラを生み出していった。

ホフマンスタールは「チャンドス卿の手紙」のなかで、「抽象的な言葉が腐れ茸のように口のなかで崩れてしまう」とか、「すべてが部分に、部分はまたさらなる部分へと解体し、もはやひとつの概念で包括しうるものはありませんでした」と書き、言語表現の不可能性、言語秩序の崩壊といった危機的状況をとらえたが、彼が詩作を放棄し、劇作へそしてオペラへと向かったのは、言語に対する不信感とそれを乗り越えるべく言語に魔術的な力を与えるために、身体表現や音楽表現との融合を必要としたからにほかならない。

ヘルマン・ブロッホは次のように書いている。

「言語の象徴圏に生きる者は、自分が構想し、それによってある特定の内容上の真理(抽象的な形式的な真理ではない)を表現しようとする一つ一つの文章でもって、その真理を言語によって把握し描写するには単なる論理的首尾一貫性だけではだめであって、それに加えて芸術のおそらくより高次で、おそらくより深遠な論理に訴えて、芸術の構成様式中に表現の必然的妥当性と説得力とが作り出されねばならぬことを知るのである」

「ホフマンスタールは文学の論理中に音楽の構成様式を、つまり言語的なものの中へ音楽的なものが侵入していることを、言語の中に音楽的な表現世界が遍在的に共鳴していることを聞き取った。この音楽的表現世界は言語を乗り越えながら、それでいて言語の中に含まれ、言語に「可視的不可視性」の認識実質をかし与えるものである。「音楽以外のどんな芸術がこれを表現できましょうか。天の一小片をもぎ取って、自分の中にもぎ入れることが?」とホフマンスタールはリーヒャルト・シュトラウスにあてた手紙のある個所でこう述べている。音楽は言語にとっては解釈不能なものであるが、しかも、両者の構成様式の共通性から、音楽は言語にその意味を伝達する。それは解釈不能な融合であるが、しかも音楽の中に統一の意味結実性がはたらいていて、音楽の神秘として暗示されるのである」

「「魔術的な仕方で言語を解放しようとの試みは、言語批判よりは聡明で、かつ美しい。愛情の場合だってそれと同じだ」と述べたとき、ホフマンスタールはたぶん沈黙を再び言葉たらしめようとしたのだろう。愛の魔術は沈黙の了解であり、愛が話す場合、それは語の魔術的解釈であり、それは文学であり、音楽である」

「「真実の言語愛は言語否定なしにはありえない」し、まさにこの言語否定(それはもちろん言語絶望と紙一重のものである)をもって音楽の魔術自身が呼び出され、(そのために呼び出すことのできる唯一つの法廷)、それが助けに呼ばれて、その魔術が―作家を罷免し、作家は英雄的に断念する―言葉の作曲をいま一度作曲し、話の最終的説明を引き受けるのである。それは演劇からオペラへの重要な一歩であり、テキスト考案者からテキスト作者への一歩、言語不信から言語絶望と言語愛への一歩であるが、同時にまた、いま一度自己自身を乗り越える成長を自らのうちに包含し、まさにそれゆえに演劇の最後の様式高揚にほかならぬ一歩でもある。そしてまさにそうであったればこそ、ホフマンスタールの様式概念は、ピュタゴラス的にいっさいを包含するその秩序像は、こうしたラジカルな仕上げ、言語のこの音楽的解体を熱望したのである」

そしてシュトラウスも音楽が効果的な楽想の連続体となり、ソナタ形式のような古典的な音楽形式や調性感が解体されていった状況に直面していたのであり、彼は音楽のドラマ化において、不協和と協和、反音階と全音階、不安定と安定、テンションと解決といった、音楽の持つ二極性を効果的に利用して、性格を描写し、ドラマを伝えた。この手法は映画音楽に受け継がれている。

こうしたシュトラウスの手法についてマーラーは次のように言っている。

「僕は耳障りな響きをいつも避けようとし、可能であれば(まさにこの箇所で、僕がそうした響きをすべて排除したように)後からでもそれを排除しようとあらゆる努力をするのに、彼は不快な響きを自己目的として、ただ目立ったり、薬味を効かせたりするためだけに考え出すのだ」

あるいはアドルノは次のように言っている。

「シュトラウスは彼の良くない純朴さ、合意への見返りとして、商品的な映画音楽との妥協で終わってしまった」

シュトラウスは指揮者としても有名で、ミュンヘン、ワイマール、ベルリン、ウィーンでの指揮活動のほか、各国の一流オーケストラの指揮もした。カール・ベームやジョージ・セルはシュトラウスの弟子であった。1896年にはミュンヘン宮廷歌劇場の首席指揮者となり、1933年から35年までは帝国音楽局の総裁を務めた。1945年にシュトラウスは「メタモルフォーゼン」を作曲し、戦争で荒廃したドイツを嘆き悲しんだ。第二次大戦終了後、シュトラウスはナチスに協力したかどうかで裁判にかけられたが、結果は無罪となった。すでに時代遅れの作曲家とみなされていたものの、彼は戦後も音楽活動を続け、その人気は衰えることがなかった。

→岡田暁生「西洋音楽史」(中公新書)
→パウル・ベッカー「西洋音楽史」(新潮文庫)
→フーゴー・フォン・ホフマンスタール「チャンドス卿の手紙」(岩波文庫)
→ヘルマン・ブロッホ「ホフマンスタールとその時代」(筑摩叢書)
→テオドール・W・アドルノ「マーラー」(法政大学出版局)
→N.バウアー=レヒナー「グスタフ・マーラーの思い出」(音楽之友社)
→Burkolder/Grout/Palisca A HISTORY OF WESTERN MUSIC
(W.W.Norton & Company)


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